第2話 揺らぐ朝
朝霧は、まだ村を離れきれずに漂っていた。
木の柵も、濡れた土の道も、ぼんやりと白に滲んでいる。
遠くから羊の鳴き声や薪を割る音が聞こえる。
村は静かだった。
──昨日よりもずっと静かだった。
村外れの炭焼き小屋の裏手。
男は今日も斧を手に、薪を割っていた。
無駄な力みもなく、無表情で。
乾いた薪の裂ける音だけが、澄んだ空気に溶けていく。
子どもたちの姿は、今日は見えなかった。
村人たちも、あからさまに小屋を避けている。
(……面倒くせぇ)
男は心の中で、淡々と吐き捨てた。
それ以上、何も思わなかった。
思わないようにしていた。
斧を振り上げ、また振り下ろす。
鈍く、乾いた音が、ただ村に響いた。
──そのときだった。
遠く、森の方角から、かすかな角笛の音が聞こえた。
その瞬間、男は手を止めた。
──『突撃ー!』
頭の奥に戦場の光景が浮かんだ。
男は無意識に背中に背を伸ばす。
だが、途中で動きを止める。
拳を握ると、顔を伏せた。
(……違ぇだろ、ここは──)
心の中でそう呟くと、斧を持ち直した。
薪を拾い直すと、また斧を振るう。
しかし、手に少しだけ力がこもっていた。
鈍く、鋭い音が辺りに響き渡った。
遠くから子どもたちが、男の様子を伺う。
「……ほんとに、怒ってないかな……?」
「……でも、やっぱ、怖いよ……」
男は無言で、作業を続ける。
手の力みはもうなくなっていた。
斧を肩に担ぐと、空を仰いだ。
白い雲が青い空をゆっくり流れている。
(……まだ、だ。まだ、ここにいられる)
男は空から目を離すと、無言で小屋へ戻った。
斧を立てかけると、椅子に腰を下ろす。
静かな小屋の中に、椅子の軋む音が響いた。
小屋の奥にある大剣に、目がいく。
男は柄にそっと手を触れる。
金属の重みが手に伝わる。
それと同時に、心の奥にも重く沈んだ。
(……剣は握らねぇって、決めただろうが)
男は目を伏せると、剣の柄から手を離した。
椅子に背を預けると、少しだけ目を閉じる。
炭の匂いに満ちた小屋の中で、ただ静かに呼吸を整える。
──忘れろ。
──聞くな。
──思い出すな。
心の奥で、そんな声が微かに反響する。
そのときだった。
──パキ
外から、細い枝を踏みしめる音が、微かに聞こえた。
男は目を開けない。
ただ、耳だけが鋭く反応していた。
(……誰だ)
村の子どもか。
それとも違う何かか。
足音はそれきり続かず、霧と風にかき消えた。
男は目を閉じたまま、拳をゆっくりとほどいた。
(……関係ねぇ)
小さく、心の中で吐き捨てる。
そして再び、椅子の背にもたれかかった。
外の世界はまだ男を呼んでいる。
だが、今はまだ、目を開くつもりはなかった。
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