第5話 向こう側の世界
秋が深まり、空の色は高く、空気はひんやりと澄み渡る日が増えてきた。イチョウの葉が黄金色に輝き、風が吹くたびにきらきらと光の粒子のように舞い落ちる。季節の移ろいは穏やかで美しいはずなのに、宮下香澄の心は、まるで未知の岸辺に立っているかのような、期待と不安が入り混じった高揚感に包まれていた。高槻由佳という存在が、香澄の日常に深く入り込んで以来、世界の見え方そのものが変質し、色鮮やかで、しかしどこか危うい輝きを放ち始めたかのようだった。
美術室での会話の後、香澄と由佳の関係は、急速に、そして奇妙な形で深まっていった。それは、クラスメイトたちが想像するような、ありふれた友情とは全く違う、秘密の共鳴に基づいた特別な繋がりだった。二人の間には、誰にも理解されないであろう、暗く、しかし抗いがたい魅力を持つ感覚が存在し、それが香澄を強く由佳に結びつけていた。
由佳は、以前にも増して、香澄にだけわかるようなサインを送ってくるようになった。授業中に、ノートの端に描かれたスケッチは、より頻繁に、そしてより大胆に、壊れたものや死骸をモチーフにするようになった。潰れた花、
香澄は、由佳に完全に魅了されていた。彼女の言葉、彼女の価値観、彼女の纏う独特の空気。その全てが、孤独だった香澄にとって、抗いがたい輝きを放っていた。由佳が「綺麗だ」と言えば、それは香澄にとっても、新たな視点から見た「綺麗」なものになった。由佳が「おかしくない」「それがあなたの本能だ」と言えば、香澄を縛り付けていた罪悪感は、まるで古い皮のように剥がれ落ちていった。由佳は、香澄にとって、初めて現れた「理解者」であり、閉ざされた世界に差し込んだ、強く、鮮烈な光だった。あの夏の日、友達に拒絶された痛みや、「変態」という言葉への恐怖は、由佳といると、取るに足らない、古い世界の出来事のように感じられた。
そんなある日の放課後、由佳が香澄に声をかけてきた。
「ねえ、宮下さん。ちょっと付き合ってくれない?」
「え? どこへ?」
「いい場所があるの。きっと、あなたも気に入ると思う」
由佳は、悪戯っぽく微笑んだ。その笑顔には、何か新しい発見や、刺激的な体験を予感させる響きがあった。香澄は、期待に胸を膨らませながら、頷いた。
由佳に連れてこられたのは、学校から少し離れた、川沿いにある古い煉瓦造りの倉庫跡だった。かつては何かの工場か倉庫として使われていたのだろうが、今はもう廃墟同然で、壁の一部は崩れ落ち、窓ガラスはほとんどが割れていた。周囲にはセイタカアワダチソウやススキが生い茂り、人影は全くない。夕暮れ時の傾いた光が、割れた窓から差し込み、埃っぽい空気の中で光の筋を作っていた。そこは、どこか物悲しく、荒涼としていながらも、不思議な静けさと、朽ちていくものだけが持つ、独特の美しさを湛えた場所だった。
「…すごい場所だね」
香澄は、感嘆の息を漏らした。ただ古い、汚いだけではない。時間の経過と、自然の力が作り出した、ある種の造形美がそこにはあった。
「でしょ?」
由佳は満足そうに頷いた。
「時々、一人でここに来るの。変化していくものの気配を感じに」
「変化していくものの気配?」
「うん。風が吹いて壁の煉瓦が少しずつ崩れていく様子とか、雨が降って錆びた鉄骨の色が変わっていくのとか…。そういう、形あるものが別の形に移っていく、その瞬間のエネルギーみたいなもの。感じてると、なんだか自分も解放される気がするんだ」
香澄は、由佳の言葉に、深く頷いた。自分も、何かが形を変える瞬間、特にそれが自分の力によって引き起こされる時に、言いようのない感覚を覚えていたからだ。それを「解放」と呼ぶのは、しっくりくる気がした。
倉庫の中は、がらんとしていたが、床には様々なゴミや残骸が散らばっていた。割れた瓶の破片、錆びた金属の部品、朽ちた木材、そして、どこから持ち込まれたのか、大量の陶器の欠片が山積みになっている場所もあった。白や青の、様々な模様の入った陶器の欠片が、夕日を受けて鈍い光を放っている。
「見て、これ」
由佳は、その陶器の山に近づき、一つ、手のひらほどの大きさの、青い模様の入った欠片を拾い上げた。
「元は、どんなお皿だったんだろうね。誰かが大切に使ってたのかもしれない」
彼女は、欠片の鋭い縁を、そっとなぞった。
「でも、今はもう、ただの欠片。…でも、この偶然できた形、この色の褪せ具合、綺麗だと思わない? 完璧だった頃より、むしろ今のほうが、物語を感じる」
