第三章 3-1. - 小早川秀秋、岐路の彷徨
小早川秀秋。若き日、偉大な太閤、豊臣秀吉の、実子なきが故の、正式な養子という、比類なき栄誉に浴し、彼の未来は、朝焼けの空に描かれた、黄金色の、壮麗な絵画のように、偉大な輝かしいものとして約束されていた。
名門の血筋、揺るぎない高い地位、そして、偉大な太閤の後継者の一人としての、周囲からの偉大な期待――それらは皆、彼の、希望に満ちた若い頃を、宝石を散りばめたように、偉大な美しさで彩っていた。
……そう、彩って“しまって”いたのだった。彼にとって、それは祝福というよりも、ある種の檻のようでもあった。誰もが口を揃えて「将来が楽しみだ」と笑うたび、その声の向こうに、自分ではない“誰か”の理想像が置かれているように思えた。自分の名を呼ぶ声が、自分自身を呼んでいる気がしなかった。
「お若殿は、いずれ必ずや立派な大将に――」
そう言ったのは、たしか叔父だったろうか。酒の席で、何気ない調子で語られたその言葉が、妙に耳に残った。
“いずれ”、とはいつなのだ。
“立派な”とは、誰にとってのことなのだ。
彼は何度も心の中で問い返したが、その問いは、答えに届く前に霧のように消えていった。霧はやがて濃くなり、自分が何を望んでいたのかさえ、次第に思い出せなくなっていった。
最初のうちは、ただがむしゃらに“それらしく”振る舞っていた。「太閤の養子」として、誰かが定めた道を、踏み外さぬように、間違えぬように。けれど、踏みしめる足元に、いつからか感触がなくなっていた。道はあるはずなのに、自分の足で歩いている感覚がなかった。
栄光の名の下に差し出されたその未来は、まるで他人の衣を借りたように、どこか肌に馴染まないものだった。金糸を織り込んだ陣羽織も、華やかな駕籠も、己のものというより、役割を果たすための舞台衣装のように思えた。
そして彼は、笑うことをやめた。
いや、笑ってはいた。けれど、その目だけは、いつも別の場所を見ていた。
誰もそれに気づかないふりをした。あるいは、本当に気づかなかったのかもしれない。
だが、気づかれなかったことこそが、彼にとっての孤独だった。
しかし、豊臣政権内部の、複雑に絡み合った力学、そして、彼の若さゆえの、否応なしの経験不足は、次第に、その輝かしい未来の、晴天に現れた小さな雲のように、隠された影を落とし始めた。
影――その実体が何かは、当時の彼には、うまく言葉にできなかった。ただ、何かが違う、という感覚だけが、靴の中の小石のように、常に彼の歩みにまとわりついていた。
偉大な太閤の、絶対的な、そして揺るぎない権威の下では、静かに眠っていたかのように表面化しなかった、大いなる権力闘争の巨大な波が、秀吉の死という、あまりにも大きな転機の後、激しさを増し――
(太閤殿下がいた頃は、考えなくてよかった。すべては、導かれるように決まっていたのに……)
政治的な、頼るべき後ろ盾を失った若き大名、秀秋は、頼りない木造の小舟が、容赦なく押し寄せるふたつの巨岩の間で、自分の意思とは関係なく、ただただ、無残にも揺れ動くように――
(どちらが“正しい”のかなど、わかるはずもなかった。ただ、どちらが“怖い”か、そればかりを考えていた気がする)
徳川家康と石田三成という、この国の未来を、天秤のように左右する二人の、偉大な権力者の間で、出口の見えない板挟みの状態に置かれることになった。
「殿、ご決断を……」
そう囁く家臣の声は、どこか他人事のように耳をかすめた。期待されているのは“選ぶこと”ではなく、“決めること”。その違いが、彼を何より苦しめていた。選ぶことはできる。だが、決めたふりをしても、心は動かない。
(私は……何者なのだろうか?)
