第2話 妻は哲学を選び、夫は希望を探る—絵姿と未来

 昨夜、良江の言葉が頭をよぎり、眠れない夜を過ごした。


 仕事から帰宅したら話そうと決め、私はいつものように家を出た。窓から差し込む朝の光が部屋を照らし、新しい一日を祝福しているようだった。しかし、私の胸の奥には、重い闇が広がっていた。良江の『手術はしない』という言葉が、私の心に深く突き刺さったまま抜けない。


「医者は紹介状を書くから、僕らには早く来て欲しいんだったな…。」

「しかし、医者にはどう話せば良いのだろう…。」


まったく言葉が見つからない。


 職場に付いた私は、さっそくパソコンの画面を開いて、検索画面で「癌 家族 悩み相談」とタイプした。

 現れた「癌相談センター」という文字と、0120というフリーダイアルの電話番号に目が留まり、とにかく話の糸口を見つけたいという一心で電話をしてみた。


 癌相談センターのスタッフの優しい声に耳を傾けながら、私は初めて小さな光を見つけたような気がした。『第一日赤病院での診察なら詳しい相談も可能です』という言葉が、嵐の中の救命ボートのように感じられた。その瞬間、心が少しだけ軽くなった。


 今日もいつものように夕日が差し込むうちに帰宅できた。家のドアを開けると、台所から焼肉の香ばしい香りが漂ってきた。いつもと変わらない日常がそこにあるはずなのに、胸の奥はざわざわしていた。


「ちょっと話したいことがあるんだ」

と切り出すと、良江は静かに手を止め、こちらを見た。

その穏やかな眼差しが、かえって重く感じられた。


「今日、癌相談センターというところに電話で聞いてみたら、第一日赤病院では、ドクターとの話のあとに相談に乗ってくれる部署もあって、最終的には手術は本人の意思で決めるられるらしいよ。」


「とにかく紹介状をもらって行ってみないか?」

と思い切って話した。


良江はしばらく黙った後、静かに語り始めた。

「手術はね、考えたけれど、やっぱりしないつもりなの」

「僕もそのつもりだけど、病院とはきちんと話し合って決着をつけたいじゃない?」

「だから、僕に形而上学っていうものをもっと詳しく教えて欲しいんだ。ドクターを説得できるくらいに!」と話したら、良江の瞳が輝き始めて、

「そうね。あなたの言うとおりね。」と静かにうなずいた。その瞳の輝きが、少しの希望を私にも与えたように感じた。


胸に広がったのは嵐の中で見つけた静かな港のような安心感だった。しかし、その先に待つ未知の世界への不安は止むことがなかった。


こんな未知の世界に足を踏み入れるなんて、正直怖かったが、目の前の良江の表情を見ていると、それを拒否することもできなかった。それに、目の前の現実的な課題には対処出来たことが、何よりうれしかった。


「ところで、昨日の絵姿の話は、何かを呼び出すみたいなものなの?」


と単刀直入に聞いてみた。すると良江は、


「絵姿はね、神様の導きを受けるために、人が自然と動かされるの。それがまるで見えない手に導かれているようで、絵を描く姿に似ているからそう呼ばれているの。」


良江の目は遠くを見つめ、まるでその瞬間を思い描いているかのようだった。


「前回も、気になって母のことを尋ねたら、不思議と母の最期に立ち会えたのよ。」


非常に怪しい話に、何の疑問も持っていないらしく、ここまで自信気に確信を持って話されると、聞いている私もおかしな気分になってくるから不思議だ。


哲学的な学問だと思っていたのに、宗教のように聞こえる。そんな曖昧なものに希望を託すのは、自分には理解しがたい。ただ、良江の確信に満ちた瞳が、その疑念を覆すほどの力を持っていた。


「絵姿って、宗教儀式なの?」


と素直に疑問を投げかけた。心の中で何度も反芻していた疑問だった。


すると良江は、

「それを知りたいなら、もう一緒に勉強会へ行くしかないわね。」と言いながら、カレンダーの予定を確認しはじめた。


一体何が学べるのだろうか。形而上学の世界に足を踏み入れるという未知の体験が、私の中で希望と恐怖を入り混じるのを感じた。


見えない霧の中で、未来の輪郭が少しずつ形作られていくようだった。


どんな答えが待っているのか、それが私たちにとって救いとなるのか、まだ誰にも分からない。ただ、今は希望という名の灯火を信じることしかできなかった。

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