香澄は頷いた。由佳の言う通りだった。整然とした美しさとは違う、不完全さの中に宿る、はかない美しさ。それが、今の香澄の心には強く響いた。
「ねえ、宮下さん」
由佳が、香澄の方を向いた。その目は、期待と好奇心にきらめいていた。
「これを、踏んでみてくれない?」
「え…?」
「あなたの、そのローファーで。この陶器の欠片を、もっと細かく、粉々になるまで。この物語の、続きを、あなたの足で作ってみて」
香澄は、一瞬ためらった。硬い陶器を踏むことへの、本能的な怖さ。けれど、それ以上に、由佳の提案に対する好奇心と、彼女の語る「物語」に参加したいという気持ちが勝っていた。由佳が「綺麗だ」という行為を、自分も体験してみたい。
「…うん、やってみる」
香澄は、少し震える声で答えた。由佳の目が、嬉しそうに細められるのを見て、胸が高鳴った。
香澄は、意を決して、陶器の欠片が散らばる場所に足を踏み入れた。右足のローファーを、そっと一つの欠片の上に乗せる。靴底を通して、硬く、冷たい感触が伝わってくる。欠片の縁が、ゴム底にわずかに食い込むような感覚。
「…そう、そのまま、ゆっくり体重をかけて。音と、感触と、砕けていく形を、よく感じてみて」
由佳の声が、すぐそばで聞こえる。彼女は、香澄の足元を、食い入るように見つめている。その瞳は、まるで新しい芸術が生まれる瞬間を待つかのように、熱っぽく輝いていた。
香澄は、息を吸い込み、ゆっくりと右足に体重を乗せていった。
パキッ!
乾いた、鋭い音が響いた。陶器の欠片が、ローファーの底の圧力に耐えきれず、二つに割れる感触。硬質なものが砕ける振動が、足の裏から足首、そして膝へと伝わる。香澄は、さらに力を込める。
パキパキッ! バリバリッ!
次々と、欠片が砕けていく。硬いものが、硬い靴底の下で砕け散る音と振動が、足の裏から全身に伝わってくる。それは、これまで経験したことのない、鋭く、ダイレクトな感覚だった。怖さよりも、むしろ、その強い手応えに、奇妙な興奮を覚えていた。ローファーの底が滑り、バランスを崩しそうになるのを、笑いながら堪える。
香澄は、夢中になって、足元の陶器の欠片を踏み続けた。右足で、左足で。ローファーの底が、白い粉と細かい破片で覆われていく。由佳は、その様子を、声も出さずに、しかし興奮したような眼差しで見守っていた。時折、彼女は小さなスケッチブックを取り出し、香澄の足元や、砕けた陶器の様子を素早くスケッチしているようだった。その鉛筆の走る音と、陶器の砕ける音が、まるで奇妙な音楽のように、廃倉庫の中に響いていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。香澄がふと我に返ると、足元の陶器の山は、元の形をとどめないほど細かく砕け散り、白い粉が舞っていた。ローファーの靴底は、陶器の粉で真っ白になっていたが、幸い、怪我はしていなかった。息が少し上がっている。体が、心地よく火照っているような感覚があった。
「…すごい…!」
由佳が、感嘆したような溜息をついた。
「綺麗だ…。砕けた陶器の粉が、夕日に光って、まるでダイヤモンドダストみたい。あなたが、新しい景色を作ったんだよ」
彼女は、香澄のローファーの底についた白い粉を、指でそっと掬い取った。
「この感触、どうだった?」
由佳が、熱っぽい目で香澄に尋ねた。
「…なんだか…すごかった。怖かったけど…でも…」
香澄は、言葉を探した。
「…すごく、ドキドキした。足の裏が、まだ、じんじんしてる…」
嫌悪感はなかった。むしろ、強い刺激と、何かを破壊し、変容させたという、倒錯した達成感のようなものが、胸の中に渦巻いていた。
「でしょ?」
由佳は満足そうに微笑んだ。
「それが、あなたの本能の一部なんだよ。怖がる必要なんてない。むしろ、それを楽しめばいい」
彼女の言葉は、香澄の中にすんなりと落ちてきた。そうかもしれない。これが、本当の自分なのかもしれない。
その日を境に、香澄と由佳の「秘密の儀式」は、その廃倉庫跡で、あるいは他の人けのない場所で、より頻繁に、より深く行われるようになった。由佳は、様々な「素材」を見つけてきては、香澄とその「変化の瞬間」を共有した。
由佳が集めてきた、色とりどりの花びらを敷き詰めた上を、香澄はローファーで歩き回り、踏み潰した。甘い香りと、花びらが潰れる柔らかく湿った感触。色が混ざり合い、抽象的な模様が生まれる様を、由佳は「 ephemeral art (儚い芸術)だね」と評した。香澄は、以前一人で花を踏んでいた時の罪悪感を思い出すこともなく、ただ、由佳と共にその瞬間を味わうことに没頭した。白いソックスが花の色素で染まることすら、特別な印のように感じられた。
