第四章 4-1. - 松尾山、名もなき兵士の見た夕暮れ
薄暗い夕暮れが、重い帳のように、小早川秀秋が率いる軍勢が陣を構える松尾山を、深く、そして静かに覆っていた。深い緑に包まれた山肌の一隅に、一足軽の、まだ若い兵士が、そこに根が生えたように所在なげに腰を下ろしている。
名は、まだない。
つい先日まで、使い慣れた鍬を握り、土にまみれていた彼にとって、目の前に広がる、夕闇に包まれつつある光景は、どこか現実離れした、遠い夢の中の出来事のように感じられた。
(……夢なら、そろそろ覚めてくれてもいいはずだろ)
そんな独り言が、喉の奥で乾いたまま、声にならずに留まる。
山を下れば、見慣れた茅葺きの家があり、囲炉裏を囲む家族の、温かい笑い声が聞こえてくるはずなのに。けれど今は、鼻腔を掠める冷たい鉄の匂いと、隣に、同じように不安げに腰を下ろす、見知らぬ兵士の、頼りない体温だけが、彼を、この奇妙な現実に、辛うじて引き戻していた。
その見知らぬ兵士が、ふと、彼の方をちらと見やった。何かを言いかけて、やめる。口の端がわずかに揺れただけで、沈黙が戻る。
(……そうだ。言葉なんて、もう意味を持たねえ)
怖いか? と聞かれたら、否定はできない。けれど、怖いという感情すら、もう使い古されたぼろ切れのように、手の中でかさついている。自分が何に怯えているのか、それすら、もう曖昧だった。
「……どうせ、俺らには関係ねえさ」
ぽつりと漏れた言葉は、相手に向けたものでも、慰めでもない。ただ、そうでも言わなければ、踏みとどまれなかった。
この戦が誰のためのものなのか。勝てば、何が手に入るのか。そんなことを考えても、腹は膨れないし、死体は起き上がらない。けれど、それでも――。
(もし、あの家に帰れたら)
ふと、そう思ってしまった自分に気づき、舌打ちをしそうになる。帰れたら、何だというのか。鍬をまた握って、何事もなかったように暮らせるとでも?
(いや、それでいい。それだけで、いいんだ)
そんな自分の思考に、わずかに腹が立つ。生きたいくせに、生きて帰った先のことを想像するのが、どうしようもなく惨めだった。
山の上にはまだ号砲は鳴らず、風だけが、松尾山の草をわずかに撫でていた。その静けさが、かえって彼の内のざわめきを際立たせた。
何も起きないのが怖く、何かが起きるのはもっと怖い。
そして、そのどちらもが、いずれ終わるということに、彼は薄々気づいていた。
空は、燃えるような茜色から、徐々に、深い、吸い込まれるような群青色へと、ゆっくりと滲む水墨画のように変わり、遠くに見える山並みが、墨で描かれた山水画のように、ぼやけていく。
(こんなにも静かだなんて、まるで何も起こらないみたいだ)
けれど、それは罠のようなものだと、彼はうっすらわかっていた。嵐の前にだけ吹く、あの不自然な静けさ。風が、忍び足のように吹き抜け、木々の葉が、ざわ…、ざわ…、と、囁き合うように揺れ、時折、どこか遠くの、深い森の奥から、一羽の鳥の、寂しげな、迷子になった子供のような鳴き声が、静かな山に響いてくる。
その音が、やけに胸に染みた。迷った鳥の声が、自分の中の何かと重なったような気がして。
戦の、直接的な気配は、まだ遠く、張り詰めた、張り詰めた弓のような空気の中に、ほんのわずかな、しかし貴重な静けさが、薄氷のように漂っていた。
(いっそ、このまま何も起こらなければ――)
そう思った瞬間、ひどく惨めな気持ちが胸の奥に広がった。戦場に来ておいて何を言ってる、とどこかで冷笑する自分がいる。けれど、だからといって刃を振るう覚悟ができているわけでもない。
握り飯にかじりつく。冷たくて、味もなくて、まるで石をかじっているようだった。けれど、何も口にしないよりはマシだった。腹が満たされるかどうかよりも、「まだ生きている」という感覚を確かめるために、それは必要だった。
