第一章 はじまりの波音 第一話 海を越えて届く風
時は十五世紀末。琉球王国の首里城では、朝まだきの澄んだ空気の中、使節団を迎える支度が整えられていた。夏を前にした潮風が紅瓦を撫で、港に並ぶ唐船の帆を柔らかく膨らませている。
この日、福建の南方より新たな使節が琉球を訪れるとの報が届いていた。その随行には、書記官として名を馳せる**李・景琳(り・けいりん)**の姿があった。文官としての誉れ高く、福建の宮廷でもその才筆は鳴り響いていたが、女の身でこの役に就いたことは前例がない。
一方、迎え入れる琉球側の代表には、首里城に仕える若き士官、**運天・十愛(うんてん・とあ)**が任じられた。まだ二十代半ばの青年ながら、語学に長け、政治的手腕にも非凡な才を示していた。何よりも、人の心を読み、慈しむ柔らかさが彼にはあった。
港に到着した唐船の甲板に、白く風に揺れる衣が見えた。海風にたなびく薄紅の装束をまとい、静かな目元を伏せた女性。それが李・景琳であった。
十愛は一歩前に出て、文を手に恭しく頭を下げた。
「琉球王国を代表し、貴国のご到来に深く感謝いたします。お初にお目にかかります。わたくし、運天十愛と申します」
その日本語を聞き取りながら、景琳はふと笑みを浮かべた。
「琉球の言葉……ずいぶんと柔らかい音ですね。李景琳、お見知りおきを」
彼女の琉球語はたどたどしいが、言葉の選び方には品格があった。十愛は驚きと同時に、胸の奥に不思議な安らぎを感じていた。まるで、遥か昔に交わした会話の続きを聞いているかのようだった。
それから数日、景琳は王国の文書館や寺院を巡り、琉球の書物や風習に深く心を寄せていった。十愛はその案内役として、常に彼女の傍にあった。ふたりの間には、形式を超えた対話が静かに芽生えていた。
ある日、首里城の裏手にある丘の上で、ふたりは遠く港を見下ろしていた。青く広がる海、潮の香り、鳥の声。すべてが静寂の中に溶けていた。
「琉球の海は……何かを忘れさせてくれますね」
景琳がつぶやいた。故郷に残した家族、女であるがゆえの重圧、そして知られざる未来。そのすべてを波が洗い流してくれるようだった。
「忘れるのではなく、波が静かに包んでくれるのです。琉球の海は、そういう場所だと私は信じています」
十愛の言葉に、景琳はそっと微笑んだ。彼の声には、決して押しつけず、ただ隣に寄り添うような温もりがあった。
その夜、ふたりは那覇の海辺を歩いていた。月は満ち、静かに潮騒が寄せては返す。人けのない砂浜に、足跡がふたつ並ぶ。
「運天殿……いや、十愛様。あなたは、なぜこんなにも、私に……優しくしてくださるのですか?」
景琳が不意に立ち止まり、月を見上げた。
「理由など、必要でしょうか? ただ……あなたがこの琉球に来て、私の中に風が吹いたのです。今まで感じたことのない風です」
彼女の瞳が揺れた。言葉の裏に隠された真実は、互いにまだ知らない。しかし、確かにその夜、ひとつの想いが芽吹いた。
ふたりは月の下で誓いなど交わさない。ただ、沈黙の中に約束が宿っていた。時代や国を超えても、決して朽ちぬ「種」が、彼らの心の奥に蒔かれたのだった。
それはやがて数世代を経て、李琳花という名の姫に、そして運天湊多という若き士官に受け継がれる。そして、琉球と福建、ふたつの血を引く小さな娘――**李・陽琳(り・ようりん)**の誕生へと繋がっていく。
未来の風は、いま、静かに吹きはじめた。
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