色とりどりのチョークを踏み砕く遊びも、二人のお気に入りだった。乾いた音と共に粉々になるチョーク。ローファーの底もスカートの裾もカラフルな粉にまみれながら、二人は無邪気に笑い合った。それは、破壊でありながら、同時に新しい色彩を生み出す行為でもあった。
由佳は、虫を見つけてきて、香澄に踏ませることもあった。少し大きめの、玉虫色に光るコガネムシ。
「この輝きが、あなたの足の下で消える瞬間を見てみたい」
由佳の言葉に、香澄はもはや躊躇いを感じなかった。ローファーの底を重ねる。
パキッ!
硬い甲羅が砕ける、小気味よい音。靴底に伝わる、確かな手応え。以前は感じたかもしれない微かな罪悪感は、今はもう、由佳と共有する興奮と好奇心に覆い隠されていた。
「…うん、やっぱりいい音。命が、物質に還る瞬間の音」
由佳が呟くのを、香澄は隣で聞きながら、静かに頷いた。
香澄は、由佳との共犯関係の中で、かつてない高揚感と、孤独からの解放感を味わっていた。自分は一人ではない。この特別な感覚を理解し、共有してくれる人がいる。その事実は、香澄を大胆にさせ、世界を新しい、刺激的なものに変えていった。由佳が隣にいれば、どんな行為も、許されるだけでなく、意味のある「表現」になるように感じられた。
そして、ある日、由佳は、さらに刺激的な「素材」を用意した。
その日も、二人は例の廃倉庫跡にいた。由佳が、少し興奮した様子で、手に持っていた小さな虫かごを香澄に見せた。中には、緑色の大きなカマキリが入っていた。鋭い鎌を持ち上げ、威嚇するようにこちらを睨んでいる。全長は10センチ近くありそうだ。その完璧なまでの造形美と、溢れんばかりの生命力。
「見て、これ。さっきそこで捕まえたの」
由佳の声は弾んでいた。
「すごく綺麗でしょ? この鎌、この目…まるで自然が作り出した芸術品みたいだ」
香澄も、そのカマキリを見て、ある種の畏敬の念に近いものを感じた。それは、以前感じたような単なる嫌悪感や恐怖とは違っていた。
「ねえ、宮下さん」
由佳が、真剣な眼差しで香澄を見た。
「これを、踏んでみてほしいの」
「え…?」
香澄は、さすがに一瞬、息を呑んだ。これまでの虫とは、明らかに違う。存在感が、生命力が、段違いだ。踏むことに、本能的な抵抗感と、未知への怖さを感じた。
「こ、これは、さすがに…大きいし、なんだか…怖い、かも」
声が少し震える。
「怖い?」
由佳は、香澄の反応を面白そうに見つめた。
「でも、怖いものほど、惹かれるんじゃない? それに、これはただの破壊じゃない。この完璧な芸術品が、あなたの力によって、別の形に生まれ変わる瞬間なんだよ。緑色の体液が飛び散って、硬いと思っていた体が、あっけなく形を失う。その、劇的な変化。…想像しただけで、わくわくしない?」
彼女の言葉は、香澄の心の奥底にある、倒錯した好奇心を的確にくすぐった。たしかに、怖い。けれど、見てみたい気もする。その瞬間を、体験してみたい気もする。由佳と共に、その未知の感覚を共有してみたい。
「…私に、できるかな」
香澄は、不安と期待が入り混じった声で呟いた。
「あなたならできるよ」
由佳は、確信に満ちた声で言った。
「あなたの本能が、それを求めてるはずだ。怖がらなくていい。ただ、感じるままに、足を下ろせばいいんだよ。私に、その瞬間を見せて」
由佳は、虫かごからカマキリを素早く取り出し、香澄の足元の、少し平らなコンクリートの上に置いた。カマキリは、驚いて一瞬動きを止めたが、すぐに鎌を持ち上げ、威嚇のポーズをとった。その緑色の体が、夕日を受けて鈍く光っている。
香澄は、足元のカマキリと、由佳の期待に満ちた顔を、交互に見た。心臓が、早鐘のように打っている。怖い。でも、それ以上に、由佳の期待に応えたい、彼女と共に、この未知の領域に足を踏み入れたい、という気持ちが強かった。これが、由佳の言う「美」であり、「本能」なのだとしたら、自分もそれを受け入れたい。
震える足が、ゆっくりと持ち上がる。ローファーの底が、緑色のカマキリの真上にくる。カマキリは、最後の抵抗のように、鎌を振り上げていた。
「…そう、それでいい。感じるままに」
由佳の声が、囁くように聞こえる。
香澄は、目を閉じる代わりに、カマキリを、そして自分の足を、じっと見つめた。そして、覚悟を決めて、一気に足を振り下ろした。
グシャッ!!!
