第四章 4-2. - 関ヶ原、鉄の雨と戸惑いの足軽
霧がゆっくりと、舞台の巨大な白い幕が、誰にも気づかれぬように静かに巻き取られていく。
(まるで、誰かが意図的に見せてきた幻が、終わったかのように)
視界が開けた、その瞬間、それまで、時間が止まったように静寂を保っていた谷間に、ダムが決壊したかのような、怒涛のような戦の音が、濁流のように押し寄せた。
剣戟の、ガラスが割れるような鋭い響き、勝利を求める兵士たちの鬨の声、そして、遠くの、地の底から響くような陣太鼓の重低音が、直接肌を震わせる振動のように、彼の耳朶を叩いた。
隣にいた若い兵が、小さく呻きながら後ずさるのが視界の端に映った。それを咎める者も、慰める者もいない。ただ、その場に立ち尽くすだけだった。
(ああ、俺も逃げたい。でも、足が動くわけじゃない)
彼は、その騒然とした、生きた獣のような空気に、無意識の反射のように呼応するかのように、腰に差した、手入れの行き届いていない槍の、冷たい木製の柄を強く握りしめていた。
(誰かが走り出したら、俺も走るのだろう。斬られるより先に、斬ろうとするのだろう)
心は拒んでいるはずなのに、身体だけが、勝手に備えようとしている。まるで獣が牙をむくように。
微かに、しかし確かに、冷たい鉄の感触が、汗ばんだ彼の掌に伝わる。その温度が、やけに現実を帯びていて、かえって心を遠ざけたくなる。
(戻れないな。もう、ここからは……)
そう思いかけて、喉の奥に熱いものがこみ上げた。それが恐怖なのか、怒りなのか、それとも、名前のつかない何かなのか、自分でもよくわからなかった。
しかし、騒がしい戦場の音とは裏腹に、周囲を見渡しても、彼が属する小早川軍の陣は、時間が止まったかのように静まり返ったままだった。
背中に風を受けてはためくはずの旗指物は、そこに根が生えたかのように微動だにせず、鎧を身につけた兵たちは、凍り付いた彫刻のように、ただ、そこに、意味もなく立ち尽くしている。
(動くのを忘れてしまったのか……それとも、動かない理由を誰も知らないのか)
彼の足元には、まだ朝露の残る地面がひんやりと広がっていた。冷たさが伝うのに、膝から下の感覚が少し曖昧だった。
彼らの、若い、あるいは老いた顔には、これから起こるであろう、理解を超えた事態への、抑えきれない緊張の色と、拭い去ることのできない不安が、複雑に、そして生々しく入り混じっていた。
すぐ脇にいた初老の兵が、何かを言いかけて口を閉じた。そのまま槍の柄に視線を落とし、拳を握りしめる。
その動きがやけに目に焼きついた。
(みんな、何かを待っている。声か命令か、それとも裏切りか)
遠くの戦場から、断片的な夢の記憶のように伝わってくるのは、彼らが属する西軍が、誰も予想だにしなかった善戦を見せているらしい、という、真偽の定かではない噂だった。
(勝ってる? 本当に?……だったら、なぜ俺たちは、ここで立ち止まってる?)
その、曖昧な情報が、伝染病のように兵たちの間に広がるにつれて、彼らの中に、複雑な模様を描くように、様々な感情が渦巻き始める。
ほんのわずかに、希望の光のような安堵の色が見えたかと思えば、すぐに、先の見えない未来への焦燥感が、それを追い越していく。
「このまま、何もしないで終わっちまうのか」
「それでは、俺たちは、一体何のために、こんな場所に……」
低い、独り言のような声が、周囲の、顔見知りの兵たちの間から、地底から湧き上がるように漏れ聞こえてくる。
(そうだよな。何のために来た? あの家を、あの田畑を離れてまで……)
(手にしたこの槍も、今はただ重いだけだ)
「裏切り損だ」
誰かが、笑いもせずに言い放ったその言葉に、笑う者も、咎める者もいなかった。むしろ、それを否定しきれない沈黙だけが、陣全体をゆっくりと包んでいく。
彼はふと、自分の胸の内に、何か湿った布のような感情がじわじわと広がっているのを感じた。焦りか、怒りか、それとも、もうとっくに諦めていたはずの希望なのか――答えは出なかった。
そんな、張り詰めた空気の中、彼らの、若き主君である小早川秀秋のもとに、敵である東軍の、徳川家康の使者が、夜の忍びのように、静かに現れたという、これまた真偽の定かではない知らせが、末端の、何も知らない兵たちの耳にも、風の噂のように届いてきた。
(まさか、そんなこと……でも、もしそれが本当なら、俺たちは一体どっちの兵なのか)
誰かが「あり得ん」と鼻を鳴らし、誰かが黙ったまま空を見上げた。笑う者はいない。それは冗談にしては、あまりにも重すぎる噂だった。
陣幕の、固く閉じられた奥で、一体何が、どのような言葉が交わされているのか、彼らのような下っ端の兵士たちには、知る由もない。ただ、その、異様な静けさは、嵐の前の静けさのように、彼らの若い胸に、重く、そして不吉な影を落としていた。
(“待て”と言われたから待っている。けれど、何を待っているのかは、誰も教えてくれない)
目の前の地面には、靴の先で描かれた浅い線が、何本も引かれていた。誰かの退屈、あるいは迷いの痕跡だったのだろう。
やがて、その、時間が止まったような沈黙を、引き裂くように、背後の、深い緑に覆われた山々を、大地そのものを震わせるような、轟音が、谷間に、雷鳴のように響き渡った。
その瞬間、彼の胸に、誰かが熱い杭を打ち込んだような衝撃が走った。
無数の銃弾が、空を覆い尽くす雨のように、一斉に放たれたのだ。
彼は、背後から巨大な槌で殴られたかのように、びくりと体を震わせ、肩が、操り人形のように跳ね上がった。
(今だ、もう始まったのだ――いや、始まってしまった)
(終わることを待っていたのか? それとも始まることを恐れていたのか?)
