第3話 法則を求めた少女
宿の二階、いつもの狭い部屋。
木造の壁に囲まれた空間に、パチパチと灯るランプの音だけが響いていた。
俺とリオナは、今日も向かい合って座っている。
テーブルには、紙束とインク壺、粗末な木の定規と砂時計。
そこに、新たに加わったものがあった。
──火球制御実験・第一式。
「……これ、本当に使えるの?」
リオナが、不安そうに紙に書かれた数式を覗き込む。
火球の大きさ、発生点からの半径、必要な魔素密度変化率──
そんな数値が並ぶ、それなりに本格的なものだった。
「大丈夫だ。昨日までの観測データをもとに、最適なパラメータを組んだ。
火球を、単なる感覚じゃなく、物理量で制御するための式だ」
「……でも、私、こんな難しいこと、できるかな」
リオナは、火球を生み出す能力は高い。
だが、これまでの彼女は完全に感覚任せだった。
数式を意識して魔素を操作する、なんてことは──
この世界の誰一人、やったことがない。
「最初は難しいかもしれない。でも、君ならできる。少なくとも、俺が見てきた誰よりも、魔素を繊細に操れる」
「…………」
リオナは一度目を閉じ、深呼吸した。
そして、静かに頷いた。
「わかった。やってみる」
裏庭に出ると、朝の冷たい空気が肌を刺した。
霜がまだ残る草の上に、俺たちは簡易な観測用の目印を並べる。
「リオナ。まずは普通に火球を出して」
「了解」
リオナが手を掲げると、ぱっと火の玉が生まれた。
温かい赤色の球体が、手のひらの上に浮かぶ。
「次に、この式を意識して。
半径を一定に保ちつつ、魔素密度を外周に向かって減衰させる。
減衰率はこの数値、0.8倍。単位距離あたりに、だ」
「……えっと、つまり……。
内側がぎゅっと詰まってて、外に行くほどスカスカにする、ってこと?」
「イメージは正しい」
リオナは小さく息を吐き、集中し始めた。
──しゅうっ。
火球の表面が、わずかに波打つ。
「……っ、難しい……!」
リオナの額に汗が滲む。
彼女の魔素が、数式通りに流れようとして、しかし長年培ってきた「感覚的な流れ」と衝突しているのが見て取れた。
「大丈夫だ、リオナ。最初から完璧にできるわけない」
俺は声をかける。
リオナは必死に頷きながら、再び火球に集中した。
──五分、十分、十五分。
小さな火球は、ふらふらと揺れ、時に弾け、時に消えた。
「……ごめん、ファイ……。やっぱり、私……」
リオナが、悔しそうに唇を噛んだ。
俺は、そっと彼女の肩に手を置いた。
「焦るな。数式ってのは、感覚を否定するものじゃない。感覚を整理して、再現できるようにするための"道具"なんだ」
「道具……?」
「ああ。君が感じてる魔素の流れを、言葉にするだけ。つまり、君の中に"もうすでにある"ものを、形にしてるだけなんだ」
リオナは目を見開いた。
「……ある、の?」
「もちろん。君はもう、無意識のうちに世界を読んでる。あとは、それを自覚するだけだ」
静かな空気の中、リオナはゆっくりと目を閉じた。
「……もう一度、やる」
その声は、震えていなかった。
火球が再び生まれる。
先ほどより、明らかに安定していた。
手のひらの上で、ふわりと浮かび、まるでリオナの意志を映すかのように穏やかに輝く。
「──よし、その調子だ」
俺は見守った。
リオナは、式に書かれた数値をゆっくりと、丁寧に、体に刻み込んでいく。
魔素の密度勾配を、意識して調整しながら。
(いける……!)
火球の周囲に、わずかな"押し返す力"の変動が生じた。
それは、場の密度が式通りに変化している証拠だった。
リオナが、初めて──数式を意識して、魔法を制御し始めた瞬間だった。
リオナの手のひらで、火球が淡く脈打っていた。
ただの感覚任せだったころとは、明らかに違う。
そこには確かな意志があり、数式に裏打ちされた秩序があった。
「すごい……。本当に、式を意識すると違う……!」
リオナが、驚きに満ちた声を上げる。
火球は、中心から外側へ向かって、少しずつ輝度を落としている。
魔素密度が距離に比例して緩やかに減衰している証拠だった。
「完璧とはいかないけど、ほぼ理論通りだ」
俺は測定棒を持って近づき、火球からの反発力を検知する。
数日前より明らかに"押し返す力"の変化が滑らかになっていた。
「やったぁ……!」
リオナが、ぱっと表情を輝かせた。
小さな、小さな一歩。
でも、それは確かに──科学的魔法制御への扉を開くものだった。
しばらく休憩を取ったあと、俺たちは宿のロビーで昼食をとっていた。
固いパンと、ぬるいスープ。
決して贅沢ではないけれど、今はそれだけで十分だった。
「ねぇ、ファイ」
リオナが、パンをちぎりながら言った。
「私、初めてかも。"できなかったこと"を、"できるようにする"のが、こんなに楽しいって」
「……わかるよ」
俺も、同じだった。
前世で、どれだけ努力しても、認められなかった。
上司の顔色を伺い、ノルマに追われ、ただ数字だけを積み上げる毎日だった。
でも今は違う。
自分の手で、世界を"知る"喜びがある。
「なぁ、リオナ」
俺はスプーンを置き、まっすぐ彼女を見た。
「俺たち、本当に……世界を変えられるかもしれないな」
リオナは、微笑んだ。
「うん。私たちなら、できる」
その言葉が、胸に沁みた。
そのときだった。
「へぇ、君たち、変わったことやってるねぇ」
聞き慣れない声が、テーブル越しにかけられた。
振り返ると、ロビーの隅に座っていた少年が立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。
歳は十二、三だろうか。
ボサボサの茶髪に、どこか小動物のような鋭い目をしている。
着ている服は、どこか盗賊じみた軽装だった。
だが、汚れてはいるものの、身のこなしには妙な品を感じる。
「君たち、裏庭で魔法の実験してたでしょ?」
少年は、ニヤリと笑った。
「俺、ラット。まぁ、色々なとこから色々な情報を集めるのが趣味みたいなもんさ」
ラット、と名乗った少年は、勝手に椅子を引いて俺たちのテーブルに腰掛けた。
「……情報屋か?」
「まぁ、そんなもんだね」
ラットは、ニヤニヤしながらスープを啜る。
「ところでさ、知ってる? もうすぐ王都で"天才魔導士選抜コンテスト"が開かれるんだぜ?」
「天才魔導士……?」
リオナが小首を傾げる。
「そう。王国中から若い魔導士の卵が集まって、誰が一番かを競うってわけ。優勝すれば、魔術学院の特別席に招待されるんだとさ」
ラットはわざとらしく肩をすくめた。
「ま、普通の奴には縁のない話だけどね。でも──君たちみたいな"変わり者"には、案外チャンスかもよ?」
ラットの言葉に、俺とリオナは顔を見合わせた。
魔術学院。
王国の魔術の中心。
そこに入れば、もっと多くの魔法理論に触れ、実験環境を手に入れられるかもしれない。
なにより──
(俺たちの数式魔法を、証明できる舞台だ!)
