第四章 4-3. - 関ヶ原、逃走と断絶の果てに
息を切らしながら、彼の若い体は、何かに憑かれたように、傾斜のきつい、足元も覚束ない斜面を無我夢中で駆け下りていた。
(止まれない、止まってしまえば……)
何が起こるかは分からない。ただ、その「分からない」ことが、何よりも恐ろしかった。
足裏に伝わる、乾いた土と小石の感触は鈍く、重い鎖が、彼の自由を奪うかのように足に絡みついているかのようだ。肺は、熱い鉄を押し当てられたように焼け付き、心臓は、激しい雨の日の太鼓のように、彼の狭い胸の中で、けたたましく打ち鳴らされていた。
眼下には、つい昨日まで、同じ粗末な釜の飯を分け合い、くだらない他愛ない話で、腹を抱えて笑い合った、見慣れた西軍の足軽たちの、群がる、蟻のような姿が見える。
「どうして……」
喉奥から洩れた声は、言葉の形にもならなかった。
彼らの、土埃にまみれた顔には、信じられないものを見たような、凍り付いた驚愕と、次の瞬間には、否応なく襲い来るであろう、逃れられない死への、生々しい恐怖が、仮面のように貼り付いていた。
(あの顔を、俺は――どうすればいい?)
「なんでだ!」
風に乗って、遠くから、断末魔の叫びのような、悲痛な叫び声が、彼の耳に届いた。誰の声かは分からない。しかし、その叫びは、自分自身の心の叫びと、どこかで重なっていた。
けれど、彼の、もはや思考停止した足は、暴走した機関車のように、もう止まることを知らなかった。
背後から聞こえる、味方兵士たちの、怒号や、悲鳴や、混乱した叫び声も、遠い、別の世界の出来事のように、彼の意識の外へと流れ去っていく。
(誰が叫んでいる? 敵か? 味方か? それとも俺か……?)
彼らは、操り人形のように、上からの、冷酷で無情な命令に従い、昨日まで、互いに背中を預け合った仲間に、無慈悲に刃を向け、血を流し合っている。
昨日までの、温かい笑顔の仲間は、今日、冷たい殺意を向ける敵となり、それぞれの、使い慣れた槍が、それぞれの、手入れの行き届いた刀が、個人的な憎しみなどではなく、ただ、生き残るという、動物的な、本能的な衝動によって、無慈悲に振り下ろされる。
(戦とは、こういうものなのか……? こんなものを俺は、望んでいたのか?)
その問いには、もう答えなどなかった。答えを探す隙間すら、戦場には残されていなかった。
混乱が、巨大な渦潮のように戦場全体を巻き込み、信じがたい裏切りが、伝染病のように連鎖していく。関ヶ原の戦場は、まさに、生きた人間たちが繰り広げる、地獄絵図そのものだった。
「……嘘だろ」
思わず口をついて出た呟きに、自分自身すら気づいていなかった。言葉にしてしまえば、余計に現実味を帯びる。だが、目の前で起きていることは、疑いようもない現実だった。
突如として、昨日まで、疑う余地もなく友軍であるはずだった、小早川秀秋の、数千の兵からなる巨大な軍勢が、約束された勝利を確信する凱歌のように、鬨の声を上げながら、彼らが属する西軍に、牙を剥き、容赦なく襲い掛かったのだ。
「まさか……秀秋様まで」
何人かの兵がそう口にしたとき、まるで自分の胸の内を言い当てられたかのように、彼は身震いした。若き主君のあの青白い顔――不安を隠せぬ眼差しが脳裏に蘇る。あれは、決意の表情だったのか、それとも……。
その、あまりにも信じがたい、目を疑う光景を目の当たりにした、脇坂安治や赤座直保の軍も、堰を切った濁流のように、一斉に雪崩れ込んだ。数刻前まで隣にいたはずの旗が、今は剣を振るいこちらに襲いかかってくる。
「敵が増えた……?いや、違う。味方が……減ったんだ」
混乱の中、誰かがぽつりとこぼした。その皮肉めいた一言が、逆に状況の異常さを際立たせた。彼の中で、何かが急速に崩れていくのを感じた。
これまで、辛うじて保たれていた西軍の陣形は、脆い紙でできた城のように、あっという間に、そして無残にも崩れ去った。仲間が仲間を斬る。指示はない。怒号と悲鳴と土煙だけが空を満たし、どこに立っていれば安全なのかすら分からない。
彼はただ、槍を握ったまま動けなかった。いや――動かなかったのかもしれない。
(戦とはこういうものか? 信じてきたことが、こんなにも容易く、踏みにじられるのが“常”なのか?)
