第三章 3-3. - 松尾山、裏切りの狼煙

薄暗い空の下、徳川家康が、静かに獲物を狙う老いたる狼のように据えた鉄砲隊が、乾いた咆哮と共に火を噴いた。

乾いた、しかし耳をつんざく爆音が、夕暮れの、時間が止まったような静寂を鋭く切り裂き、周囲の山肌に、深い溜息のように鈍く反響する。


松尾山の頂に、重い沈黙を纏って陣取る小早川秀秋の耳にも、その、威嚇とも、あるいは彼の決断を促す誘導とも取れる、計算された一撃は、否応なく、体に突き刺さる棘のように届いた。


(……今の一発、あれは――)


その音が、鼓膜ではなく、胸の奥を直接震わせるように響いた瞬間、秀秋は思わず拳を握った。

掌の中で微かに汗ばんだ指が滑る。それに気づいた自分が、どこか他人のように感じられた。


燃え盛るような、焦燥という名の熱い炎と、氷のように冷たい、打算という名の暗い影が、彼の若い胸の中で、底なしの渦のように激しく渦巻いている。


(あの音は……選べ、と言っているのだ。いや、選ばねばならぬ、と)


眼下には、西軍の、誇り高き旗印が、最後の抵抗を示すかのように夕風に寂しく揺れ、

その向こうには、天下を狙う徳川の、巨大な軍勢が、獲物を待ち構える蛇のように、静かに、しかし確実に息を潜めている。


どちらに転んでも、その先に待ち受けているのは、茨の道であることは、秀秋の若いながらも聡明な頭脳には、痛いほど理解できていた。


(もし、ここで踏み出せば――私は、歴史に名を刻むだろう。けれど、それが誉れか、恥か、今はまだ分からない)


そしてまた一つ、鉄砲の音が鳴った。先ほどよりもわずかに近く、そして、わずかに重い。


それは、まるで背中を押すような、冷たい手のひらの感触だった。


(秀吉様……私は、あの光を、ずっと追っていたつもりでした。けれど、今の私は、どこを向いているのですか)


若さゆえの純粋さが、忠義と打算のあいだで引き裂かれる。

だが、その揺れはもう、耐えうる限界を超えていた。


そして――

あの、乾いた鉄砲の音は、彼の、優柔不断という名の躊躇を、熟れた果実が枝から落ちるように断ち切る、最後の、そして決定的な一押しとなったのだ。


若き日の、抑えきれない血の滾りか、あるいは、暗闇の中に掴もうとした、未来への、ほんの一縷の、儚い望みか。

――もしくは、そのどちらでもなく、ただ、ここから逃れるための唯一の道だったのかもしれない。


秀秋はついに、これまで共に戦ってきた、西軍への、あまりにも残酷な牙を剥くという、歴史を大きく変える決断を下した。


(……もう、誰にも縋れない。ならば、私は……私自身を信じるしかないのだ)


そう思うことが、果たして信念と呼べるものなのか、自身にも分からなかった。ただ、それでも進まねばならなかった。進まねば、終わる。自分のすべてが。


山を、そして彼の内なる葛藤を震わせるほどの、野獣の咆哮のような雄叫びを上げ、これまで静かに待機していた小早川軍の、数千の兵たちが、堰を切った濁流のように一斉に駆け出した。

土埃を巨大な塊のように巻き上げ、行く手を阻む草木を無慈悲に踏み倒し、急峻な斜面を、怒涛の奔流のように、一気に、そして容赦なく押し寄せる。


(耳を塞ぎたい。目を閉じてしまいたい。だが、それをした瞬間、私はただの臆病者になる)


自らが下した命令が、眼下の人間たちを、同胞を、裏切りという名の刃で切り裂いていく現実――

その重みが、後からじわじわと、まるで毒が回るように、彼の胸に広がっていく。


その、誰も予想だにしなかった、あまりにも衝撃的な攻撃に、石田三成の、誇り高き軍勢は、突然足元を掬われたように、たちまち、深い、そして致命的な混乱に陥った。

昨日まで、同じ理想を掲げ、共に勝利を誓い合った同盟軍だったはずの軍勢が、今日、手のひらを返したように牙を剥き、容赦なく襲いかかってくる。


(三成殿……申し訳ない。私には、あなたのようにはなれなかった)


口には出せぬ言葉が、喉の奥で、灰のように沈んでいく。

「正しさ」とは何か。それを選べぬままに、「決定」だけを選んでしまった自分がいた。


その、あまりにも重い「裏切り」という一言が、西軍の兵たちの、これまで辛うじて保たれていた心を、鋭い刃物のように深くえぐり、戦う意志を、抜け殻のように喪失させていく。


秀秋の瞳に浮かぶものは、歓喜でも、誇りでもなかった。

ただ一つ――己が手にした「未来」が、果たして光なのか闇なのか、それさえもわからぬまま、胸に重く沈む「責任」という名の熱だった。


秀秋の、あまりにも衝撃的な裏切りの報は、燎原の火のように、瞬く間に、関ヶ原の広大な戦場を駆け巡った。


(……本当に、これでよかったのか?)