ラットは、スプーンをクルクル回しながら、悪戯っぽく笑った。
「興味あるなら、教えてあげるよ。エントリーの締切、あと三日だから、急いだほうがいいぜ?」
「三日……!」
リオナが、目を輝かせた。
「出よう、ファイ!」
彼女の手が、俺の手をぎゅっと掴む。
──ああ。
俺たちは、もう止まれない。
この世界に、科学の力を示すために。
魔法を数式で解き明かし、常識を覆すために。
「コンテストの会場は、王都の中央広場だ。
魔術学院も後援してるから、上層部の人間も視察に来るらしいぜ」
ラットが得意げに話す。
「一応、飛び入り参加もOKらしいけどな。魔力量とか血筋でハネられることもある。まあ、まともな推薦状があれば別だけど──」
そこまで言って、ラットはちらりとリオナを見た。
「君、一応貴族なんだろ? ダメ元で家名を使えば、仮登録くらいは通るかもな」
「……私の家、今はほとんど縁が切れてるけど」
リオナが小さく呟いた。
だが、今さら怖じ気づく理由はない。
俺たちは、自分の力でここまで来た。
そして──これからも。
「よし、行こう」
俺は立ち上がった。
「三日あれば十分だ。今の火球制御をさらに改良して、誰にも文句を言わせない結果を叩きつけてやる」
「うん!」
リオナも立ち上がる。
その瞳には、揺るがぬ決意が宿っていた。
ラットが、少しだけ驚いたように目を見開き、そして笑った。
「へぇ……面白いな、君たち。いいぜ、俺もちょっと協力してやるよ」
「協力?」
「ああ。会場の下見とか、エントリー手続きの裏道とか。こう見えても、情報収集は得意なんでね」
ラットはウィンクしてみせた。
「君たちが優勝したら──ちょっとした恩返し、頼むかもな?」
「……別に構わない」
俺は即答した。
リオナも頷く。
こうして、奇妙な三人組が誕生した。
宿に戻ると、俺たちはさっそく改良案に取り掛かった。
「ファイ、私、もっと式を理解したい」
「よし、なら──まずは"魔素流体モデル"からだ」
魔素は粒子性を持つと同時に、流体的な挙動も示す。
ならば、流体力学の式を応用できるはずだ。
「火球の内部は、高密度魔素の"液体"みたいなものだと考える。外側に向かって密度が減衰するモデルを作る」
「つまり、外に向かうほど薄くなる──ってやつね?」
「そう。密度勾配に基づいて、力場の強さも変わる。火球が崩れず、なおかつ反発力を維持できる最適解を探す」
俺は数式を紙に書きなぐった。
リオナも、真剣な目でそれを見つめている。
(……すごいな)
たった数日でここまで"数式に食らいついて"これるとは。
リオナの素質は、本物だった。
「次は、外力制御にも対応できるようにするぞ。火球を手元から離しても、魔素の流れを維持できるように」
「わかった!」
リオナは即座に理解し、魔力を集中させる。
──数時間後。
宿の裏庭で、リオナの火球がふわりと宙に浮かび、
手元から離れた状態でも、安定して輝き続けていた。
「……成功、だ!」
俺は拳を握りしめた。
火球の周囲には、確かに安定した魔素場が形成されている。
数式で予測した通り、密度勾配に応じた反発力も働いている。
リオナは火球を自在に操り、軌道を描かせた。
「やった……やったよ、ファイ!」
リオナが、弾けるような笑顔を見せる。
その笑顔を見て、俺は確信した。
(──この世界に、俺たちの"科学"を刻み込める)
もう、誰にも止められない。
宿のロビーに戻ると、ラットが暇そうに机に肘をついていた。
「おお、戻ったか。それで? できた?」
「ああ。完璧だ」
俺は胸を張った。
「エントリー締切まで、あと二日。ラット、お前の情報力に期待してるぞ」
「へへっ、任せとけ!」
少年は悪戯っぽく笑った。
こうして俺たちは、王都の魔術学院への扉をこじ開けるため──
天才魔導士コンテストへの挑戦を決意したのだった。
(第三話 完)
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物理学者が魔術を数式化したら世界最強になった件 taku @leaf07
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