第四話 風のはじまり
王宮の月が満ちた翌朝、運天湊多は、やけに早く目覚めていた。
夜の静寂に包まれた庭で出会った“琳花”という名の少女――彼女の姿が、夢の名残のようにまぶたの裏に残っている。
昨夜の出来事が、現実のものであったのか、幻であったのか。
湊多は己の心が、風に舞う木の葉のように落ち着かぬことに気づいていた。
「……まるで、魂ごと攫われたようだ」
そう呟いたとき、帳を上げて朝日が差し込んだ。
使節団の館に差し込む日差しは、やけに明るく、まるであの白衣の少女が放っていた光をなぞるようだった。
一方そのころ、琳花もまた早朝の支度を終えていた。
普段は少しだけ寝坊する癖のある琳花だったが、この日に限って、眠りの底に深く沈むことができなかった。
(あの者……運天、湊多)
夜の庭で交わした言葉。
蓮の香、月の光、そして名を呼ばれたときのあたたかさ――
それらは、琳花の胸の奥に、しんしんと灯る篝火のように残っていた。
だが、琳花は思う。
(忘れなければならない。……あれは、風の戯れ)
なぜなら自分は、ただの「琳花」ではない。
国の大臣の孫、王の甥に嫁ぐべく育てられた、政の道具のひとつにすぎない。
誰にも言えぬ想いなど、芽吹かせてはならぬのだ。
それでも心は、あの夜の沈黙を求めていた。
言葉にならぬやさしさと、傷つくことを知らぬ真っ直ぐな瞳――
琳花は立ち上がり、鏡に映る自分を見つめた。
そこには、微かに頬を染めた少女の面影があった。
「琳花殿。今日の“詩の交歓の儀”、お心積もりはいかがですか?」
傅官の問いに、琳花は軽く頭を下げた。
「はい、主上から賜った詩文は、すでに五首、選定いたしました」
「さすがにございます。……あちらの琉球使節の者たちも、詩に通じておると聞いております。どうぞ、言葉の海にて、我らの誇りを示してくださいませ」
琳花は静かに頷いた。
その胸の奥で、ひとつの予感が生まれていた。
(あの人に……また、会うことになる)
王宮・詩の間。
白大理石に金の縁どりが施された円形の広間に、各国の使節が円卓を囲むようにして座している。
中央には琉球使節団、そしてその代表者と随行武士たち。
その中に、湊多の姿もあった。
湊多は、心を静めようと努めながら、すでにそこに琳花の気配を感じ取っていた。
やがて、香をたいた空気の中に、しずしずと彼女が現れる。
白衣から淡い桃色の装束に身を包み、背筋を伸ばして歩む琳花は、昨夜の儚さとは異なり、まさに宮廷の華そのものだった。
(……やはり、あの夜の彼女とは、別人のようだ)
そう思いながらも、湊多は目を逸らせなかった。
琳花は、琉球使節側の円卓の手前まで進み、朗々と声を響かせる。
「本日、福建王より賜りし詩のひとつをご披露いたします――」
そして、ひとつの詩が読み上げられる。
海を越え
風は名を運ぶ
離れた岸辺にも
なお香は残る
その一節に、湊多の心臓が跳ねた。
琳花の声は澄んでいて、けれどその節には確かに、夜の庭で交わした“名”がこめられていた。
(あれは……私に向けて読まれた詩か? いや、そんなはずは――)
だが琳花の眼差しは、誰にも揺らがず、ただ礼儀正しく、淡く美しく、空を見ていた。
湊多はそのときはじめて知る。
琳花という少女が、どれほど深く、自分の想いを隠すための「仮面」を持っているのかを――。
その夜、使節館の屋根にのぼった湊多は、静かに笛を吹いていた。
それは琉球に伝わる古い旋律。
風を呼び、水を鎮め、魂を癒すとされる調べである。
「……琳花、貴女は、月と蓮だけのものではない。
どうかもう一度、風を信じてくれ」
彼の吐息とともに、音が夜空に吸い込まれていった。
その旋律は、王宮の遠く、琳花の部屋の窓辺にまで、かすかに届いていた。
そして琳花は、静かに目を閉じる。
胸の奥に、ふたたび小さな灯がともったことを、誰にも告げることなく――。
蓮と月桃の約束 毛 盛明 @temeteni-
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