第三章 3-2. - 松尾山、黄昏の沈黙

薄暗い黄昏が、重い布のように、松尾山の陣幕をじっとりと、そして陰鬱に覆っていた。吹き抜ける、乾いた山風は、木々の葉をざわつかせ、ため息のような音を立て、時折、遠くの、生々しい鉄の匂いを孕んだ戦場から運ばれてくる、血なまぐさい微かな臭いを、秀秋の敏感な鼻腔に届けた。


――風の匂いが変わった。死の匂いだ。


眼下には、巨大な蟻の巣のように、両軍が入り乱れる関ヶ原の盆地が広がり、燃え盛る夕焼け空の下、無数の人影が、蠢く虫のように小さく見えた。鬨の声、兵士たちの怒号、そして、途切れることのない雨音のように、絶え間なく響き渡る銃声と、刀剣がぶつかり合う、耳障りな金属音は、巨大な、怒り狂った生き物の咆哮のように、容赦なく、秀秋の陣まで、重く、そして騒々しく押し寄せてきた。


――あの中に、私はいない。だが、傍観していて許される立場でもない。


背後では、家臣たちがそわそわと視線を交わしていた。誰一人声には出さぬが、その沈黙の中に、はっきりとした問いが渦巻いていた。

「殿は、まだご決断をなさらぬのか」と。


その沈黙が、かえって秀秋の耳には騒音よりも重く響いた。


(動け、動かねば、歴史は私を臆病者として記すだろう……)


だが、動こうとするたびに、足元の地面がぬかるみのように軋む。

「豊臣に殉じるべきか、徳川に靡くべきか」――そんな単純な天秤ではない。

彼の胸の奥では、それよりもずっと泥のような感情がうごめいていた。


(勝てば裏切り者。負ければ愚か者。……私は、どこに立っても、誰かを失望させる)


風が再び木々を鳴らす。その音に、彼はふと肩をすくめた。寒さではなく、恐れでもなく、ただ、何かがもう遅すぎる気がした。


(太閤殿下、あなたなら、今の私をどう見られるでしょうか……)


問いを投げても返る声はない。ただ夕焼けの赤が、彼の甲冑に鈍く反射していた。

その光が、血のように見えたのは――たぶん、空のせいではなかった。


小早川秀秋は、その、耳を塞ぎたくなるような騒乱を遠い世界の出来事のように背に、本陣の中央に置かれた、どっしりとした、しかしどこか飾り気のない腰掛けに、石像のように静かに腰を下ろし、ただ、眼下の、混沌とした戦況を、動かない彫像のように見つめていた。


燃え盛る夕陽が、彼の、まだ若々しい顔に、複雑な、そして陰鬱な陰影を落としている。

その表情は、凍り付いた冬の湖面のように微動だにせず、周囲の、騒々しい、そして焦燥の色を帯びた喧騒とは、目に見えない壁によって隔絶された、異様な、そして不気味な静けさを湛えていた。


――動かなければ、傷つかずに済むのではないか。

ふと、そんな考えが、凍った湖面の下から浮かび上がってくる。


しかし同時に、それはまるで、自分の肉体から魂が離れつつあるような、不安と空虚の予兆でもあった。


(決めなければ。けれど、決めるたびに、誰かを裏切る)


豊臣の恩義を想えば足はすくみ、東軍の現実に目を向ければ心は冷えた。

どちらを選んでも“正しさ”に届かない――その認識こそが、彼を石像に変えていた。


背後では、誰かが焦ったように陣幕を出入りしている。

声はかけてこない。秀秋が何も応えないことを、皆、もう悟っていたのだ。

その沈黙が、哀れみに近いものへと変わりつつあるのを、彼は感じていた。


(私は……この静けさを、どこまで保てるのだろうか)


夕陽は刻一刻と傾き、地平の影が、彼の足元にじわじわと滲み寄っていた。

決断の刻限が、黙って息をひそめながら、すぐ近くに立っていた。


西軍の陣からは、焦燥の色を隠そうともしない使者が、使い古された下駄のように、幾度となく、息を切らせて秀秋の陣を訪れ、彼の、理解不能な静観を、半ば詰問するような口調で問い詰めた。


「殿、なぜ、今もなお、動かぬのです! このままでは、我らが軍は、もはや、持ちませぬぞ!」


その声には、命運のすべてを託した者の、祈りと怒りと絶望が混じっていた。

同盟軍の、指導者である石田三成の、抑えきれない苛立ちと、未来への深い不安は、彼らの、悲鳴のような言葉の端々から、生々しく、そして痛々しいほど滲み出ていた。


だが、秀秋は――


ただ、深い、そして意味深な沈黙を貫いていた。


口を開けば、何かが決壊してしまう気がしていた。

出すべき答えが、あまりにも多すぎて、ひとつも形にできなかった。


(動けば終わる。だが、動かずにいれば、すべてが静かに崩れる)


