第一章 始まりの波音 第二話 琉球に咲いた蓮の名

李・景琳が琉球に滞在して一月が経とうとしていた。

 王府に仕える文官たちは最初こそ異国の才媛を訝しみつつも、その見識と礼節に次第に心を開いていった。特に学問殿と呼ばれる文庫では、琉球の古記録と福建の典籍を比較しながら、景琳と十愛が共に筆を走らせる姿が日常となっていた。


 ある日、景琳は十愛に問いかけた。


「琉球では、蓮の花をどう呼びますか?」


 十愛は少し考え、柔らかな声で答えた。


「ハン と申します。清らかな水に咲くもの。泥を嫌わぬが、濁らぬ――琉球の教えでも、とても尊ばれる花です」


 景琳は頷き、小さく微笑んだ。


「福建でも、蓮は聖なる花。私の母も“蓮の心を忘れるな”と、幼い頃からよく申しておりました。……まるで、琉球と福建は、言葉を交わす前から似ているようです」


 十愛はその言葉にふと黙し、窓の外に視線をやった。風に揺れる月桃の葉が、音もなく影を落としていた。


「李殿……」


「はい?」


「いずれ琉球を発たれる時が来るのでしょうか?」


 その問いに、景琳は視線をそらしたまま、そっと唇を噛んだ。彼女には福建の家、家門を背負う運命がある。女が一国の使節として遣わされるのは稀であり、次の機会はない。再びこの地に戻る術は、現実には限りなく遠い。


「運命が許すなら、ここにいたい……そう思うようになりました」


 それは告白ではない。だが、十愛の胸には、熱く静かな火が灯った。


 その夜、二人は再び那覇の海辺を歩いた。琉球の月は静かに満ち、波打ち際で小さな灯火が揺れていた。


「私は……名を与えられず生まれました。『十愛』という名は、幼い頃、師匠が私に与えてくださったもの。『十の愛を持って世を見よ』と」


「それは、とても美しい名ですね。……私は景琳、『景』は代々受け継ぐ字で、『琳』は宝玉のように生きよと、祖母が名付けてくれました」


 ふたりは寄り添うように立ち尽くし、言葉少なに波の音を聴いた。


 ――彼と共にあれば、自分はひとりではない。

 ――彼女と共にあれば、琉球が少し違って見える。


 そしてある晩、ふたりは王国の南端にある「久高島」へと旅に出た。神の島と呼ばれるその地には、琉球の神話が眠っていた。


 島の御嶽(うたき)にて、ふたりは祈りを捧げた。十愛は静かに景琳に語りかけた。


「ここは、祖霊が降り立つと伝わる場所。……李殿、あなたと出会ったことが、ただの偶然ではない気がしてなりません」


 景琳は祈りを終え、十愛の手をそっと取った。


「この島の風の音、私の胸の奥に、ずっと昔から吹いていたような気がします……まるで、ここで生まれ変わるような……」


 やがてふたりは、久高島で一夜を明かした。明け方の光に包まれて、互いの想いはもう、言葉を超えて結ばれていた。


 この夜こそが――琉球と福建、二つの魂が繋がった始まり。

 やがて彼らの血は、運天湊多と李琳花へと受け継がれていく。

 その血の中には、久高島の風、首里城の記憶、そして海を越えて届いた蓮の心が、確かに息づいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る