第4話 過去の日々 美咲
私が若年性アルツハイマーと診断されたのは、
14歳の冬だ
教室の窓から見えたのは、遠く霞む山々と、白い雪の原野だった。
静かな町。静かな日々。好きだった彼
彼はいつも少し不器用で、まっすぐで、どこか危なっかしい背中をしていた。
でも、その背中が歩く先に、自分もいたいと思った。
言葉にするには、幼すぎたかもしれないけど、それはたしかに“恋”だった
授業、部活、帰り道。いつも同じだった。
けれど翔太は、少しずつ何かを押し殺すようになっていった。
笑顔は変わらない。でも、その奥にある感情に、美咲は気づいていた。
「わたしのこと、見てるようで見てないね」
心の中で何度も呟いた。でも、
東京の病院に入院することになり美咲は東京に引っ越すことになった。東京に引っ越すということだけ
知らせたあの雪の降る夕方。翔太はただ「そっか」と言った。
それが優しさだったのか、諦めだったのか。美咲には分からなかった。
泣かなかった。
でも、帰り道の風がやけに冷たくて、握っていた手袋が濡れていた。
14歳の春、あの場所で別れたあと、美咲は東京に引っ越した。
病院の窓は、季節の流れだけは教えてくれた。
検査、検査、検査。CT、MRI、心理テスト。母の顔がこわばっていく。
診察室で聞いた病名は「若年性アルツハイマー」。医者は「とても珍しい」と言った。
美咲は、笑ってしまった。そんなことが、あるんだって。
16歳。
学校には行けなくなった。病室に届くプリントの束、気遣うクラスメイトの手紙、全部が少しずつ、他人のものに感じていく。
ある日、自分の名前を書けなくなった。泣きはしなかった。ただ、「次は何が消えるのかな」と思った。
17歳。
記憶が飛ぶ日が増えた。昨日のことを思い出せない。誰かの顔を、どこかで見た気がするけど、わからない。
でも、絵は描けた。曖昧な線でも、色でも、残っている感覚があった。
「今日は雪が降ったよ」と看護師が言った。窓の外は晴れていた。でも、美咲はその言葉を信じた。
18歳。
薬が少しずつ効かなくなった。日記をつけるように言われたけど、文字が乱れていくのがわかって怖かった。
でも、「翔太」という名前だけは、なぜか何度書いても消えなかった。
19歳。
夢を見た。中学の教室、体育祭のグラウンド、図書室の静けさ。ぜんぶ翔太がいた。
目が覚めると、何も覚えていなかったけど、胸の奥があたたかくて泣いた。
看護師が「恋してた?」と笑った。美咲も「うん」と笑い返した。
20歳。
退院の話が出た。進行はゆるやかになっているけれど、もう治らないという説明を聞いた。
でも、外の世界に戻れることが嬉しかった。
翔太に会いたい、と思った。会って、何を話せばいいかわからないけど、それでも会いたかった。
あの再び再開した日の夜帰宅して靴を脱ぐと、ふと鏡に映った自分の顔を見つめた。
6年前にこの町に来たときの自分と、今の自分はまるで違う。
強くなったと思っていた。でも、翔太の前ではまた「14歳の自分」に戻ってしまった。時々、ふいに記憶がこぼれ落ちる。
まるで、冬の終わりにとけた雪が、音もなく流れていくみたいに。
今日は――たしか、翔太と会った。
久しぶりに、あの笑顔を見た。
でも、それが“昨日”だったか、“一週間前”だったか、自信がない。
カレンダーに丸をつけていたけれど、その丸の意味が思い出せなかった。
「どうしてこの日を選んだんだろう?」
自分で書いた文字が、他人のものみたいに見えた。
翔太は、変わっていなかった。
やさしい声も、少し不器用な笑い方も。
私はきっと、彼のことを――まだ、好きなんだと思う。
でも、言えない。
「ごめんね」って言いたくなる。
忘れていく私を、あなたに見せるのが、こわいから。
いつか、あなたの名前さえ思い出せなくなったら。
私はどうなるんだろう。
それでも、あなたは笑ってくれるのかな。
…今日のこと、ちゃんと覚えていられるかな。
せめてこの気持ちだけは、記憶じゃなくて、心に刻んでおきたい
「彼氏いるの?」と聞かれて、笑ってごまかしたけれど――
今の自分にとって、恋はただの逃げ場だったのかもしれない。
心の奥ではどこかずっと満たされない空白があった。
それが「翔太」だったと、気づいてしまった。
けれど彼にも、きっと今を支えてくれる人がいる。
再会しただけで、何かを壊してしまうことがある。
それを望まない限り、あの“偶然”は永遠に美しいままでいられる。
次の休日、美咲はひとりで冷たい十勝の街を歩いた。
雪はまだ残っていたけれど、空気はどこか懐かしい気配をまとっていた。
「ありがとう」
誰にも届かない声で、そう呟いた。
翔太とあってからしばらく月日がたった後、私は若年性アルツハイマーの症状が酷くなりまた東京の病院に入院することになった。
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