第4話 栄養と病気とレーゼ

 空を見上げると、ずっと遠くまで空が広がっていて、どこまでも飛び上がれそうなくらい気持ちのいい空だった。それを見ている間だけは地球に居るような気がして、何か思い出せないかと、暫く見つめ続けた。

 けれども思い出すことは出来ず、諦めて視線を焚火に戻す。吸熱魔法を使ってある程度は火を消したけれども、まだ燻っている。それを眺めているのも良い暇潰しになるけれど、今日は恐らくこの後の予定が立て込んでいる。

 水筒の革紐を解いて、折り返してあった口を戻し、親指と人差し指で口を絞る。そのまま傾けて焚火の上に一口、二口分の水を少しずつかけていくと、じゅぅ……じゅぅっ……と冷める音が聞こえた。

 それが聞こえなくなったのを確認して、もう一度口を折り返して革紐で絞る。

 町の方からは仕事の音が聞こえてくる。釘を打つ音。煉瓦を煉瓦の上に置く音。木製の荷車が軋む音。ナイフとまな板がぶつかる音。時刻を知らせる教会の鐘の音。

 もうそんな時間か。

 他の音が少しずつ止む。駐屯兵が西側の城壁の上に集まり、街の人たちは教会の方に少しずつ歩き出し、流れを作っていく。街の中にちらほらと軽装の駐屯兵が出て来て、視線を左右に動かしながら街中を見ていく。

 読んでいた本を拾い上げて、もう一度開いて読み進めていく。今行くと怪しまれるだろうから、もう食後の休憩とは言えない程の時間が経っているけれど、もう一度食後休憩を始める。

 風が木々を揺らして木の葉が擦れる壮大な音を立てる。草が擦れ合って草原を撫でる風の位置を知らせてくる。その音に合わせて、頁を押さえて、通り過ぎた風の波を見送って、もう一度読み始める。

 お尻の所が草と土の水分を吸って少しひんやりと湿る。立ち上がって太陽の方にお尻を向けると、自分の影で本が読みにくく、九十度向きを変えて立ったまま読み進める。立っているだけだと何だか落ち着かなくて、小さい歩幅で歩き始める。無意識に楽な方に歩いていたのか、どんどんと丘を下っており、途中でぐいっと向きを変えて丘を登っていく。登って消えた焚火のところまで戻ると、街の方を向いて城壁の上に駐屯兵が居ないかを確認した。

 途端、先ほどまでの仕事をする音が再び聞こえてくる。少し城壁の外に目を向けると、放牧されていた家畜が囲いの中に戻されていた。

 本を閉じて荷物を整理し、歩き始める。後ろを振り向いて、忘れ物が無いか三秒立ち止まって確認。

 目的地は教会だ。街の中を歩いて、一直線に教会に向かう。教会の左側から近付き、教会の通り道まで来ると左に曲がって正面に向かう。正面の大きな扉は開け放たれていて、一歩入ると教会の中のざわめきが耳に入ってくる。

 木の板に炭で何かを書く子供と、それを見ているシスター。聖堂の椅子やガラス、儀式の道具を掃除するシスター。テーブルの上で、聖典か何かの本を写し書きするシスター。神父、司祭の様な人は見えない。まあ、そこまで大きな町では無いだろう。

 近くで掃除をしていたシスターに近付いて尋ねる。

「他の町でも患者を診たことがあるんだけど。何か困っていない?」

「エルフのお医者様ですか?」

 胸元で手を組んで祈りのポーズをするシスター。少しお辞儀して、窓ガラスからの光に照らされる彼女は、それだけで神聖な、神様の指先である様な気がしてくる。

「いや。ただ、魔法は使える。近くの街の……名前は忘れちゃったけど、目元にほくろがあるシスターの所で何人か診たんだ。私より背が高い人」

「マザー・エルノラ様でしょうか?」

「あー……多分。なんか肌が白い人」

「エルノラ様でございます。あなたの行ないはきっと神が見ておられます。わたくしからも、改めて感謝申し上げます」

 大したことはしていない。あと一歩こうしていれば助かった命に対して、あと一歩だけ手助けしただけだ。残りの九割九分はシスターのおかげだ。

「そんなに立派な事じゃないよ」

「いえ、立派な事でございます」

「いや、立派じゃないよ。暇つぶ――」

「立派な事でございます」

「あぁうん……」

「この教会にも、命の灯が脅かされている方がいらっしゃいます。わたくし達の祈りでは届かないかもしれません。どうか、お力をお貸しいただけないでしょうか」

「うん」

 気が付けば、別のシスターが傍まで来ていて、私は革袋から銅貨を取り出して小麦を指で拭き取り、一枚ずつ銅貨を献金箱の中に入れていく。入れながら確認する様に、宣言する様に話す。

