妻は哲学を選び、夫は悩む

Harmony

第1話 妻は哲学を選び、夫は混乱する—診断の日

朝から落ち着かない。

胃カメラの検査を受けたのは二週間前のことだった。


「念のため細胞検査をしますね。」


医者のその一言は穏やかだったが、どこか引っかかる。何かが違う。いつもと違う。


そして今日、結果を聞くために病院へ向かった。


病院に向かう車の中で、良江は遠くを見ながらため息をついた。これから起こることへの不安を我慢できなかった。『どうか、良い結果であって欲しい…』心の中で祈り続けた。


医者がカルテをめくる音が、やけに大きく響いて聞こえた。医者の横顔を見ても、医者の表情は読めない。ただ、自分の心臓の鼓動だけが早鐘のように鳴り響いていた。医者はカルテをめくり、静かに口を開く。


「悪性の腫瘍が見つかりました。印環細胞癌です。」


その言葉が、時間を止めた。

印環細胞癌。聞きなれない響きの名。しかし、"悪性" の二文字がすべてを支配する。


「進行が速いため、できるだけ早く治療を始めることをおすすめします。紹介状を書きますので、ご主人と相談して病院を決めてください。」


穏やかに説明する医者の声が、どこか遠くに聞こえた。

良江は静かに聞いていた。


「やっぱり…」


そう、どこかで予感していた。しかし、口から出た言葉は、驚くほど冷静だった。


「はい、わかりました。」


それだけ言い、静かに病院を後にした。


-数時間後-


食卓には、良江が作った肉じゃがとアジの塩焼き。いつもと変わらぬ光景。

だが、今日は何かが違う。会話が途切れる。


良江は静かに、私の顔をじっと見つめた。そして、何の感情も込めることなく言った。


「今日、病院で悪性の腫瘍が見つかったのよ。印環細胞癌ですって。悪性らしいのよ。」


まるで天気の話でもするかのように、続ける。


「私、手術はしないわ。」


……何かの聞き間違いか?いや、そんなはずはない。良江は、真剣だった。


「え…?」


言葉が出ない。妻は変わらず穏やかな口調で話し続ける。


「印環細胞癌だから、『殷鑑遠からず』って言うじゃない?きっと原因は身近にあるのよ。それに気づけば治るわ。」


良江は静かに続けた。


「私が学生時代に悩んでいた時、詩経の『殷鑑遠からず』を読んで、人生にはもっと深い意味があるはずだと気づかされたのよ。病気もきっと、その延長線上にあると思うの。」


印環細胞癌と、『殷鑑遠からず』。詩経の一節を持ち出されても、それが病気とどう結びつくのか、私には理解できない。


「それがどうして、癌を治すことにつながるの?」


良江は静かに答える。


「生きていれば色々あるけど、身に起こることには必ず意味があるのよ。」

「人はそれを学ぶために生まれてくるのよ。だから、私は今、学ぶべき時なの。」


私の中に、戸惑いが広がる。


「それはそうだとしても、学ぶことと治すことは別じゃない?」


良江はじっと私の目を見据え、問いかける。


「あなたは神や魂の存在とか、人はなぜ生まれて、何のために生きるのか?とか、考えたことはある?私はあるわ。」


「病気になることも治ることも、偶然や体力の問題じゃなく、もっと別の意味がある気がするの。最近、絵姿という神様の啓示を頂いたのだけど、それにはあなたの親族と関わるべきだとあったの。だから、病気にもきっと意味があると思うの。」


形而上学だとか『神の啓示』なんて、非科学的で曖昧だと思った。でも、その考えを真剣に話す彼女を否定するのは、彼女の信念そのものを否定するように思えた。私の中の不安と疑念が渦巻いていたが、それを押し殺して彼女の言葉を聞き続けた。


結婚して10年になるが、良江の口から「神」や「魂」などという言葉を聞いたことはなかった。


最近、良江は『勉強会に行ってくる』と口にすることが多くなった。ある日帰宅した彼女が、絵姿と呼ばれる神様の話を興奮気味に話したことがあった。その時は真剣に聞いていなかったが、今になって、その話の重要性に気づき始めた。


今までは私が彼女を頼る一方で、彼女は自分の悩みや苦しみを私に相談することはあまりなかったと記憶しているが、実は気づいてやれなかっただけなのか?今、走馬灯のように思い出される彼女の変化に、大きな後悔が押し寄せる。目の前で平然と話す彼女が、まるで別人のように見える。


これはまずい。彼女を理解しなければ。彼女が信じる形而上学を知る必要がある。そして私は、意を決して口を開く。


「僕にもその形而上学というのを教えてもらえる?」


その瞬間、良江の目が少しだけ輝いた。


「明日またゆっくり話そう。お風呂に入るよ。頭を柔らかくしないとね。」


笑いながら言ったが、それが本音だった。


…これからどうなる?


湯気に包まれながら、ふと自分がどうして良江の信じる世界に耳を傾ける決意をしたのか、その理由を考えた。


恐怖か、愛か、それともその両方か。心の答えはまだ見つからないまま、温かい湯の中でさまよい続けた。

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