鼓膜を劈く、乾いた爆音と、鼻腔を刺激する、焦げ付いたような硝煙の匂いが、否応なく、彼を、この、非日常的な現実に、無理やり引き戻した。
(もう、選ぶ余地はないのか。ならせめて、せめて足だけは前に出てくれ)
強張った足に力を込めた。それでも、体の奥で、誰かが「やめてくれ」と叫んでいた。
その、耳鳴りのような爆音の直後だった。
「前進せよ!」
地の底から湧き上がるような、怒号とも悲鳴ともつかない、けたたましい声が、巨大な波のように、陣全体に、有無を言わせず響き渡った。
(……誰の声だ? 本当に命令なのか? それとも、ただ誰かが――叫んだだけなんじゃないか)
そんな疑念が浮かびかけたが、それすら言葉になる前に、空気が一変した。
一体何が起こったのか、理解する間もない。ただ、本陣からの、絶対的な命令だけが、冷たい刃のように突きつけられた。
(命じられたら、従う。それが兵の務めだと、皆が言う。でも、“命じた奴”は、ここにはいない)
周囲の、顔見知りの足軽たちが、蜘蛛の子を散らすように、我先にと、よろめきながらも駆け出し始める。誰かの肩が誰かにぶつかり、誰かが小さく「くそっ」と漏らした。それだけで、全員が走り出す。
(誰も考えてなどいない。ただ、動くしかないのだ)
彼もまた、その、抗いがたい波に、押し流される木の葉のように、よろめきながらも、本能的に足を前に出した。
一歩、足が地面を叩く。乾いた音が、耳の奥に届いた。
(ここで踏み出せば、もう戻れない。わかってるはずなのに……でも、それでも、足は止まらなかった)
刀も抜かず、叫びもせず、ただ押し出されるままに。震える手を隠すように柄を握りしめながら、彼は無意識に目を逸らした。斬ることも、斬られることも、まだこの目で見たくなかった。
しかし、彼らが、命令されるままに進む、その先に、彼の若い目が捉えたのは、信じられない、悪夢のような光景だった。
(……あれは、間違いじゃないか?)
昨日まで、いや、ほんの数刻前まで、同じ、豊臣家の旗の下で、共に、肩を並べて戦っていたはずの、見慣れた西軍の兵士たちが、今や、敵意に満ちた目で槍を構え、牙を剥く獣のように、こちらに向けて殺気を放っている。
彼らの、怒りと、深い憎悪の色が、燃える炎のように、はっきりと浮かんでいた。
(なぜ、あんな目をしている? 俺はまだ、斬ってもいないのに)
隣を走る若い兵が、息を切らしながらも「なあ……あいつら、昨日は一緒に飯、食ってたよな」とぽつりと呟いた。その声に返す言葉を、彼は見つけられなかった。
槍を、震える手で握りしめたまま、彼は、命令されるままに、重い足を進めながらも、若い頭の中が、激しい嵐に巻き込まれた海のように、激しく混乱していた。
(これは夢だ。いや、願望だ。ただの現実逃避だ。でも――このまま、俺はあいつらに刃を向けるのか?)
乾いた喉では声も出ない。ふと、視線が合った。向こうに立つ兵士もまた、ほんの一瞬、彼の顔に見覚えを探したような、戸惑いの目をしていた。だが次の瞬間、その目は、戦場のそれに戻っていた。
一体、誰が敵で、誰が味方なのか?
この、血と硝煙の匂いが立ち込める戦場で、一体、何が起こっているのか?
(誰も教えてくれなかった。ただ命令だけがあって……俺はそれに従ってる。従って、いったい何を守ってる?)
足が止まりそうになるたび、背後から押されるようにして前へ出る。立ち止まれば、背中を刺されるような気さえした。
だが、その、根源的な混乱も、次の瞬間には、嵐の後の静けさのように、頭の隅へと、強引に追いやられた。
(考えるな。感じるな。今は……ただ、生き延びることだけ考えろ)
心の奥で、誰かが命じるように囁いていた。それは自分自身の声のようでもあり、もっと古い、遠い時代から染みついた“生きる術”のようでもあった。
戦場に出れば、個人の感情や、素朴な疑問など、意味を持たない、無価値なものだった。
ほんのさっきまで胸の中で渦巻いていた「なぜ」や「どうして」は、今や泥に沈んでゆく石のように、意識の底に沈められていく。
(俺が、どう思おうと、どう願おうと、この場に立っていることの理由にはならない)
ただ、上から与えられた、理解を超えた命令に、絶対的に従う。
それが、彼のような、名もなき末端の足軽という、駒のような存在の、唯一の、そして絶対的な掟だったのだ。
それでも、まだ心のどこかで「嫌だ」と思っていた。斬りたくない。怖い。逃げたい。
けれど、逃げた先に何がある? 家か? 村か? それとも、味方だったはずの誰かに背を撃たれる未来か?
そんな脆くて頼りない迷いを、後ろから迫ってくる戦の足音が、否応なく蹴散らしていく。
彼は、目の前に、巨大な壁のように迫る、敵兵たちの、憎悪に歪んだ顔を、震える足に力を込めて、見据えた。
(せめて、まっすぐに見てやる。名前も知らぬあんたを。斬るなら、斬る相手の目ぐらい……)
唇を噛んだ。痛みで少しだけ、意識がはっきりした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます