第3話 届かぬ手
霧は晴れ、柔らかい日差しが差し込んでいた。
遠くから羊の鳴き声、薪を割る音が聞こえてくる。
木の柵は影を伸ばし、土の道は乾き始めている。
村はいつも通りのにぎやかな朝を迎えている。
ただ、炭焼き小屋の周辺だけは静まり返っていた。
男はいつも通り、黙って斧を振るっていた。
鈍く乾いた音が響く。
男は薪を割る手を止めると、斧を肩に担いだ。
──カサ
その時、ほのかな薬草の香りとともに、軽い足音が耳に届いた。
村の療師──リナだ。
リナの手は薬草を握ったまま、小さく震えていた。
視線は合わない。だが、それでも一歩だけ前へ出る。
声を震わせ、躊躇いがちに声をかける。
「……あの、これ。疲れに効く薬草で……。少しでも、楽になればって……」
男は一度、足を止めるが、反応はしない。
視線すら向けなかった。
(……またかよ)
(余計なことすんな。踏み込むな)
(……何も、寄越すな)
薬草の香りが鼻をかすめる。
乾いた草の香り──
それがなぜか、焦げた血と汗の匂いに重なる。
その瞬間、耳の奥に声が響いた。
──『隊長!』
──『……後ろは、もう…!』
──『隊長!指示を──!』
頭の奥に、過去の光景が映る。
それと同時に、仲間の声が蘇る。
男は呼吸を浅くし、無言で小屋の扉を開けた。
背後で、リナが立ちすくんでいる気配がする。
それでも振り返らなかった。
(……優しさなんざ、いらねぇ)
扉を閉めると、微かな音だけが小屋に満ちた。
小屋の外には、リナが置き去りにした薬草が、風に揺れていた。
男は斧を立てかけると、椅子に腰を下ろした。
ぎしりと、椅子の軋む音と浅い呼吸の音だけが小屋の中に響く。
立てかけた斧を膝に置き、砥石を手に取る。
静かにゆっくりと砥石を刃に滑らせる。
しゅっ……しゅっ……
砥石が刃を滑る音が小屋に響き渡る。
だが、その手はどこか落ち着きがない。
男はわずかに眉をひそめると、小さく舌打ちをした。
(……誰も、踏み込むな)
小屋の隙間から風が吹き込んだ。
その風にほんの少し焦げた鉄の匂いが混じっている。
男は少し顔を上げ、目を細めると窓の外を睨んだ。
鳥の声が、いつの間にか止んでいた。
森の奥から、葉の擦れる音がひとつだけ、妙に響く。
(……何かが、近づいてきてる)
男は窓から目を離すと、小屋の奥にある剣に視線を向けた。
(……抜く気はねぇ。今は、まだ──)
男は目を伏せると、椅子の背にもたれかかった。
だが、その手は無意識に固く握られている。
胸の奥に、鈍く冷たい重みだけが、ゆっくりと沈んでいった。
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