2.音を立てても、いいんだぞ?
とにかく、あの怪物の相手をするというのは、得策ではない。だから、彼女はこのビルから抜け出すことを第一に考えた。
たとえここから抜け出せたとしても、ソレを撒くことができるかはわからない。しかし、外に出るという行為を優先させることに、彼女は十分な理由を見出していた。
一つはその特殊な攻撃手段にある。
ソレに物理的な干渉が効かないように、ソレもどうやら物質に直接触れることは不可能らしい。しかし人間を殺す能力があることは明白であった。別に幽霊よろしく、人を呪い殺す能力がありそうだからだとか、そんな理由ではなく、奴が強烈な風を起こせるからだ。
風は様々な物体を吹き飛ばせるようで、あまりにも重い――例えばこのビル自体は絶対に吹き飛ばせないだろうが、しかし、先ほど30キログラムほどはありそうなテーブルを宇喜多に向かい軽々と飛ばしてきた。吹き飛ばすスピードも十分であり、あのピンポン玉のように弾け飛んだテーブルは、殺人兵器として十二分な働きがあるのだろう。
すなわち、家具や小物の多いこのビルでは、あまりにも分が悪い。よって、ソレの武器になりうる物体が溢れていない外の路地裏などでは、対等とまではいかないだろうが、それでも今よりも十分有利に対峙できるのではないかと。それが一つ目の理由であった。
もう一つは、援護が駆けつけてくれているのではないかという、淡い期待にあった。また、来ていないにしろ、地上では通信が上層部とも繋がるかもしれない。
とにかく、彼女にとってこのビル内ではあまりにも分が悪すぎる。だからこそ、ここから早く抜け出さなくてはならない。
――しかし、どうやって?
どうにかして奴の追跡を逃れ、この柱の裏に隠れているというものの、無駄に開けているこのビル内では、無闇に動けばすぐに見つかってしまうだろう。そうすれば辺り一面の物体を総動員し、またあの生きた心地のしない追いかけっこを、強制的に仕掛けられるに違いない。
小物を遠くに投げて、物音を立てた隙にゆっくりと進行するというのはどうだろう。だがしかし、ソレの特性がよくわかっていない以上、その作戦が多大な危険性を孕んでいる可能性も否定できない。もし奴の視野が360度にあったりしたら、命を刈り取る悪魔に、自らの居場所を吐く愚行を犯してしまうことに他ならない。
ではどうやって……
短い時間で脳をフル回転させ、ああでもない、こうでもないと、色々思案し、宇喜多が導き出した方法は、ズバリ、「バレないように歩く」という随分シンプルで、曖昧なものであった。
柱の陰から、ソレの様子をちらりと見る。
宇喜多からは大体三十メートル離れた距離で徘徊しており、動く速度は、大体人の歩くそれと同じくらい。どうやら誰かを追いかけるときのみ移動速度を上げるらしい。
今現在、奴はこちらとは反対方向に向いているように思われる。間違いない。今がチャンスだ。
一つ、小さく深呼吸をする。
そして奴の目が節穴であることに賭けて、宇喜多は出口へと繋がるこの階の階段へ向けて、物音を立てないようゆっくりと歩き出した。もちろん、愛銃を抱えながら。
ソレに見つからないよう、できる限り体を小さく、腰を屈めながら、柱や商品棚を伝い体を隠しつつ、歩いていく。体を奴のいる方向へと少し晒すこともあったが、気づかれてはいないみたいだ。どうやら視界は前方のみらしい。
幸運なことに、階段は奴のいる方とは反対方向に位置している。よって、このまま何か想定外の事態さえなければ、安全に外に出られるはずだと、宇喜多は思い始めていた。
ソレの向きや動きを確認しながら、とにかく慎重に前へ進んで行く。どこまで進んでいっても、やはり気づかれているような素振りはない。
何だ、意外と簡単に逃げられるじゃないか、と宇喜多は考える。
進み続けて10分程度が経過したところで、ようやく建物の壁側に到着した。その壁に沿って目を向けていくと、待ち望んでいた、外へと続く階段が確認できた。その距離は、ここからおよそ30メートル程度。壁の反対側には、宇喜多の姿をソレから隠すように、商品棚がズラリと並べられていた。
先程までは激しく脈を打っていた心臓も、ようやく落ち着きを取り戻した。
そう言えば、と壁側に設えられている大きめの窓から外を見渡す。しかし、地上に他の特殊部隊員を見つけることはできなかった。
すなわち、増援は無いと考えるのが妥当だろう。もしかしたら、彼女の不在をまだ問題にしてはいないのかもしれない。
しかし、通信が途切れてからもう1時間以上は経過している。そんなことがあり得るだろうか。彼女が音信不通で、部隊に合流ができていないという事実は、間違いなく混乱を招いているはずだ。
このように迷惑を掛けてしまうというのは、優秀な警察官であるはずの宇喜多にとって初めてのことであった。
ヒューと背中側から吹き抜けた風の、確かな冷たさを、強く感じた。
……そう、風の冷たさである。室内なのに。窓も空いていないのに。
もう一つ、今度は強い風が彼女の長い髪を靡かせる。
急にである。一気に、今まで経験したことがないほどの悪寒が、宇喜多の脳裏を駆け巡った。いや、つい1時間ほど前、経験したアレと、同等のものなのかもしれない。とにかく、彼女の全神経が、尋常ではない違和感を検知し、脳味噌に、特大の危険信号の奔流を寄越しているという事実が、そこにはあった。
汗が垂れていく。今度は顔中から何滴も。
恐怖心とは、想像もつかない未知からのみ生じるものであると、宇喜多は今まで考えていた。しかしまあ、既知のものが想像もつかない程の危険性を有していると知っていた場合、その枠からは外れることを、ここでは理解せざるを得なかった。
またしてもゆっくりと後ろを振り向くと、そこにはしっかりと実在していた。
あらゆる道具を宙に浮かせながら、その中央に恒星のように仰々しく佇む、莫大な恐怖心を煽る『ソレ』が、彼女の目の前に存在していた。
「君は……音を立てても、いいんだぞ?」
震えた声で伝えた後、宇喜多は猛スピードで階段の方へ駆けていった。
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