5. 妥協 上
ごめんなさい先生。僕にはもう力がありません。努力という実らない愚行には飽き飽きなのです。僕には、才もなければ人望も無い先生の恥であります。そう、言うならば道端に咲いた雑草の如く、目にも触れない、しぶとい生命なのです。五月のはじめで、よく雨の降る季節頃、そう考える事が増えました。
今宵は酒を嗜み月を見ていました。誰か人を呼ぶわけでもなく、ただ独りウイスキーを呑んで一種の現実逃避でしょうか。先生とも面目ないと思い、呼ぶ事も出来ず全く情けないものがありました。どれくらい呑んだのか忘れた頃、ふと、貴方の事が浮かびました。貴方というのは、それはそれは美しい女性の事で僕の想い人でありました。彼女は、よく絵を描く人でその姿は天使かと見紛う程で立派な人間です。久しく会ってはいませんので、今度一度、手紙をしたためてみようとは思いますが、一向に書く気が起きず、この有様な訳です。
人生は妥協だと言うことを言葉では飲み込めても、心では何処か受け入れられずにいる事に、嫌悪感を覚える毎日です。希死念慮に苛まれながら空腹と性欲を満たし、全てに嘘をつき、それは風船の様に膨らんでは最終には弾けるのです。物書きと言うのは常に人ではなく、自分と向き合わねばなりません。それがどれだけ自分を殺す行為かと言うのは、難しい物があります。先生には面目が立ちませんが、これ以上は続ける事は不可能でしょう。そこで先生に会いに行くことにし、故郷である松戸から東京まで向かうことにしました。電車で暫く揺れる事になりますが、僕にとっては良い刺激を受ける事でしょう。電車の停車場までは、少々歩くことになります。畑を抜けて、川を渡り、駅までの道を直進します。道中には名も知らぬ花が咲いており、目を引いていました。こんな美しい花でも悩み一つはあるのだろうか。例え、華々しい貴人でも、戯けた道化師でもそういったものはあるのかもしれません。そう花を見て思いました。気づきを得られる内はまだ生きられるのかもしれません。
停車場に着くと、雑踏が押し寄せていた。こういった人混みと言うのはどうも苦手で仕方がありません。何故か、不安で押しつぶされそうになるのです。人の営みが透けて見えるようで生々しさを感じ、吐き気がしてきます。早急にホームに続く階段を登り電車を待機をしました。何分経ったでしょうか。電車が来るというアナウンスと共に定刻で電車がホームに着いた。電車に乗り込むと、初老の男性と女学生だけがそこにはいました。
東京に着く頃にはすっかり日が暮れていました。先生の家までは駅から然程遠くはなく、歩いて七分くらいの道のりです。先生は、聡明で哲学的な人です。そんな先生を心から敬愛しているのですが、最後の挨拶になるかもしれないという予感がしていたのです。先生の家に着く頃、奇妙な緊張感を覚えました。徐ろにチャイムを鳴らすと先生はそこにいました。「どうぞ、入って。」「はい。どうも久しいですね先生。ご無沙汰しております。」「まぁ確かに久しいな。酒でも呑もうか。とっておきのがあるんだ。」「お構いなく。」「今日はどうした?作品は作っているのか?」「その事で今日はお訪ねたのです。」「なんだね?」先生はそう言うと日本酒を奥から持ってきて僕と先生の前にそれを置いた。「実は僕は、もう文学を辞めようと考えているのですよ。それは、努力という実らない愚行には飽き飽きなのです。僕には、才もなければ人望も無い先生の恥であります。」先生は自分で注いだ日本酒を呑み、一言「そうか。」と言った。そうだ、先生は、はなから僕を期待などしてはいなかったのか。そう思いました。「あっ...そうですか。」やけにあっさりしているなぁと感じ、その場を立ち去ろうとした。すると先生はそれを止め、「まぁ呑め。嫌なことでもあったのだろうから。」そう言いました。僕は、日本酒をグッと呑みため息を付いた。何かを言いかけた僕でありましたが、何かがそれを食い止める様に、上手く言葉を発する事が出来ないまま、俯いていました。時計の針だけが煩く鳴くだけで、頭もぼんやりとしてきた時に帰ることを告げました。「僕は、この辺で帰ります。先生はお体に気をつけてください。」「わかった。お前も気をつける事だ。」そう行って家を後にした。結局、何もできない僕にまた嫌悪しながらぼんやりとした将来の不安に悩まされました。
帰りの電車でもぼんやりとした不安を抱えながら電車に揺られ、ひどい気分のまま帰宅を余儀なくされました。
【短編集】夏の追憶 芥坂 紗世助 @akutasaka_sayosuke
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