第三話 初めての光、月下の詩(うた)
福建の王宮には、昼とは違う顔がある。
陽の照り映える朱壁も、煌びやかな楼閣も、夜の帳が降りるとともに静けさに包まれ、宮廷の奥深くに漂うのは、人の気配よりも風と香り。
星がまたたく空の下、ただ月だけが、無言でそのすべてを見下ろしていた。
――蓮の庭。
王宮の一角に、使節団の宿舎に近く、それでいて人の通わぬ庭があった。
蓮の咲く池を抱いたその庭は、昼間でも訪れる者は少なく、まして夜に至っては、影さえも通らぬ静寂の場所である。
運天湊多は、その場所に、ひとり足を踏み入れていた。
琉球から福建へと使節の護衛として海を越え、異国の空気に触れて幾日。
慣れぬ文化、堅苦しい儀礼、鋭い視線の中で、湊多は心の奥に澱のような疲れを感じていた。
「……蓮の香りか。」
池のほとりに立ち止まり、そっと目を閉じた。
湿った夜風が頬を撫で、薄く漂う花の香が胸を満たす。琉球の月桃とは異なる香り――けれど、どこか郷愁を誘う甘さがあった。
「琉球の風は、もう少し、軽かったな……」
呟いたそのとき。
さらり、と衣ずれの音が、静寂を裂いた。
湊多が振り返ると、月の光を背に受け、一人の女性が橋のたもとに立っていた。
白い衣に身を包み、ゆるやかな動きで扇を抱え、まるで夜の蓮の化身のように、ゆったりと歩みを進めてくる。
足音さえ立てぬその姿に、湊多の胸が知らずざわついた。
その横顔には、冷たい気高さと、ふと滲むような憂いが漂い、ただの宮女ではないことを、直感させるものがあった。
「あなた、どこの方?」
透き通る声が、夜の空気に溶けた。
「……琉球より参りました。運天湊多と申します。」
彼女は少し首を傾け、扇を唇にあてがいながら、ふと笑んだようだった。
「琉球……遥か海の彼方から。」
「はい。貴国との友好のため、使節の一員として参りました。」
「この庭には、ふだん人は来ませんのよ。特に、異国の方など。」
「静けさに惹かれて、迷い込んでしまいました。……お邪魔でしたか?」
「いいえ。むしろ、風が変わるのを感じたところですわ。」
そう言いながら、彼女は池のほとりに腰を下ろす。
湊多もそれに倣い、蓮の花越しに、彼女と月を交互に見上げた。
「蓮は、夜明け前がもっとも香るのをご存じですか?」
彼女は目を伏せ、指先で水面をそっと撫でるようにして言った。
「……初耳です。」
「ふふ。だから私は夜にここへ来るの。
昼の喧騒を忘れて、ひとりになるために。」
沈黙が二人の間に流れる。だがそれは気まずさではなく、穏やかな月の光に包まれた、特別な沈黙だった。
「――あなたは、名を?」
「琳花。……ただの一宮女に過ぎません。」
その名は、蓮の花の香りに似て、湊多の胸にすっと染み込んだ。
「琳花様。よい名ですね。まるで、この庭の主のようです。」
「庭に名はありませんが、花は名を持ちます。
……名を知れば、その花が誰の心に咲いていたのかも見える気がする。」
「……ならば、私は貴女の名を、月桃の隣に刻んでおきましょう。」
琳花はふと顔を上げた。
その瞳には月の光が映り、琉球の海のように揺れていた。
「あなたの国には、どんな風が吹いていますの?」
「穏やかで、香りがあり、時には嵐のようにも吹き荒れます。
だが、人の心と同じで、決して一様ではありません。」
「福建の風も、そうであるべきなのでしょうね。けれど……ここでは、風までもが命令に従わねばならぬのです。」
琳花の声に、どこか陰りが差す。
「……貴女は、この国に囚われているのですか?」
湊多の問いに、琳花は答えず、ただ蓮を見つめたまま小さく微笑んだ。
やがて、遠く楼閣の方角から、夜更けを告げる鈴の音が響いた。
「もう、戻らねばなりません。」
「――また、お会いできるでしょうか?」
その問いに、琳花は一瞬足を止めた。そして、振り返りながら、柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「風が道を教えてくれるなら。けれど……琉球の風と福建の風は、まるで違うわ。」
そう言い残し、琳花は白い衣を揺らしながら、闇に溶けるように去っていった。
その後ろ姿を、湊多はいつまでも見つめていた。
蓮の香、月の光、そして心に残る名――琳花。
それは、ふたりの運命の扉が静かに開いた、始まりの夜だった。
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