第5話 春にはまだ遠い日々
あの人と出会い直すための、最後の季節だったのかもしれない。
再会して、笑いあって、ほんの少し泣きそうになった。
でも、それ以上のことは望まなかった。
わたしは、もう長くは生きられない。医師の言葉が現実だったと、身体がゆっくりと教えてくれる。
「また、会えるかな?」――
あの言葉に、わたしはただ、うなずくしかなかった。
翔太は知らない。
わたしのいない未来を、彼が歩いていくということを。
それでいい。彼が誰かと幸せになってくれたら、それでいい。
でもね――ほんとうは少しだけ、思ってた。
もう一度、手を繋ぎたかったなって。
隣で桜を見たかったなって。
わたしはきっと、あの春の光のなかにいた。
あの人の記憶の中で、静かに風に溶けていく。
春が来るたび、翔太のどこかに、わたしの名前が残っていたら、それでじゅうぶん。
夜、病室の窓がわずかに開いていて、かすかに春の匂いがする。
風の音が、遠くで波のようにざわざわと響く。
美咲は、ベッドの上に横たわりながら、手にしていた古びたスケッチブックをそっと閉じた。
指先に残る鉛筆の感触。それが、今夜はなんだか遠く感じた。
頭の中が、ぼんやりしている。
名前も、顔も、記憶も、もう輪郭を失って久しい。
でも、なぜだろう。
翔太の声だけは、まだ耳に残っている気がする。
「……しょうたくん……」
小さくつぶやいた自分の声に、胸の奥がじんと熱くなった。
思い出せないことばかりの毎日。
でも、確かにあのとき、春の終わりの日に、再会した。
手を握ってくれた。名前を呼んでくれた。
あの温かさは、夢じゃなかった。
何も言わなくても、わかってくれた。
何も話せなくなっても、笑ってくれた。
だからもう、いいんだと思う。
風が、カーテンを揺らす。
「……翔太くん、ありがとう……」
最後に浮かんだのは、笑っている彼の横顔。
それが誰なのかは、わからないのに、不思議と涙が出た。
瞼が重くなる。
夜が、静かに降りてくる。
痛みも、不安も、消えていく。
残されたのは、春の匂いと、遠くで聞こえる風の音だけ。
そして、美咲の胸は、そっと、ひとつ息を吸って――
――もう、それきりだった。
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