クラック・スナイパー

@okayama3

プロローグ

1.『特異現象』というやつだろうか

 おそらく、眼前の怪異的な存在への物理的干渉は不可能なのだろう。それが十数分にわたる奮闘の末、彼女自身が導き出した答えであった。



 少々くたびれた印象を与える、高さだけが取り柄のようなビルの、高層階の柱の影に身を隠しながら、彼女は再度その超常を目視する。



 全長は2メートル程度だろうか。その人型は、薄汚れた襤褸で覆われており、空いた顔部分は暗く、中を確認することはできない。いや、そもそも中身など存在しないのだろうか。穴から窺えるのは、周囲の光を全て吸収し尽くす深淵、すなわち暗闇であった。



 そして、何よりもソレを超常的、怪奇的たらしめているのが、常に浮遊しながら動く、その様相にあった。更に、辺りを囲う寂れたコンクリートを一切の移動の障害としない。有り体に言えば、ありとあらゆる物体をすり抜けることができるようだった。



 「……『特異現象』というやつだろうか」



 愛銃のスナイパー、M24を片手に座り込みながら、彼女は呟いた。


 

 胴体、頭部、足元まで、あらゆる箇所に銃弾を打ち込んではみたものの、どれも撃退するのに効果があったとは思えなかった。というのも、銃弾がソレを綺麗にすり抜けたからと言えば、理由としては十分であろう。





 ――ところで、この彼女こと宇喜多氏は、特殊部隊員の一員であり、日々日本の治安維持に貢献する、生真面目な警察官である。急ではあるが、ここで一つ、彼女がいかに優秀であるかを示す、エピソードを提示しよう。



 数時間前、都内のある会社のビルにて、小規模なテロ事件が発生した。動機は大金が必要だったからだとか、会社のトップが恨みを買っていただとか、ありふれた理由だったとは思うが、まあ、そんなことはどうだっていい。とにかく、テロ事件が生じたという、それだけの話である。



実行犯達は、上層階の一室に立てこもり、数人の人質と、苦労して手に入れたらしい、ご自慢の拳銃を武器に、特定の要求をしていたようだった。



 だがしかし、残念ながら近年のセキュリティシステムは、そんな彼らを長時間野放しにするほど甘くはない。拳銃を取り出し、テロリズムの意志を露わにしたその瞬間から、ものの十数分で特殊部隊がビルに駆けつけ、瞬きする間もなく、立てこもっていた部屋を包囲してしまった。想定外の状況の中、唐突な部隊の突撃には到底敵わず、実行犯達は次々と拘束されていった。



 しかしながら、特殊部隊にとってのイレギュラーが生じたのは、このまま事が進めば、自体はすぐに終息するだろうと、皆が安堵していたその矢先であった。部隊員に捕らえられていた実行犯の一人が力尽くでその拘束を抜け出してしまったのである。



 そして近くにいた人質を片腕で無理矢理に抱え、拾い上げた拳銃をそのこめかみに突きつけ、隊員達の前に脅すように立った。だからといって、彼に先があるとは到底思えないが、しかし、身の安全を約束したはずの人間を再度危険に晒してしまったことには変わりない。市民を守る警察としては最悪の、完全なる油断、慢心が導いた結果であった。



 再度、現場は緊迫感に包まれる。こうなると、迂闊に実行犯を拘束することはできない。なにか策はないのかと、部隊員達が上からの指示を仰ぐ中で、膠着状態が続いた。





 ――その100メートル程度離れたビルの屋上に、艷やかな長髪を靡かせながら、これまた指示を待つ女性が一人。すなわち優秀な警察官こと宇喜多が、うつ伏せになりながら、馴染み深い自らの愛銃のスコープを覗き、目標へと照準を合わせていた。



 実行犯に片腕で抱えられている、弱々しい初老の男性の後頭部と、彼に黒光りする小さな銃を突きつける大柄の男の後ろ姿。そして現状に対し、静止を続けることしかできない大勢の特殊部隊員達。ビルのガラス越しに、現場の様子を明瞭に把握することができた。



 ヒューと、北風が屋上に吹き込んでくる。特殊部隊員専用の、重厚な装備を着込んでいるというのに、その風の冷たさに、思わず身震いしてしまいそうになる。



それでもストックをしっかりと肩に付け、左手で銃身を支えながら、右手の人差し指を引き金に添えて、ただひたすら指示を待つ。



 その体勢のまま、約2分後。耳に装着していたイヤホンに短いノイズが流れ、それに続き、



 『発砲許可を出す』



 指示が降りた。



 右手の人差し指は、迷いなくM24の引き金を引いた。



 約1メートルのボルトアクション式ライフルから放たれた、70ミリメートル程の弾丸は、空を裂きながら直進し続け、零コンマ何秒かの後に、実行犯の持っていた拳銃のみを見事に撃ち抜いた。



 呆気にとられた実行犯をよそに、銃声に呼応するように、現場の特殊部隊員たちは一斉に突撃し、そしてようやく最後の一人を拘束することに成功した。





 ――どうだろうか。



 すなわち、彼女は射撃を外さない、優秀な警察官、特殊部隊員であり、スナイパーなのである、ということは、十分に伝わっただろうか。



 しかしまあ、そんな些細な事件は、彼女を説明するに当たり都合が良いだけであって、今の彼女自身にとっては、何ら重要ではない。なぜなら、現在彼女は生まれてこの方数える程度しか経験したことのない、紛うことなき命の危機なのだから。



ソレは突然彼女の前に現れた。しかし、前触れがなかったというわけではない。


 

 テロ事件が解決した後、彼女は上層部の指示を聞きながら、屋上から撤退しようと、周りに設置していた道具類を片付けていた。しかし、どうしてかイヤホンから流れる音声には、ノイズが多く入り混じっており、所々理解できない箇所もある程であった。



 電波の調子でも悪いのだろうか、などと呑気に思案していた、ちょうどその時。



 ノイズの量が一気に増加し、遂には完全に指示が聞き取れないほどになってしまった。



 応答願います、と通話を試みるも、一切の返答は聞こえてこない。それとも鬱陶しいこのノイズに、全て掻き消されてしまっているのだろうか。剣呑な思いが彼女の胸中を占めていた。



 ヒューと、先程よりも強い風が彼女の辺りを吹き抜ける。



 するとどうしてだろう。強烈な違和感が彼女を背後から襲った。別に非科学的な事象を直接目撃したというわけでもない。ただ、一つ、強い風が吹いただけである。しかし、それでも、ただならぬものの気配を感じざるを得ない。


 

 屋上から眺められるのは、何ら変わらない、文明化の象徴であるビル街。大勢の日常に溶け込んだそれは、オレンジ色の光を反射しており、どうやら現在が夕方であることを、不気味なほどに強く、主張していた。



 額から一滴、汗が垂れてくる。脂汗というやつであろうか。でも拭うことはしない。脂肪分の混じった、異物であるはずのそれが、顔面を這っていることのほうが、より自然的だと解釈していたからだろう。



 ゆっくりと後ろを振り向く。



 やはり違和感の正体はこれかと、合点がいった。





 これが『ソレ』との初めての顔合わせである。




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