握ったはずの槍が、まるで他人の手のように冷たく、遠く感じた。
彼の、粗末な草鞋を履いた足元は、飛び散る、温かい、そして乾ききった血潮と、無数の足跡でぐちゃぐちゃに汚れた泥濘で、悪夢のように汚れ、踏みしめるたびに、ねっとりとぬかるんだ。まるで、誰かの命を足で踏みつけて進んでいるかのような、嫌な重さが足裏にまとわりついて離れなかった。
――なぜ俺は、まだ歩いている? なぜ、こんな場所に立っている?
立ち止まりそうになる心を、ただ、生きたいという本能が突き飛ばす。
目の前に、幽鬼のように現れる敵兵を、本能の赴くままに斬り伏せるたびに、鮮やかな、生きた赤色の血が、彼の、煤けた顔や、錆び付いた鎧に、花びらのように飛び散る。だが、それが一体誰の首だったのか、味方だったのか、それとも敵だったのか――もはや、冷静に意識することは、彼の、混乱した頭の中では不可能だった。
「すまん」と言ったつもりの唇は、何の音も出していなかった。喉が凍りついたまま、ただ、槍が勝手に動いている。
背後で、仲間だったはずの誰かが「あいつは味方だ、待て!」と叫んだ。だが、その声は、遠く霞んだ霧の中の幻のように、彼の耳には届かなかった。
ただ、操り人形のように、与えられた、理解を超えた命令のままに、目の前に迫る敵を、払い、斬り、突き伏せる。それは、考えるという、人間らしい行為を放棄し、ただ、生き残るという、動物的な本能に従う、機械的な、無感情な動作だった。
それでも、心の奥底では、何かが微かにきしんでいた。
――これが、俺の戦か? これが、生き延びるってことなのか?
その問いは、答えを得る前に、また次の敵の姿にかき消された。泥に沈んでいく心を感じながら、彼はなおも、槍を振るい続けるしかなかった。
これが、本当に「正しい」ことなのかどうか――
その問いが、炭火のようにくすぶる疑念として、彼の若い胸の奥で、ずっと燻っていた。
目の前の敵を、必死の思いで討ち果たしても、そこに湧き上がるべき喜びも、高揚も、何ひとつ感じなかった。いや、感じる余地がなかったのかもしれない。ただ、手に残る鈍い重みと、じっとりと指先に残る生臭さが、かえって彼の心を深く沈ませていった。
――勝った、のか?
誰かが叫んでいた。だが、その声も、彼には風の音のように空虚に響くだけだった。
戦に勝てば、それでいいのか?
いや、そもそも「勝つ」とは、何を意味する? 目の前のこの死体の山が、勝利の証だというのか。
彼の心には、何かがぽっかりと欠けたまま残っていた。勝利の、熱狂的な歓声も、敗北の、悲痛な嘆きも、今の、血と泥にまみれた彼には、意味のない、騒音でしかなかった。
少し離れた場所で、同じ小早川軍の若い兵が、槍を地面に突き立て、立ち尽くしていた。何かを言いかけたような口元が震えていたが、声にはならなかった。ただ、その目が語っていた。何かが壊れた、ということを。
彼はふと、自分の手を見た。乾いた血が、ひび割れた土のようにこびりついている。それが他人のものか、自分のものか、すぐにはわからなかった。
――もう、何も考えたくない。
ただ、目の前の、生々しい血と、足を取られる泥にまみれた、あまりにも残酷な現実だけが、彼の、重い肩に、容赦なくのしかかっていた。
彼はもう、どこへ向かって歩いているのかもわからなかった。ただ、歩みを止めれば、何か取り返しのつかないものが、自分の中で崩れてしまうような気がして、それだけが、彼を前に進ませていた。
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