これまで経験したことのない、生々しく、強烈な感触が、ローファーの底を通して、足の裏全体に、そして全身へと衝撃のように駆け巡った! 硬い殻が砕ける音と、柔らかい中身が潰れる音と、水分が飛び散る音が一瞬で混ざり合う。足裏には、確かな抵抗感と、それが一気に失われる感覚、そして、何かがぐちゃぐちゃに破壊される、生々しい感触が刻み込まれた。
香澄は、息を荒げながら、ゆっくりと足を上げた。
そこには、緑色の体液と、白っぽい内臓のようなものが飛び散り、コンクリートの床に鮮烈な模様を描いていた。カマキリの体は完全に潰れ、原型を留めていない。千切れた脚や、砕けた頭部の一部が、無残に転がっていた。ローファーの底には、緑色の体液と、潰れた体の組織が、べっとりと付着していた。強烈な青臭い匂いが、鼻をついた。
足が、ガクガクと震えていた。心臓が、破裂しそうなほど激しく鼓動している。けれど、それは単なる恐怖から来る震えではなかった。強烈な体験がもたらした、興奮と、未知の感覚への戸惑いと、そして、やり遂げたという倒錯した達成感が入り混じった、複雑な震えだった。
「…すごい…!」
隣で、由佳の息を呑む音が聞こえた。彼女は、カマキリの残骸と、香澄のローファーの底を、恍惚とした表情で見つめていた。
「ああ…なんて、鮮烈なんだろう…! この緑! この破壊の痕跡! まさに、命が物質に還る瞬間の、凝縮されたエネルギーだわ…!」
彼女は、スケッチブックを取り出し、震える手で、夢中でその惨状を描き始めた。その目は、狂信者のように輝いていた。
香澄は、自分の足元と、由佳の姿を交互に見つめた。罪悪感がないわけではなかった。けれど、それ以上に、「すごいものを見てしまった」「体験してしまった」という興奮と、由佳がこれを「美しい」と肯定してくれたことへの、歪んだ喜びの方が勝っていた。「気持ち悪い」という感覚は、ほとんどなかった。むしろ、「なんだか、わかる気がする」とさえ思った。由佳の言う、破壊の中の美、変化のエネルギー。それを、今、自分は確かに感じているのかもしれない。
由佳がスケッチを終えると、満足げな顔で香澄に向き直った。
「ありがとう、宮下さん。最高の瞬間を見せてくれた」
彼女は、香澄の肩にそっと手を置いた。
「これで、あなたも、本当の意味で、こっち側の世界の住人になったね」
その言葉は、もはや香澄にとって、重荷でも、恐怖でもなかった。むしろ、特別な選民意識のような、甘美な響きを持っていた。由佳と共にいる限り、自分は孤独ではない。そして、この世界には、まだ知らない、もっと刺激的で、もっと「美しい」瞬間が待っているのかもしれない。
夕暮れの廃倉庫に、二人の少女は、破壊の痕跡を前にして、静かに立っていた。香澄は、汚れたローファーの底を見つめながら、自分が踏み入れてしまった世界の深さと、そこから広がる未知の可能性に、微かな恐怖と、それ以上の大きな期待を感じていた。由佳との危険な共犯関係は、この日、決定的な一線を越え、新たな段階へと進んだのだ。
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