隣の、顔も知らない兵士が、ぽつりと口を開いた。
「うちの村の秋祭りはなあ…」
その声には、妙に優しい抑揚があった。故郷の訛りが混じっている。遠い日のことを思い出すように語る彼の目は、たぶん今、目の前の山ではなく、もっと遠くの、もっと明るい風景を見ていたのだろう。赤や黄色の布が揺れて、太鼓の音が響いて、子どもたちが走り回る、そんな風景。
(そんなもん、俺にはもう……)
思いかけて、口の中の飯が少し苦くなった。
(……いや、あった。たしかに、あったんだ)
思い出せば、秋祭りのざわめきや、夜店の明かり、芋の焦げた匂いが、ぼんやりと浮かんでくる。けれど、それはもう自分の人生の続きではなく、誰か別人の思い出のように、遠ざかっていた。
凍えた心が、ほんのわずかに、しかし確かに温まった。それは情けなくなるほど、優しい温もりだった。
その一方で、ふと気づくと、握り飯を握る指が強張っていた。心が緩んだ分だけ、次に来るものへの怖さが増していた。
(今、ちょっとでも心を動かしたら、戻れなくなる気がする)
無関心を装っていた方が、まだ楽だった。けれど、人の声に、思い出に、こうして少しでも揺れるたびに、彼は「まだ人間であること」から逃げ切れていないのだと痛感する。
ほんの数口の飯と、見知らぬ兵士の訛りが、それを思い出させた。
主君である、若き小早川秀秋は、まだ青二才ながら、この、数千の兵の命運を握るという大役を、重すぎる荷物のように任されたという。
(俺なんかが背負わされたら、その場で腰を抜かすだろうよ……)
そんな他人事のような思いが、口の中で転がった。けれど、その“他人事”が、自分の生死を左右する立場にいるのだと思うと、笑うに笑えなくなる。
陣幕の奥で、一体何を考え、何を憂いているのか、末端の兵士たちの間では、夜の闇に蠢く虫のように、様々な憶測が飛び交っていた。
「顔色は、見たこともないほど青白いままだ」
「何か、底知れない何かを、深く恐れているのかもしれぬ」
そんな、真偽の定かではない囁きが、夜の帳の中で、幽霊のようにふわりと立ち上っては、すぐに消えていく。
言葉の一つ一つが、誰かの不安を映した鏡のように感じられた。否、たぶん、誰もが自分の中の恐怖を、あの若き主君の影に投影しているのだ。
(決めかねているのか、それとも、すでに決めたのか……)
彼自身、主君である秀秋の顔を、遠目に、ほんの一度だけ見たことがあった。
精悍な、凛々しい顔立ちではあったが、その奥に、深淵のように潜む、複雑な感情の、ほんの欠片すら窺い知ることはできなかった。
(あれが、俺たちをどうするのかも知らずに、俺は飯を食って、明日を待ってる)
どうせ、生き延びることしか考えていないくせに、誰かの判断に苛立っている自分が、滑稽だった。
けれど、命を預けるしかない身だからこそ、せめて主君の迷いくらいは、見えやすくあってほしい――そんな、身勝手な願いが、心のどこかにあったのだ。
(……本当に、あの顔の奥には、何があるんだ)
顔つきではわからぬ。声も聞いたことがない。ただ、その沈黙の深さが、逆に重苦しくのしかかってくる。
主君の不安は、兵の不安になる。主君の沈黙は、兵の焦燥になる。それでも――それでも、自分はまだここにいる。歯を食いしばり、地べたに座り込みながら、生きる隙を探している。
(やれやれ、こうして誰かの決断を待つしかないのが、兵ってやつか)
そんな愚痴めいた思いが、ふと心に浮かび、それを押し殺すように、冷たい空気を吸い込んだ。
彼らは、西軍の一員として、この、天下分け目の地にいるはずだった。
(……“はずだった”って何だ?)
