第2話 魔素の存在と、見えない力場



 宿の二階。軋む床と薄い壁に囲まれた、小さな部屋。


 夕暮れの柔らかな光が、埃の舞う空間をぼんやりと照らしている。


 粗末なテーブルの上には、紙の束とインク壺、それに簡素なペン。


 俺とリオナは、その紙に向かって黙々と書きつづけていた。


 世界を知るために。


 魔法という名の現象を、数式という言語で記述するために。


「なあ、リオナ」


 ペンを置き、俺は顔を上げた。


 向かい側に座る少女──リオナ・アークライトが、澄んだ碧眼をこちらに向ける。


「魔法を使うとき、君は"何か"を感じるか?」


 リオナは少し首を傾げ、考え込んだ。


「……あったかいもの、かな。身体の内側から湧き上がる流れみたいなものが、手のひらを通って外に出ていく感じ」


「その流れは、普段は感じない?」


「うん。意識しないと、ない。でも魔法を使うときだけ、はっきりわかる」


 なるほど。


 つまり、それは魔法発動に伴って顕在化するエネルギーの流れ、ということか。


(エネルギーの流れ、媒介粒子、場の変動……)


 仮説が頭の中で組み上がっていく。


 火球の生成は、単なるエネルギー変換ではない。


 そこには、"魔素"という未知の粒子──あるいは場が関与している可能性が高い。


「──仮説を立てる」


 俺は紙に、太い線を引いた。


【仮説:魔素はこの世界に満ちる未知の粒子であり、魔法は魔素場の局所操作によって生じる】


 リオナが身を乗り出してくる。


「それって……魔法を起こすためには、その魔素ってやつを操ってるってこと?」


「ああ。感覚的に、無意識に、魔術師たちはやってるんだろうな。


 でも、それを意識的に、論理的に制御できれば──」


 俺たちは、魔法を数式で"作る"ことができる。


 その可能性に、リオナの瞳がきらきらと輝いた。


「やろう! 実験しよう、ファイ!」


 その一言で、俺たちは立ち上がった。


 目的は明確だ。


 まずは、魔素が空間に及ぼす影響を捉える。


 感覚ではなく、測定で。


 科学とは、仮説を立て、実験で検証する作業だ。


 それは、どんな世界でも変わらない。


 俺たちは、紙とインク、木の棒、簡単な定規と砂時計──


 ありったけの「道具」を抱えて、裏庭へと向かった。


 宿屋の裏庭は、ほとんど誰にも使われていない放置地帯だった。


 雑草が生い茂り、所々に大きな石が転がっている。


 だが、実験には十分すぎる空間だ。


 俺とリオナは、紙と棒、石ころを使って簡易的な観測装置を作った。


 地面に目印となる線を引き、棒を立て、砂時計で時間を測る。


 魔法の影響範囲を、できるだけ客観的に記録するためだ。


「よし、準備完了だな」


「ファイ、何をすればいい?」


「まず、手のひらに小さな火球を出して。それを、できるだけ静止させたままにしてくれ」


「了解!」


 リオナは両手を胸元に掲げ、軽く目を閉じた。


 彼女の体から、微かな振動が伝わってくる。


 空気が、わずかにざわめいた。


 ──ポン。


 掌の上に、小さな火の玉が現れる。


 握り拳ほどのサイズ。


 淡く、柔らかな光を放っている。


「よし……そのまま保持してくれ」


 俺は慎重に、棒を持って火球に近づけた。


 手首の角度を固定し、砂時計をチラリと確認する。


(……さて、ここからが勝負だ)