沈黙は、選択ではなく、一時しのぎの“保留”に過ぎないと、彼自身も気づいていた。

けれど、その「何も決めていない」という空白だけが、今の彼に許された唯一の防壁だった。


「……」


答えを待つ使者の目は、既に信頼を失った者のそれに変わっていた。

それを見ても、秀秋は表情ひとつ動かさなかった。

否、動かせなかった。


その、光を吸い込むような漆黒の瞳の奥底で、一体何を考え、何を思い描いているのか、誰も、彼の最も近しい家臣でさえ、窺い知ることはできなかった。


(今、動けば……たしかに、戦の流れは変わる。だが、そのあと私は、何者として残るのだ?)


勝者としてか。裏切り者としてか。それとも、誰の記憶にも残らぬ、影のような存在としてか。

いずれにせよ、それは自分の意志で決めなければならない。

誰も、もう彼を導いてはくれなかった。


そしてその静けさこそが、彼をいっそう孤独にし、沈黙をなおさら深いものにしていった。


一方、東軍の、老獪な狸である徳川家康が放った、忍び寄る影のような密使は、夜の帳のように静かに、秀秋の陣に、幽霊のように現れては、甘美で、しかしどこか毒を含んだ言葉を、彼の耳元で囁いた。


「今、殿が、賢明なる御決断をなされれば、殿の未来は、磐石の安泰でございます。家康公は、必ずや、殿を厚く遇されるでしょう。」


その、巧妙に練られた言葉は、秀秋の、若い心の奥底に潜む、野心という名の小さな火種と、未来への拭いきれない不安という名の暗い影を、熟練した扇使いのように、巧妙に、そして確実に揺さぶった。


(……磐石の未来、か。未来を約束されることなど、これまで一度でもあったか?)


秀秋は、喉の奥に湧いた苦笑を、咳払いでごまかす。

幼少の頃より、他人が用意した「期待の舞台」の上を歩かされ続けてきた。そのどれもが、自分で選んだ道ではなかった。


(ここで“賢明”になれと?それが、太閤殿下への報いになるのか?)


胸に去来するのは、家康の誘いに感じる「安堵」と「嫌悪」が入り混じった、何とも形容しがたい感情だった。

確かにその言葉は、未来を照らすように聞こえた。けれど、その光はどこか冷たく、月光のように頼りなく思えた。


背後で控える家臣の一人が、短く息を呑んだ。

言葉にこそ出さぬものの、その微かな反応は、主の沈黙が“傾きつつある”ことを、敏感に察した証だった。


(私は、私の意志で……動こうとしているのか?それとも、ただ、強い風に背を押されているだけなのか?)


密使は再び、音もなく退いた。

しかしその不在こそが、言葉より雄弁に、心の奥に残響を響かせていた。


秀秋は、視線を上げる。遠く、山の下で火の手が上がる。誰の火か――味方か、敵か、それさえ分からない。

ただ、ひとつだけ確かに感じていたのは、自分の中に生まれつつある決意が、もはや“迷い”では誤魔化せないほどの重みを持ち始めている、ということだった。


秀秋の周囲では、日増しに、彼に裏切りを促す声が、鴉の群れのように大きくなっていた。刻々と悪化する、泥沼のような戦況に、家臣たちは、それぞれの、保身という名の打算を胸に、主君である秀秋に、壊れたレコードのように、何度も何度も同じ進言を繰り返した。


「殿、ここは、一発奮起し、天下の趨勢を見抜き、家康公に、未来を託し、味方すべきです!」


「いや、今は、まだ、軽率に動くべきではありません。西軍が、まだ、表面上は優勢に見えます。ここで、もし、裏切れば、万が一、西軍が勝利した場合、我らは、逆賊として、一族郎党、皆、滅亡するでしょう!」


どちらの声にも、正しさのような響きがあった。だが、それ以上に濃く滲んでいたのは――恐れだった。

生き延びるための言葉。敗者になりたくないという焦燥。それが、進言の裏に透けて見える。


(彼らは“正義”ではなく、“生存”を選ぼうとしている)


その冷静な観察の裏で、秀秋自身の胸にも、同じ感情が巣食っていることを、彼は認めざるを得なかった。


(……ならば、私は何を選ぼうとしているのだ?)


