22 遺言

 東京に戻る車両の中、千利は窓の外を眺めながら、深く思索を巡らせていた。

常磐に関するあらゆる公的記録は子を持つ父として彼を語っていた。しかし、妻である奏多の口から出た言葉は、明確にそれを否定していた。

「記録の方が改ざんされているのか、それとも……」

 思考が堂々巡りになりそうになったそのとき、彼の脳裏を、クラブの闇に蠢いていた『負の体験』を売るある男の顔がよぎった。

 あの男が売っていたのは、ただのドラッグではなかった。人の記憶を操作する薬物。いや、『負の体験』そのものをあたかも自分の記憶のように植えつけるものだった。

 その記憶が、疑似記憶なのか、他者から抽出された実記憶なのか……そして、それが前者であるならば…

 そんな考えを巡らせているうちに、電車は最寄り駅につき、千利は電車を降りた。そして、ホームのベンチに腰を下ろし、目を閉じた。

 だが、思考は深く潜る間もなく、中断された。ポケットの中で、携帯が震えた。

 表示された発信者名『法橋』に、千利の眉が動いた。通話ボタンを押すと、低く緊迫した声が飛び込んできた。

「事態が変わった。今すぐ来てもらえないか」

「了解」

 千利に迷いはなく、立ち上がり、目的地に向かって再び電車に乗った。


 夜の帳が都心を包み込む頃。高層ホテルの最上階。

 その一室で、常磐――かつて法橋であった男は、鏡の前に立っていた。

 常磐の首元に巻かれた黒い金属の輪。それは、ただの首輪ではなかった。

「……小型カメラ、マイク、そして……起爆装置か」

 常磐の目には、その構造が手に取るようにわかっていた。夜燈が『組織』の内情を覗き見るために取り付けたと言っていたが、常磐には夜燈が自分を監視するために取り付けていることが理解できていた。

 この縛りを抜けて、自分の大切なもの、それを守るには、ここが勝負所、と自分に気合を入れた。

 そんな時、チャイムの音が鳴った。常磐はすぐに扉へ向かい、モニターも見ずに静かに開けた。

 そこには、いつもの―自分の頭の中に残る法橋の記憶によるとだが、落ち着いた表情の千利が立っていた。

「……入れ」

 千利は頷き、部屋へと足を踏み入れた。重苦しい沈黙とともに、扉が閉まった。

 常磐は自分の向かいの席に千利を座らせると

「……私の最近の態度は、威圧的だったかな?」

と突然切り出した。その唐突な言葉に、千利はわずかに目を細めた。こんな問いかけを、法橋から受けるとは思ってもいなかったからだった。

「……いえ、そんなことはないかと」

 返答に迷いつつも、千利は誠実に答えた。常磐は満足そうにうなずいた。

「それならば、よかった。……最近、妻がね、部下に『子供がいるか』なんて聞くのは、最近ではセクハラになるからって、注意してきたんだよ」

 その声には、どこか照れ隠しのような、柔らかい響きがあった。しかし千利は、その言葉の裏に流れる不自然さに違和感を覚えていた。

 法橋――いや、常磐という男は、これまで世間話を交わすことも、ましてや家族について語ることもなかったのだから。

 千利の心が揺れ動く中、常磐はぽつりと続けた。

「……私の次の仕事は、かなり大きな山だ。正直、命を落とすかもしれない」

 その瞳には、覚悟の光が宿っていた。淡々としていたが、それは真実の言葉だった。

「……だから、そのときは、庭の端に用意してある手紙を、妻に渡してほしい。内容は大したことない。ただの、感謝の言葉と、ささやかな祈りだけだ」

 千利は言葉を失いかけたが、静かにうなずこうとした。しかしその前に、常磐はもう一言だけ付け加えた。

「――絶対に、『組織』には言っちゃいけないよ」

 その瞬間、すべてが繋がった。

 常磐の語った妻の忠告、そして、手紙と『組織』には秘密という警告。

 千利は、方法はわからないが、今目の前にしているのは、法橋ではなく、常磐学なのだと理解し、そして、いまこの数分の会話が、千利への常磐学の遺言なのだと悟った。千利は深く頷いて、

「承知しました」

と伝えた。その一言に、常磐は静かに笑った。わずかに首輪がきしむ音がしたが、それすらも彼の微笑みを遮ることはなかった。

 それは、今まで千利が見たことのない表情だった。穏やかで、柔らかく、誇らしげで――どこか、寂しそうな気配すらあった。

 こんな顔を法橋がするなんて、そう思った瞬間、千利の胸の奥がチクリと痛んだ。ただ一度の笑顔が、しかし確実に、自分の知っていた法橋は、もうどこにもいないのだと伝えてきた。

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