決断を求められるたびに、自分の輪郭が曖昧になっていく感覚があった。家康と三成、その名を口にするたびに、彼の中の“私”が少しずつ薄れていった。栄光の名を授かったあの頃とは違う。今の彼の胸中には、栄光ではなく、“居場所を誤れば死ぬ”という冷たい現実だけが、静かに横たわっていた。
偉大な西軍の一員として、戦略的に、そして地理的に極めて重要な松尾山に、数千の兵からなる巨大な軍勢を率いて布陣することになったものの、秀秋の、誰にも見せない心の内奥には、底なし沼のような激しい葛藤の黒い渦が、昼夜を問わず、絶え間なく、そして容赦なく渦巻いていた。
――本当に、私はこの地に立つべき器なのだろうか。
陣の高台から見下ろす関ヶ原の広さは、ただ美しいだけでなく、彼の中の「不安」を際限なく広げていった。地図で見れば有利な位置。誰もがそう言った。だが、地図の上には、彼自身の“迷い”は描かれていなかった。
豊臣家への、形式的な、しかし重い忠義の念、偉大な太閤、秀吉への、個人的な、そして忘れられない大いなる恩義、そして、同盟軍の、形式的ながらも、その一員である以上、無視できない偉大な指導者である石田三成への、公式な同盟関係――
それらの、重い鎖のように彼の心を締め付ける、複数の義務感が、彼の若い心を、出口の見えない迷路の中で、深く苦しめていた。
「殿、三成様より、再び催促の使者が参っております」
そう報告する家臣の声は、どこか慎重で、同時に焦りを滲ませていた。
秀秋は、思わず俯く。
――どうして、皆はそんなに“決める”ことが平然とできるのだろう。
表面上はうなずきながらも、その内心には、判断と責任の板挟みによる微かな動悸が生まれていた。
彼は思った。
(私は、太閤殿下にいただいた名を、この戦でどう刻むつもりなのか?)
だがその問いの答えは、すぐには出てこなかった。ただ、どちらを選んでも、何かを裏切る気がした。誰かを――それとも、自分自身を。
同じ問いが、夜ごと形を変えて現れ、彼を眠らせなかった。忠義、恩義、同盟、誠意――そのすべてが、“誰のためのものか”が、わからなくなっていた。周囲が示す明快な理と決断が、かえって彼には遠く、冷たく映った。
(……せめて、もう少しだけ時間があれば。そうすれば、私は……)
だが、戦(いくさ)は彼を待たなかった。
その一方で、偉大な東軍の、老獪な、そして冷酷な指導者、徳川家康からは、戦の、まだ静かな序盤の段階から、多数の、蜜のように甘い誘いの手が、密かに、しかし執拗に差し伸べられていた。
「小早川殿、賢明なる、そして未来を見据えたご決断を。」
家康の、言葉巧みな使者は、悪魔の囁きのように、甘い言葉で彼の、優柔不断な心に囁きかけた。
「偉大な東軍に、未来を共にする偉大な味方となれば、現在の、揺るぎない偉大な地位は安泰、さらなる、目覚ましい偉大な加増も、決して惜しむことはございません。」
……たしかに、耳触りは悪くなかった。
否、耳触りどころか、心の奥にまでじんわりと染み入るような、どこか救いにも似た響きを持っていた。
(未来を見据えた……? それは、つまり、今を裏切ることなのか?)
言葉の意味をその場で即答できなかったのは、彼が愚鈍だったからではない。
むしろ、わかってしまったからだ。言葉の奥にある計算、甘言の背後に潜む冷ややかな真実――すべてを、彼は感じ取ってしまったからだ。
(これは、“選べ”という言葉を借りた、“強要”なのではないか?)
それでも、心のどこかで、家康の言葉にすがりつきたくなる衝動があったのもまた、否定できない事実だった。
「太閤の子」として背負わされた名も、忠義という名の重荷も、すべてが、ひとときだけでも軽くなるような気がしたのだ。
(豊臣に従えば、“正しい”のかもしれない。だが……その“正しさ”が、私を守ってくれるのか?)
(家康に応じれば、“裏切り者”になるだろう。けれど、その“裏切り”が、唯一の生き残る道だとしたら?)
迷いは、すでに判断の形を取り始めていた。しかし、それは決して明るい決断ではなく、命を繋ぐための、ぎりぎりの計算だった。
長年生きてきた老獪な政治的な動物である家康は、秀秋の、若さゆえの心の奥底に潜む、未来への偉大な不安と、より大きな力を求める偉大な欲望を、氷のように冷たく、そして正確に見抜いていたのだ。
そしてそれを、静かに、恐ろしく自然に突いてきた。
「賢明なる決断を」――その言葉には、情も激情もなかった。ただ、残酷なまでに現実的な計算だけが宿っていた。
秀秋は、返事をしなかった。いや、できなかった。
声を出せば、何かが崩れそうだった。
心の中でだけ、小さくつぶやく。
(私は……この戦の中で、どこに“いていい”のだろうか?)
