第6話 その先へ
カマキリを踏み潰したあの日の衝撃は、香澄の中で奇妙な変容を遂げていた。最初の数日は、悪夢やフラッシュバックに苛まれたものの、それは罪悪感や嫌悪感というよりも、未知の強烈な体験がもたらした生理的な反応に近かった。そして、その衝撃が薄れるにつれて、香澄の心には、由佳が語った「美」や「本能」といった言葉が、じわじわと、しかし確実に染み込んでいったのだ。
由佳は、あの出来事を決して否定しなかった。むしろ、「完璧な破壊だった」「あなたは自分の殻を破った」と称賛した。その言葉は、香澄にとって、何よりも強い肯定となった。自分が感じた、恐怖と表裏一体の興奮、命が物質に還る瞬間の鮮烈な感覚。それは、醜いものでも、間違ったものでもなく、由佳と共有できる「特別な美」なのだと、香澄は確信するようになっていた。
学校での香澄は、以前とは少し違う空気を纏うようになっていた。相変わらず口数は少なく、クラスの中心にいるわけではない。けれど、かつてのような劣等感や、周囲の視線に対する過敏さは薄れていた。代わりに、どこか冷めたような、あるいは、達観したような落ち着きが漂っていた。それは、由佳という絶対的な理解者を得て、自分たちの「特別な世界」を持っているという、秘密の優越感から来るものかもしれなかった。美咲や陽菜が、他愛ない話題で笑い合っているのを見ても、もはや羨ましいとは思わない。むしろ、「何も知らないんだな」と、心の中で微かに見下すような感情すら覚えていた。彼女たちのいる「普通」の世界は、退屈で、色褪せて見えた。
秘密の行為への衝動も、その質を変えていた。もはや、孤独やストレスを紛らわすための、後ろめたい行為ではない。それは、由佳と共に「美」を探求し、世界の隠された側面を発見するための、能動的で、刺激的な探求となっていた。ローファーの硬い靴底が何かを捉え、形を変えさせる瞬間は、罪悪感ではなく、創造的な興奮と、由佳との共感を伴う、二人だけの特別な儀式へと昇華されていた。
週末、香澄は、由佳と二人で街に出かける約束をした。クローゼットを開け、何を着ていくかを選ぶ。以前なら、できるだけ目立たず、周りに溶け込むような服を選んだかもしれない。けれど、今は違った。香澄は、あえて、一番のお気に入りの、淡いピンク色のシフォンのワンピースを選んだ。胸元には繊細なレース。ふんわりと広がるスカート。それは、かつて香澄が憧れた「普通の可愛い女の子」の象徴だった。しかし、今の香澄がこの服を選ぶ理由は、それだけではなかった。この、一見無垢でガーリーな外見と、自分の内側に秘めた、由佳と共有する暗く、破壊的な衝動とのギャップ。そのアンバランスさ自体が、今の香澄には倒錯的な魅力を持っているように感じられたのだ。
そして、足元には、あの黒いエナメルのパンプスを合わせた。つやつやと光る黒。華奢なストラップ。そして、靴底に刻まれた、鋭利なギザギザの凹凸。この靴は、もはや単なるお気に入りのファッションアイテムではなかった。それは、香澄と由佳の世界を象徴する、美しさと危険性を兼ね備えた特別な道具だった。この靴で、由佳と共に、さらに新しい「美」を発見したい。そんな欲望が、香澄の胸を熱くした。
待ち合わせ場所に現れた由佳は、香澄の姿を見ると、目を細めて微笑んだ。
「今日のあなた、すごく可愛いね。そのワンピース、よく似合ってる」
そして、彼女の視線は、香澄の足元のパンプスへと注がれた。
「…その靴も。まるで、甘い罠みたいだ」
その言葉に、香澄は顔を赤らめながらも、嬉しさを感じていた。由佳は、わかってくれている。この服装に込めた、自分の複雑な意図を。
二人は、賑わう街を並んで歩いた。目的は、特にない。ただ、街の中に隠された「素材」を探し、二人だけの感覚を共有するためだ。
ショーウィンドウに飾られた、繊細なガラス細工の動物たち。
「見て、あの子鹿の脚、すごく細い。ちょっと力を加えたら、簡単に折れちゃいそうだね」
由佳が囁く。
「折れたら、どんな音がするかな。キラキラした破片が散らばって、綺麗だろうね」
香澄も頷く。想像するだけで、胸が微かに高鳴った。
歩道に、誰かが落としたらしい、赤いマニキュアの小瓶が転がっていた。中身はほとんど空のようだ。
「あ、これ」
由佳が足を止める。
「踏んでみたら?」
香澄は、周囲に人がいないことを素早く確認し、黒いエナメルパンプスの、尖ったつま先で、そっと小瓶に触れた。そして、かかと部分、ギザギザの凹凸が最も密集しているあたりで、ゆっくりと体重をかけた。
パリン!
