第三部
21 常磐家
それから数日――東京の空は、ようやく春めいた柔らかな光に包まれはじめていた。
千利は、まるで何事もなかったかのように、大学の講義に出席していた。歴史学の授業、政治思想論、ゼミの準備……。学生としての日常は、皮肉なほど規則正しく流れていた。
「おい千利! 今日、田中が飲み会セッティングしてんだけど、来るか?」
親しい友人の誘いに、千利は笑って手を振った。
「ごめん、今日はちょっと用事があって……」
そう言って、大学の門を出た千利は、ひとり駅へと向かった。
電車に乗り、隣の駅で下車。駅のトイレに入り、持参した帽子とマスク、色味を変えたパーカーに着替えた。
その姿は、どこにでもいる普通の青年のように見えるが、誰の目にも留まらぬよう、細心の注意を払っていた。そこからさらに30分電車に揺られ、少し田舎めいた風景が広がる駅で降りた。そして、そこから10分ほど歩いた。
たどり着いたのは、白い外壁の一軒家。小ぢんまりとしてはいるが、丁寧に手入れされた庭には、色とりどりの花が咲き乱れ、風に揺れていた。その一角には、錆び一つないブランコが、静かに佇んでいた。
「ここか…」
小さく呟いて、千利はチャイムを押した。まもなく、インターホンから柔らかな女性の声が響いた。
「はい、どちらさまですか?」
「……常磐学先生の、生徒だった者です。久しぶりにお顔を見たくて」
少し沈黙があってから、声の主――常磐学の妻、奏多が答えた。
「ああ……そうなんですか。うれしいです。でも……ごめんなさい、学さん、いまロシアの研究施設に出張していて、家にはいないんです」
その言葉は千利の調査通りだった。だが、そんなことは表情には出さずに、驚いたような顔をした後、残念そうに
「そうなんですね……じゃあ今日は、お引き取りします」
と千利は言った。
「ごめんなさいね……」
足を引き返そうとした千利だったが、ふと思い出したように振り返る。
「あ、でも……先生のご家族にと思って、お土産を持ってきたんです。よければ、召し上がっていただけますか?」
奏多の声が、すこし明るくなった。
「あら、それはうれしいわ。……今、玄関に行きますね」
数十秒後、玄関のドアが開いた。白いカーディガンを羽織った女性――奏多が笑顔で立っていた。彼女の顔には、ほんのわずかに疲れた気配があったが、柔らかな優しさがにじみ出ていた。
「本当に、ありがとうございます。学もきっと喜びます」
玄関先で、千利は丁寧にお土産の菓子箱を渡した。奏多はにこやかに受け取り、そして少し申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさいね……。学に連絡しておきますね。いつ戻ってくるか分かったら、あなたに連絡してあげます。だから、よかったら連絡先、交換しませんか?」
「はい、もちろん」
千利は、よどみなく携帯を取り出した。表示された名前は、「杉山光」――用意していた偽名のアドレスであった。
「杉山さん、ですね。了解しました」
奏多は、確認しながら穏やかに微笑んだ。
「それじゃあ、これ、よかったらお子さんと一緒に召し上がってください」
千利は、さりげなくそう付け加えた。だが、その瞬間。
「え?」
奏多の顔に、わずかな戸惑いが走った。
「私、まだ子供いなくて……」
その言葉に、千利の心が一瞬凍った。記録では、常磐には誘拐された息子がひとりいる、となっていたが、やはりそれは事実なのだ、と思った。
「あぁ、ごめんなさい。庭にブランコがあったから、てっきり……」
「ああ、ふふ、それね。あれは、いつか子供ができた時に、一緒に遊べたらなって思って作ったの」
奏多は照れ笑いを浮かべるようにして、庭のほうをちらりと見た。その言葉に、千利は違和感を募らせた。その一言には全く憂いがなく、いままで、ずっと子供がいたことがないようであった。
「でもね、最近は女性に『子供がいるか』って聞くの、セクハラって言われちゃう時代だから、気をつけるのよ」
冗談めかしたその言葉に、千利は小さく笑い、頭を下げた。
「そうですよね。申し訳ありません」
その後も2、3言、たわいもない会話を交わし、千利は軽く会釈して家を後にした。
「では、また学先生が戻られたら、ぜひ……」
「ええ、お気をつけて」
扉がゆっくり閉じる音がした。それを背にして数歩歩き、千利は角を曲がった。
そして、千利の表情が、すうっと変わった。微笑みは霧のように消え、眉はわずかに寄り、目に鋭い光が戻った。
何かが、決定的におかしい、そう思いながら、千利は、再び姿勢を正し、駅へ向かって歩き出した。
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