誰よりも、その「報」を最初に受け取ったのは、他ならぬ秀秋自身だった。

その一報は、外に向けて発せられるより先に、己の内に落ちる重い鐘の音として響き渡ったのだ。


昨日まで、動かない岩のように静観を決め込んでいた、西軍の、他の、それぞれの思惑を秘めた武将たちも、この、あまりにも明白な、そして覆しようのない流れを冷徹に見定め、次々と、操り人形のように、これまで共に戦ってきた同盟軍へと、無情にも武器を向け始めた。


「……小早川殿が動かれた。もう、流れは決まったな」

誰かがそう呟くのを耳にしたとき、秀秋は思わず顔を背けた。

その言葉の重みが、まるで自分の意思などなかったかのように聞こえたからだ。

本当に、自分が望んだのは、これだったのか――?


戦況は、山頂から転がり落ちる雪玉のように、加速度的に東軍へと傾き、これまで優勢だったはずの西軍は、底なしの沼のような、深い、そして絶望的な混乱の様相に、みるみる染まっていく。


(私は……流れを作ったのか? それとも、流れに流されたのか……?)


頭では理解していた。どの道を選ぼうと、すでに遅かれ早かれ、こうなる未来だったと。

だが、その「理解」は、若き彼の胸に、何の慰めも与えてはくれなかった。


戦の趨勢は、確かに彼の一手で動いた。

しかしその瞬間から、秀秋の胸には、勝者の歓喜とはまるで異なる、冷たい風が吹きすさんでいた。


誰もが彼を「時代の鍵を握る男」として語るだろう。

だが彼自身は、その鍵を手にしたまま、どこにも開ける扉を見出せずにいた。


だが、その、あまりにも劇的な変化の、まさに中心にいるはずの、若き日の秀秋の顔には、一滴の、安堵の色も、喜びの輝きも浮かんでいなかった。

むしろその瞳には、深く濁った湖面のような、答えを求める苦悶の色が静かに宿っていた。


(……これが、勝利というものか?)

耳に届くのは、鬨の声でも、勝どきでもなかった。

胸に残っていたのは、ただ、打ち寄せる後悔の波だった。


自身が、自らの手で成し遂げてしまったことの、あまりにも重すぎる重さが、今になって、巨大な岩のように彼の若い肩に、深く、そして容赦なくのしかかってくる。

決断の瞬間には、ただ走るしかなかった。思考の隙間を恐怖と焦燥で埋めることで、ようやく足を前に出すことができたのだ。


けれど、その熱が冷めた今、遅れてやってきた現実が、痛烈に彼の心を刺した。

「お見事ですな、小早川殿」と、ある家臣が言った。

笑みを浮かべながら、しかしその目はどこか測るような色を帯びていた。

その言葉に、秀秋は返すことができなかった。ただ、かすかに喉が動いたが、声にはならなかった。


歴史の、あまりにも巨大な流れの中で、自身が、どのような、拭い去ることのできない位置に、場所を占めてしまったのか。

それを、彼が、真の意味で自覚したのは、きっと、敵となった、かつての同胞に、冷たい刃を突き立て、まだ温かい、生々しい血しぶきを、悪夢のように浴びた後だったのだろう。


その血の色は、赤ではなかった。

いや、赤いはずなのに、彼にはなぜか、それが黒く、どこまでも重たく見えた。

(……これが、私が選んだ未来なのか)


もう、戻る道はない。

そのことだけが、確かな現実として、彼の胸に沈み込んでいた。


一体、誰のために、そして何のために、彼は、この戦場で、自らの魂を切り売りするような決断を下したのか──

その問いは、何度反芻しても、心のどこにも、確かな答えを結ばなかった。


「勝てば官軍だ」

誰かがそう呟いた。

けれど、その言葉が、いっそ耳障りに思えるのはなぜだろうか。

勝利の中に立っているはずの自分の足元が、まるで霧の中のようにおぼつかない。


かつて、彼の胸に確かに存在した、偉大な理想も、揺るぎない固い忠誠心も、今の彼の胸には、冬の荒野のように、冷たい、そして深い空虚だけが、静かに、しかし確実に広がっている。

その空白に、何を埋めればいいのか、彼にはもうわからなかった。


……裏切ったのか? いや、違う。選んだのだ。

そう自分に言い聞かせようとしても、胸の奥底で揺れている感情は、否応なく別の声を発していた。

「お前は、信じられなくなっただけだ」

「お前は、ただ恐れただけだ」

「お前は、誰のためにも、動けなかっただけだ」


ささやく声は、どれも彼自身のものでありながら、どれひとつとして受け入れたくなかった。


ただ、目の前にいる、あまりにも明白な勝利者、時代の流れに乗った、勝ち馬に乗った男として、

彼は、埃まみれの、そして血の匂いが染み付いた戦場を、孤独な亡霊のように、ただ一人、静かに駆け抜けていた。


その若い背には、かつての同盟軍の兵たちの、氷の刃のような冷たい視線が、無数に突き刺さっているように、彼は、幻覚のように感じられた。

見上げた空は、燃えるような夕焼けに染まりながら、どこまでも虚ろで、温かさのひとかけらもなかった。


(この色も、やがて夜に飲まれる)

そう思うと、なぜか、たった今選び取ったはずの勝利すら、どこか遠いもののように感じられた。

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