「帝国内を歩き回っているんだ。十日ほど居る予定なんだけど、足りるかな? 部外者だし、見ての通りエルフだし」

「十分でございます。神の祝福が、あなたにありますように」

「これは祝福のお礼ってやつだよ」

 十枚入れるつもりだったけれど、取り出したのは十一枚で、戻すのも変で、十一枚で十日分の滞在権を得た。まあ、お布施をしなくても肩身が狭いだけで済むのだが、一応は神様を信仰しておく。

 二人のシスターに囲まれながら、患者がいる方に案内されていく。

「どのような祝福を?」

「うーん……喧嘩してた人と友達になったとかかな」

「それはとても素敵な祝福で御座いますね。争いが和らぎ心が通じ合うことは、神が何よりも望んでおられます。そして、あなたが一歩踏み出して祝福を受けたのなら、それは与えられた祝福ではなく、選び取った祝福で御座いますね。どうか、次に誰かとすれ違う時も、その手を伸ばしてあげてください」

 ゆったりと、それでいて隙間なく話しかけてくるので、私が話す番まで口を挟めず聞くしかない。

「いや、相手が友達になろうとしてくれただけだよ。だから神からの与えられた祝福」

「そうでしたか。ですが、差し出された手を握ることは誰にでもできることは御座いません。それが出来るのは、あなたの優しさであると思いますよ」

 ある部屋の中に入ると、別のシスターが二人居た。ベッドの上でぐったりとしている人が三人見える。

 痩せ細っていて、肌が荒れて乾いていて、髪の毛に艶が無い。咳き込んでいる人も居る。

 まあ、よくある栄養不足と風邪だろう。

 だから、部屋に入って数秒も経っていないのに、患者たちに聞こえる少し大きめの声で、言う。

「ああ、大丈夫なやつだよ。この人達、ご飯食べてる?」

「いえ、あまり。喉の痛みを訴えておりまして」

 そう答えたこの部屋に居たシスターは不思議そうな顔をしていた。

「エルフのお医者様でございます」

 案内してくれたシスターの一人がそう言う。まあ、そういうことにしておこう。

 鞄を適当に床に置いて、患者を一人一人顔を覗き込む様に見ながら、目の前で「大丈夫」や「こいつも大丈夫」と楽観的な声をかけた。別にどんな顔をしていてもそう言っただろう。「こりゃ駄目だ」なんて言われたら、私だってただの風邪でも遺書を書きそうになる。

「穀物と豆と野草と……あと果物と塩。形が無くなるまですり潰して、肉で煮込んだスープに入れて飲ませて。形が残ってると喉が痛いって文句言うでしょ。蜂蜜を舐めさせるのも良いかも。とにかく何でもいいから食わないと駄目。水も」

 私の言葉を聞いて、うう、ううと唸る患者がいる。まあ、塩や蜂蜜は高級品だし、肉、果物などなども手を出し難い。別に後日請求という訳ではないのだが、聖典のどこかに人に迷惑をかけてはならないとでも書かれているのか、施しを受けることを嫌う人がそれなりに居る。

「うるさいな。黙って食って寝てお布施再開しろ」

 そう、シスターなら言わなそうな雑な言葉を投げつけた後、シスターの方を向く。

「味とか気にしなくて良いし、朝昼晩に椀一杯分は無理矢理流し込んでいいから。あと、濡れた布を部屋に干せるだけ干して、窓を開けてもらっていいかな。私は熱の魔術を今からかけるから、できる範囲でよろしく」

 返事を聞かずに適当な木の椅子に座り、鞄から本を取り出して読み始める。私が魔術を壁にかけると、部屋は徐々に徐々に初夏の様な温かさに近付いていく。

 まあ、これで大丈夫だろう。

 部屋に最初から置かれてあった鍋をシスターに言われて確認し、スープに水気を飛ばして果物を入れてと頼む。

 このくらい布を干せばいいかと尋ねられ、これの三倍と頼んでみる。

 途中で更に思いついて、ハープを持って来させて何か心地の良さそうな音色を延々と流させる。

 栄養、湿度、換気、体温、気分。というよく使われるであろう対策で、症状から詳細な病原菌を特定している訳じゃないし、魔法の力も熱しか使ってない。シスターも基本的にはこの対処方法は知っていて、私に言われなくても分かっている筈だ。

 ただシスターには優しさがある。

「吐き気が……」

「そうですか……」

「飲み込めないなら口に含んでろ」

 そう強い口調で無理矢理口を開けさせる何てしないだろう。

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焚書のエルフ @ioe_hondo

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