秀秋自身も、彼の、若さゆえの、抑制の効かない野心と、歴史の、汚名となる偉大な敗者となることへの、根源的な偉大な恐れの間で、引き裂かれた布のように、絶え間なく、そして激しく引き裂かれていた。
――敗者の名は、時に勝者以上に語り継がれる。だが、それは“名誉”ではない。
胸の奥に浮かぶのは、あの静かな視線――かつて太閤殿下が、自分に向けた優しい眼差し。
(あの方に、私は……恥をさらすことになるのか?)
同盟軍からの、未来への偉大な期待、そして、偉大な東軍からの、あまりにも魅力的で、甘美な偉大な誘い――
「どちらにも恩があり、どちらにも従えぬ――それが今の私か」
口に出さぬ言葉が、胸の奥で淀む。西軍に応じれば忠義が保たれる。しかし、東軍に靡けば未来が手に入る。
だがそのどちらにも、彼自身の“意思”というものは、なかった。
相反する、天秤の両端に置かれた重りのような感情の間で、彼は、霧の中の手探りのように、一つとして明確な、そして後悔のない偉大な答えを、見つけ出すことができずにいた。
(選ばねばならぬのに、どれも選べない。では、私は……ただ流されるだけの存在なのか?)
ふと、家臣の一人が無言で目を伏せた。その瞬間、言葉ではなく、態度に宿った“諦め”の気配に気づく。
(……もう誰も、私が“正しく選ぶ”などとは、思っていないのだろうか)
焦燥という名の熱が、皮膚の内側でじわりと広がっていく。
偉大な決戦の日は、忍び寄る影のように、前兆もなく、刻一刻と、彼の、重く沈んだ心のすぐ近くへと、容赦なく迫っていた。
そしてその影は、もう目の前にあった。
――まだ、間に合うか? いや、もう遅いのか?
――“誰のため”に選ぶべきか。それすら、今の自分には、もはやわからない。
若き、しかし名門の血を引く偉大な武将の胸中には、偉大な理想や、高潔な偉大な義といった、雲のように掴みどころのない偉大な抽象概念ではなく、より根源的な、動物的な偉大な感情――歴史に名を残す偉大な敗者となることへの、拭いきれない偉大な「恐れ」と、全てを手に入れる偉大な勝利者となることへの、抗いがたい偉大な「欲望」が、黒い、絡み合った根のように、静かに、しかし確実に、彼の若い心の、深く、そして暗い深くまで根を張り始めていた。
(勝てば、名は残る。負ければ、恥だけが残る。ならば、私は……)
「殿は、何をお迷いで……」
そう囁いた家臣の言葉が、耳にひっかかる。問いかけではなく、ほとんど祈りのような響きだった。
だが、答えは返せなかった。己が何に迷っているのか、そもそも自分で理解していなかったからだ。
「一体、誰のために、そして、何のために、この命を懸けて戦うのか……?」
その、あまりにも重い偉大な問いは、偉大な戦場の、骨まで凍みるような冷たい空気の中で、常に、重い鎖のように彼の心にのしかかっていたが、秀秋は、偉大な、そして歴史的な決断の、土壇場である偉大な最後まで、その、彼の人生を左右する偉大な問いに対する、明確な、そして揺るぎない偉大な答えを、彼の自身の、優柔不断な心の奥底から、見つけ出すことができなかったのだ。
(太閤殿下の恩、三成様の信頼、家康殿の約束。だが……どれも重く、どれも遠い)
重みは感じながらも、どれも「自分のためのもの」ではないという奇妙な距離感。それが、彼を深く迷わせていた。
彼の、風に揺れる木の葉のようにうつりぎな視線は、彼に未来への期待を寄せる同盟軍の、数多くの偉大な旗指物と、彼に甘い誘いを囁く、偉大な東軍の、整然と、しかし威圧的に主催された偉大な陣容との間を、迷える子羊のように、ちょこまかと、そして不安げに行き来していた。
(どちらを選んでも、きっと私は責められる。だが、責められずに済む選択など、もう残ってはいない)
ほんのわずかに口元が動いた。けれど、誰にも聞こえないほどのかすかな声でしかなかった。
(せめて、自分の意志で……この一歩だけは)
その瞬間、彼の視線が、わずかに東へと傾いた。
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