灰野の悪魔と呼ばれた男

Cana_ta

第1章 名を捨てた男

第1話 剣を捨てた男

朝霧が辺境の村を淡く包んでいた。

木の柵も、濡れた土の道も、ぼんやりと白に溶けている。


遠くで鶏の声がかすれ、犬の吠える音すら霧に呑まれていた。



村外れの炭焼き小屋の裏手。

積み上げられた丸太の前で、男は斧を振るっていた。


無駄な力みもなく、淡々と。

まるでその行為に感情など必要ないと言わんばかりに、一定のリズムで木を裂いていく。



灰色の外套が風で揺れ、銀灰色の髪は湿気を吸い、重たく垂れていた。切れ長の淡青緑色の目は、感情がなく、静かな色をしている。


鍛え抜かれた筋肉を無造作に覆う布地の下から、斧を握るごつごつとした手が覗いていた。

その手には、古傷や火傷痕がところどころ浮かんでいる。



彼の名を知るものはいない。

いや、誰も呼ばせてもらえないのだ。


彼は名乗らず、他人に呼ばせることも許さない。

村人はそれを理解しているわけではない。

ただ、彼がそういう男だと受け入れていた。

無理に踏み込まない。それが、村の掟になりつつあった。




ひとりの若者が、炭の詰まった麻袋を背負って現れた。

だが、彼は斧を振るう男の姿を見ると、足を止めた。


「……あ、あの……これ、取りに……」


声は震え、目も合わせようとしない。

男は斧の手を止めず、低く言い放つ。


「そこに置いとけ。勝手に持ってけ」



「……ひぇ……やっぱ、怖ぇな……」


若者は小声で呟くと、麻袋をそっと置いて、逃げるように去っていった。


何も珍しくはない。いつも通りのやり取りだった。

だが、振り下ろした斧の音が、ほんの少しだけ鋭くなった気がした。


男は薪を積み上げ、肩を回しながら小屋の中へ戻った。

壁際には、大きな両刃の大剣が鞘に収められて立てかけられていた。


刃は磨かれ、革巻きの柄も整っている。

だが、それが抜かれる気配はどこにもなかった。



彼はそれに、わずかに試練が触れそうになり、そっと目を逸らした。


革手袋を外すと、彼は水桶で顔を洗う。



(……剣なんざ、もう握らねぇ)



心の中で呟いた言葉は、誰にも届かない。

届かせるつもりもなかった。




そのとき──



「おじちゃーん!」



甲高い子どもの声が、小屋の外が響いた。

数人の子どもたちが林を抜けて走ってくる。

炭焼き場には近づくなと、何度も言っているのに。



そのうちの一人が、彼の前に立ち止まり、じっと見上げた。



「ねえねえ、おじちゃん、名前なんていうの?」



彼は黙っていた。

焚き火の燃え残りが、まだ耳の奥で燻っている。

灰を巻き上げる風の音だけが、どこまでも遠くへ消えていった。



「……俺の名なんざ呼ぶな」



低く、鋭い声だった。


子どもはびくりと肩をすくめ、目を見開いた。


次の瞬間、何も言わず、ぱたぱたと駆けていく。



(……名なんざ、必要ねぇ)



男は一歩、剣の前に立った。

鞘に収められたそれは、まるで何かを語ろうとしているようだった。だが、男は触れずに背を向けた。




「……誰にも呼ばせるな」

(……あの名で呼ばれるくらいなら)



低く、誰にも届かぬ声で呟いた。



かつて、その名を呼ばれた瞬間に、戦場が始まった。

その名が、命令であり、呪いであり、ちかいでもあった。



だからもう、二度と呼ばせない。

その覚悟だけが、彼を人の形に留めていた。



──今のところは、まだ。

名を捨てたままで、生きていける。



……けれど。

あの声だけは、遠く、灰の向こうで、まだ呼んでいる気がした。



忘れたはずの名を──




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