 火球に向けて、棒を少しずつ動かしていく。


 まるで生き物を驚かせないように、そっと、そっと。


 そして──。


「──っ!」


 棒の先端が、火球から数センチの距離に達した瞬間、ふわりと、見えない"押し返す力"を感じた。


「押された……!」


 間違いない。


 確かに、何かが棒を押し返している。


「すごい……今、力が働いた!」


 リオナが目を輝かせる。


 俺は何度も実験を繰り返した。


 火球の大きさを変え、距離を変え、時間を変え、棒を別の材質にしてみたりもした。


 その結果──


「棒の材質にはほとんど影響されない。でも、火球のサイズに比例して、押し返す力は大きくなる」


「それって……?」


「間違いない。これは、火球そのものが空間に力場を発生させてるってことだ!」


 リオナが、目を丸くしたまま息を呑んだ。


「……ファイ、私、いま鳥肌立ってる」


「ああ、俺もだ」


 理屈じゃない。


 この瞬間、俺たちは「世界を理解する」興奮に包まれていた。




 夜になっても、俺たちは宿のテーブルに向かって作業を続けた。


「魔素場仮説、第一段階」


 紙にペンを走らせる。



 火球=高密度魔素の集まり

 周囲に生じる場の変動=魔素場の密度勾配

 棒に働いた反発力=密度勾配による空間力



 ざっと仮説を書き並べるだけでも、膨大な情報量になった。


 リオナは、俺の手元を興味津々で覗き込んでいる。


「ファイって、ほんとにすごいね……。ただ火の玉を作るだけじゃ、こんなふうに考えたことなかった」


「すごいのは、リオナだよ。普通なら、"感じるままに使えればいい"って思うだろ?

君は違う。世界を知ろうとしてる」


 リオナは照れたように、頬をかいた。


「……でも、私、一人じゃきっと無理だった。


 ファイがいてくれるから、こうやって考えられる」


「……そうか」


 不思議なものだ。


 前世では、孤独な戦いだった。


 ブラック研究室、歪んだ上下関係、理解されない努力。


 だが今は、違う。


 リオナがいる。


 隣で、同じ世界を見ようとする仲間がいる。


 胸の奥が、じんわりと熱くなった。


(俺は──生きている)


 科学者として。


 この世界を解き明かす者として。


 宿屋の粗末なランプの下、俺たちは夜が更けるまで数式を描き続けた。




 翌朝、俺たちは再び裏庭に立っていた。


 まだ日が昇ったばかりの薄青い空。


 冷たい朝靄の中、リオナは両手に火球を作り出す。


「いいぞ、そのまま静止させて」


「うん!」


 俺は火球の周囲に目印となる石を置き、距離と時間を測る。


 前日の観測データをもとに、さらに細かく力場の挙動を確かめるつもりだった。


 だが──。


「──何やってんだ、あいつら」


 広場を通りがかった人々が、こちらを見て囁き始めた。


「またリオナかよ。あの子、貴族のくせに変な遊びばっかしてるって有名だぞ」


「おまけに、見たことない浮浪児を連れて……」


 冷笑。


 軽蔑。


 無知な悪意。


 リオナの火球が、かすかに揺れた。


 彼女の肩が、わずかに震えている。


「リオナ……」


 俺が声をかけると、リオナは顔を背けた。


「……ごめん、ファイ。私、やっぱり……変なのかな」


 震える声。


 強がっていた仮面が、今にも崩れそうだった。


 悔しかった。


 理を求める心を、嘲る者たちが許せなかった。


 俺は、ゆっくりとリオナの隣に立った。


「なあ、リオナ」


 空を仰ぐ。


 眩しいほどの青。


「──科学ってさ、いつだって孤独な戦いから始まるんだ」


 リオナが、こちらを見た。


「最初は、誰にも理解されない。笑われる。否定される。蔑まれる。だけどな、それでも構わないんだよ」


 俺は、拳を握りしめた。


「"真実"は、最後に残る。たとえ世界中が敵に回っても、理(ことわり)だけは裏切らない」


 リオナの瞳が、わずかに揺れた。


「……ファイ」


「俺たちは、間違ってない。信じた道を、進めばいい」


 ゆっくりと、リオナの手を取る。


 小さく、でも確かなぬくもり。


「一緒に、証明しよう。この世界は、感覚じゃなくて、"理論"で支配できるって」


 リオナは、ぎゅっと俺の手を握り返した。


「……うん」


 その瞳には、もう迷いはなかった。




 野次馬たちは、やがて飽きたのか散っていった。


 俺たちは黙々と実験を続けた。


 冷たい視線も、嘲笑も、もう怖くなかった。


 砂埃舞う裏庭で。


 誰にも理解されないかもしれない、小さな、小さな革命を。


 だが、確かにそれは始まったのだ。


 この世界を、魔法を、数式で記述するための──


 科学による異世界革命が。


 世界はまだ、俺たちを知らない。


 だが、いずれすべてが変わる。



(第二話 完)


 

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