軽い、乾いた音がした。ガラスの小瓶は、あっけなく砕け、赤いマニキュアの残り香がふわりと漂った。パンプスの底には、ガラスの細かな破片が付着している。ギザギザの凹凸が、ガラス片をしっかりと捉え、粉砕した感触が足裏に伝わってきた。
「うん、いい感じ」
由佳が満足そうに言う。
「赤いマニキュアと、黒いエナメル。色の対比がいいね」
香澄も、自分のパンプスの底についたガラス片を眺め、奇妙な満足感を覚えた。この美しい靴が、何かを破壊する道具にもなる。その二面性が、たまらなく刺激的だった。
二人は、その後も、街の中に潜む「変化の兆し」を見つけては、立ち止まり、囁き合った。壁の落書き、錆びた看板、ひび割れたアスファルト。それら全てが、由佳の言葉を通して、香澄には特別な意味を持つものとして見えてきた。そして時折、香澄は、人目を盗んでは、パンプスの底で、落ち葉や木の実、空き缶などを踏みつけた。ギザギザの靴底は、ローファーよりもはるかに鋭敏に、対象物の感触を伝え、そして、より容赦なくそれを破壊した。そのたびに、香澄は背徳的な喜びと、由佳との共犯関係の深化を感じていた。
日が傾きかけた頃、二人は自然と、あの廃倉庫跡へと足を向けていた。そこは、もはや二人にとって、特別な聖域のような場所になっていた。
倉庫の中は、以前と変わらず、静かで、薄暗く、そしてどこか神秘的な空気に満ちていた。散乱する瓦礫やゴミさえも、ここでは意味ありげなオブジェのように見える。
「ねえ、宮下さん」
倉庫の奥、以前陶器の破片を踏み砕いた場所で、由佳が立ち止まった。
「カマキリのこと、覚えてる?」
香澄は頷いた。忘れられるはずがない。あの緑色の鮮烈な記憶。
「あの時、あなたは境界線を越えた」
由佳は、香澄の目をじっと見つめて言った。
「古い自分を壊して、新しい感覚を受け入れた。…でもね、境界線の向こうには、もっと広くて、もっと深い世界が広がってるんだよ」
香澄は、息を呑んで由佳の言葉に耳を傾けた。もっと深い世界? それは、一体どんな…?
由佳は、倉庫の隅を指差した。そこには、古い木箱がいくつか積まれており、その隙間から、何かが動く気配がした。
「…あそこ、見て」
由佳が囁く。
「たぶん、ネズミ。結構前から、住み着いてるみたい」
黒い影が、素早く木箱の陰に隠れた。小さいが、確かな生命の気配。
「ねえ、あれを捕まえて…」
由佳の声は、熱を帯び始めていた。
「このパンプスで、踏んでみない?」
彼女は、香澄の黒いエナメルパンプスを指差した。
「カマキリよりも、もっと生々しい感触がするはずだよ。骨が砕ける音、温かい血の感触…想像してみて。命が、あなたの足の下で、形を変える瞬間を」
ネズミ。踏む。骨が砕ける音。血。その言葉の連なりは、以前の香澄なら、強い嫌悪感と恐怖を引き起こしただろう。しかし、今の香澄は違った。カマキリを踏んだ経験が、そして由佳の世界観への完全な同化が、香澄の中の倫理的な抵抗感を鈍らせていた。怖い、という気持ちよりも、未知の感覚への好奇心と、由佳の期待に応えたいという強い欲求が、心を支配していた。由佳が「美しい」というのなら、それはきっとそうなのだろう。自分も、その瞬間を見てみたい。体験してみたい。
「…やってみたい、かも」
香澄は、震える声で、しかしはっきりと答えた。その言葉に、由佳は満足そうに微笑み、目を輝かせた。
「やっぱり、あなたは特別だ。じゃあ、一緒に捕まえよう。そして、最高の『作品』を創ろう」
二人は、息を潜め、ネズミが隠れた木箱へと近づいていった。香澄の心臓は、恐怖ではなく、期待と興奮で激しく高鳴っていた。これから体験するであろう、未知の感覚。由佳と共に踏み入れる、さらに深い領域。それは、背徳的で、危険で、しかし抗いがたいほど魅力的なものに思えた。
木箱の隙間から、黒いネズミが顔を出した。小さな黒い目が、警戒するように二人を見ている。
「…今だ」
由佳が合図する。
香澄は、黒いエナメルパンプスを、ゆっくりと、しかし躊躇いなく持ち上げた。つややかに光るその靴底のギザギザが、夕暮れの光を受けて、鈍く、妖しく輝いている。狙いを定める。ネズミの、小さく、しかし確かな生命を感じさせる体に。
これが、境界線の先の世界への、新たな一歩。もう、引き返すことはできない。そして、引き返したいとも思わなかった。
香澄は、由佳の熱っぽい視線を感じながら、息を吸い込んだ。そして、振り下ろされるパンプスの先に広がるであろう、未知の破壊と、倒錯した美の世界を幻視しながら、ゆっくりと、その一歩を踏み出そうとしていた。廃倉庫の静寂の中に、二人の少女の荒い息遣いと、破滅へと向かう予感を孕んだ、異様な緊張感だけが満ちていた。
香澄の決心 写乱 @syaran_sukiyanen
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