心の中でそう繰り返してみても、その“はず”が、もはや根元からぐらついているような気がして、寒気がした。
しかし、数日前から、敵である東軍の、見慣れない装束を纏った使者が、山に棲む獣のように、頻繁に、そして隠密に山を上り下りしているという、奇妙な噂が、兵たちの、ざわめく耳に、小さな虫の知らせのように届き始めていた。
最初は、誰もが、疲れた頭で聞く、単なる冗談半分に聞き流していたその話も、日が経つにつれて、水面に広がる波紋のように、じわじわと真実味を帯びてくる。
(……あり得ないことじゃない。けど、あり得てほしくはない)
そう思うくせに、心の奥では「もしそれが本当なら、何か変わるかもしれない」という、希望とも逃避ともつかない感情が、微かにくすぶっていた。
夜営の、心細い焚火を囲み、顔見知りの仲間たちが、明日の運命を案じるように、不安げな表情で、互いの顔を見合わせた。
「一体、俺たちは、どっちの味方につくんだ?」
誰かがそう口にしたとき、誰もが一瞬黙り込んだ。火の揺らぎだけが、まるで答えを持っているかのように、赤くうねっていた。
素朴な疑問は、深い霧の中の灯火のように、誰の口からも、明確な、そして安心できる答えを引き出すことはなかった。
(本当に、“西軍”なのか? 俺たち。明日、どっちを斬るんだ?)
何も知らされないまま、ただ命令を待つ身。戦の大義も、味方の顔も、あやふやなまま、朝を迎えるのか。
上層部の、雲のように掴みどころのない動きは、末端の、名もなき兵士たちには、遠い国の言葉のように、何も知らされなかった。
(命を賭けるってのに、理由すら与えられない。それでも、俺たちは動くんだな)
自分が誰のために剣を抜き、誰に裏切られ、誰を信じていたのか――すべてが、白い霧の中でぼやけていた。
それでも焚火の前に座り続けていたのは、恐怖より、何も知らされないことへの無力感が、足を動かす気力を奪っていたからだ。
(明日、もし、敵の旗がこの山に立っていても……俺は驚かない。いや、もう驚けない)
そう思った瞬間、指先がかすかに震えているのに気づいた。情けなさと、それでも生き延びたいという、拭えぬ欲が、心の奥でせめぎ合っていた。
やがて、遠くの、低い地平線が、燃える炎のように赤く染まり始めた。
(始まったのか……いや、始まってしまったのか)
それは、これまで、死んだように静かだった山に、その静寂を破るようにして始まった、無数の、死を運ぶ鉄の雨の、不吉な序章だった。
誰かが、ごく小さな声で「音が……聞こえるな」と呟いた。その声は、決して確認のためでも、誰かを安心させるためでもなく、ただ自分の不安を少しでも外へ逃がすための、か細い逃げ道のように聞こえた。
関ヶ原の、広大な盆地では、すでに、想像を絶する激しい戦いが、繰り広げられているらしい。
(“らしい”か。俺たちは、もうここにいるのに)
山の上から、遠い星を見つめるように見下ろすその光景は、彼とは全く関係のない、遠い世界の出来事のようだった。
(あそこにいる誰かが死んでも、俺は何も感じない。だけど、あそこにいたのが俺でも、おかしくはなかった)
無数の、黒い点のような人影が蠢き、白い煙が、生き物のように立ち上り、時折、腹に響くような、鈍い轟音が、大地の呻きのように、ここまで遅れて響いてくる。
(音が届いても、叫びは聞こえない。煙は見えるのに、血の匂いはしない)
それなのに、どうしてか、手のひらだけがじっとりと汗ばんでいた。
(俺は、ここで何を待っている? 命令? 裏切り? それとも……誰かの、ためらいの終わりを?)