耳元で飛び交う言葉が、次第に意味を持たない音の波となっていく。誰の言葉も、どこか他人事のように響いた。

彼の沈黙を「動揺」と見る家臣もいれば、「熟慮」と解釈する者もいたが、その実、秀秋の心は、そのどちらでもなかった。

迷い、ではない。ただ、決断という名の扉の前で、手をかけたまま、開けることを怖れている――そんな心持ちだった。


(どうして、私は、こんなにも臆しているのか。誰のための戦だ?何を守るために、この場にいる?)


己の問いが、己を追い詰める。

かつて太閤殿下の前では、どれほどに無邪気だったか。問いなど持たずに、ただ命じられるままに動いていればよかった。


だが、今は違う。決めねばならぬ。しかも、それを「自分で」決めねばならぬ。


その重さに、知らぬ間に息を詰めていたことに気づく。

ふと、膝に置いた手がわずかに震えていた。

それを見た家臣の一人が、言葉を飲み込み、視線を逸らした。


(……彼らも、私の“正しさ”を信じてはいないのだな)


それでも、答えは出なかった。出すには、もう少しだけ、心の奥で何かが熟すのを待たねばならぬ気がした。


若き日の秀秋にとって、その決断は、あまりにも重すぎた。

東軍につくか、西軍につくか。あるいは、このまま、動かない石像のように静観を続けるのか。

どの道を選んだとしても、その先に、光と影のように待ち受けているのは、栄光という名の眩い陽光か、それとも、破滅という名の暗い深淵か。


(どちらを選んでも、私は誰かを裏切ることになる……それを、選ぶというのか?)


まだ決して多くを知ってはいない若さゆえにこそ、希望は曖昧で、恐れは過剰だった。

それは、未来が開けているという自由の裏返しであり、同時に、その自由がもたらす責任の重さに押しつぶされる不安でもあった。


一度、何気なく目を伏せたとき、己の膝がわずかに震えていることに気づいた。

誰もそれを咎めはしなかったが、近習の一人が、ちらと視線を逸らした。まるで、見てはならぬものを見てしまったように。

その視線の細やかさが、何よりも刺さった。


(私は……見られている。見張られているのではなく、“見守られている”のだ)


信じられているわけでも、頼られているわけでもない。ただ、「この若き主君が、いずれ決断を下すはずだ」と、皆が祈るように待っている。そのことが、重く、怖かった。


若さゆえの、未来への漠然とした恐れと、計算された打算が、彼の若い心を、激しい嵐の海のように、激しく、そして容赦なく揺さぶっていた。


(本当に、私は……自分で、この嵐を乗りこなせるのか?)


まるで自分の中に、幼さと老成が共に住んでいるかのようだった。

忠義が耳元で叫び、野心が胸を叩き、不安が足元から冷気のように這い上がってくる。


それでも、ただ流されてしまえば、きっと何も残らない。

誰かの言葉ではなく、自分の意志で、一歩目を踏み出さねば――。


けれど、今はまだ、その足が前に出る気配はなかった。


戦場の、地獄の釜のような喧騒は、容赦なく、秀秋の耳朶を叩き続ける。

目の前で、繰り広げられる、生きた屍の群れのような激しい攻防は、遠い国の出来事のように、どこか他人事のように遠く感じられた。


――音が遠い。いや、音が多すぎて、すべてが無音に思えるのか。


(どうしてこんなにも、実感がわかないのだろう)


戦とは、もっと劇的で、もっと明確な激情の場だと思っていた。けれど、いざその渦中に置かれた自分は、まるで舞台の袖から芝居を眺めている観客のようで、ただ、冷たい汗だけが背筋を伝って流れ落ちていた。


彼が今、最も深く苦しんでいるのは、自らの、あまりにも若い命運が、戦場の、気まぐれな女神のような勝敗という、不確かな要素に左右されることではなく、最終的には、誰でもない、己自身の、あまりにも重い決断にかかっているという、紛れもない、そして残酷な事実だった。


(誰も、最後まで「決めろ」とは言わなかった。ただ、私が「決めるだろう」と信じているだけだ)


それが、静かに、だが確実に秀秋を追い詰めていく。

家臣たちの視線、三成の焦燥、家康の静かな誘い。それらすべてが、自らの内にある未熟と、恐れと、欲望と、忠義のせめぎ合いを照らし出し、露わにしていた。


夕闇が、全てを飲み込む巨大な口のように、次第に濃くなる中、秀秋は、ただ一人、重い、そして出口の見えない沈黙の中で、出口のない迷路を、永遠に彷徨い続けていた。


(答えは、すでに心のどこかにあるのかもしれない。それでも私は、その答えを“選ぶ勇気”を持たねばならぬ)


そしてその勇気は、誰からも授かることはできない。誰にも代わってはもらえない。

静かに噛み締めるように、秀秋はそう思った。

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