誰も何も言わない。ただ、風が吹いていた。音のない合図のように、山をなでて通り過ぎていく。
(あの盆地の地面にも、昨日までは、畑や道があったんだろうな)
そう思った瞬間、胸のどこかが、わずかに軋んだ。遠い誰かの命と、自分の命が、同じ重さで地面の上に転がっている。そんな感覚が、言葉にならないままに彼の中に沈んだ。
彼はただ、その、理解を超えた混乱を、魂が抜け殻になったかのように、茫然と見つめていた。
(何がどうなっているのか、わかりはしない。でも……だからって、俺の足がどこかへ逃げ出すわけでもない)
視線の先で、幾つもの旗が風に揺れていた。東軍、西軍、どちらの色にも、彼の心は揺れなかった。ただ、それが命を奪い合う印であるということだけが、妙に鮮やかに思えた。
東軍がどうとか、西軍がどうとか、そんな、偉そうな大義名分は、土にまみれて生きてきた彼には、雲の上の出来事のように、遠い世界の物語だった。
(上の連中はきっと、"正義"とか"忠義"とか、立派な言葉で戦を始めたんだろうよ。でも、俺が斬る相手に、正義なんてあるか? あるのは、生きるか死ぬか、それだけだ)
言葉にはならない苛立ちが、喉元に溜まっていた。けれど、それを吐き出せば、ますます虚しくなる気がして、彼はただ黙っていた。
故郷の、小さな村では、毎日、朝から晩まで田畑を耕し、春の芽出し、夏の強い日差し、秋の収穫、冬の静けさという、季節の、穏やかな移ろいの中で、ただ、生きるということを繰り返してきた。
(あれが、本当の戦だった気がする。陽を追い、水を運び、雑草と張り合って……あの暮らしの中には、争いがなかったわけじゃない。でも、それは命を取り合うためのものじゃなかった)
戦など、彼の、ささやかな日常とは、月の裏側のように、縁のないものだと、心の底から思っていた。
(それなのに、どうして俺は、こんなところで刀をぶら下げてる?)
しかし、一枚の、冷たい紙切れの徴兵令状が、彼の、ささやかで、しかし大切な日常を、いとも簡単に、引き裂かれた布のように引き裂いたのだ。
そのとき、村の年寄りがぼそっと言った一言が、今でも耳に残っている。
「風が吹けば、飛ばされるのは藁葺き屋根だ」
(ああ、そうだった。俺は藁のようなもんだったんだ)
彼は、自分が戦場にいる理由を、未だにうまく説明できなかった。ただ、与えられた場所に立ち、与えられた刃を持ち、今日という日を待っているだけだった。
彼にとって、この、目の前で繰り広げられている戦いは、誰かの掲げる、正義という名の旗のためのものではなかった。
(“正義”ね……それで腹が満たせるなら、皆とっくに戦なんぞ捨てとる)
ただ、与えられた、この見知らぬ場所で、上から与えられた、理解できない命令に、ただ、従う。
(命じられれば、動く。それが“兵”ってもんだろ。違うのか?)
(……いや、本当は、違うはずだ。でも、違うって言ってどうなる?)
それが、彼のような、名もなき末端の兵士にできる、唯一のことだった。
「動け」と、冷たい声で命じられれば、彼は、震える手で、支給された錆びた刀を取り、見知らぬ、顔も知らない敵に向かって、ただ、走るだろう。
(“敵”って、誰のことなんだ。あっちの奴らも、俺と似たような顔してるだろうに)
その先に、何が待ち受けているのか、考えることさえ、許されないような気がした。
考えれば、足がすくむ。だから考えない。
怯えを押し込めるように、彼は目を閉じた。まぶたの裏に浮かんだのは、朝霧の立つ田んぼ、濡れた畦道、干し柿の揺れる軒先――。
いつか、山を下る日が来るのだろうか。いつか、温かい故郷の土を、再び、この足で踏みしめることができるのだろうか。
(せめて……せめて、あの土を、もう一度だけ)
そんな、あまりにもささやかな願いを、小さな灯火のように胸に抱き、彼は、来るべき「その時」を、ただ、ひたすらに、静かに待ち続けていた。
(どうせ名も残らぬ身だ。それでも、生きて帰れば、今日を知ってる自分が残る)
(誰にも語られなくていい。ただ、自分だけでも、今日を生き延びたと言えるように――)
風が、ほんの少しだけ、草を揺らした。それはまるで、彼の小さな祈りを、誰かが聞き取ったかのようだった。
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