09 虚偽の動機
「妹は、どんな顔をしてた? どんな声だった? 一緒にどこかへ出かけたことは?」
男の瞼が震えた。
「顔……そうだな、笑うと、目尻が下がって、髪はえっと……」
言葉が詰まる。
「声は……高かった。いや、低かった、いや……」
男は徐々に自分の記憶の曖昧さに戸惑い始め、眉間にしわを寄せ、頭を振った。
「あれ? 誕生日は……何月だったっけ……? 十月? 違う、春だったか……」
千利は静かに観察を続けた。これは、洗脳か、あるいは自己暗示、もしくは別の何かか。
しかし、千利がその結論を見つける間もなく、次の瞬間、男の全身が震えた。
「妹はいない……?」
その言葉とともに、男の瞳に、激しい混乱と恐怖が広がった。
「じゃあ、俺はなぜ……? 俺が組織に入った理由は? 何を信じて?」
混乱は、絶望へと変わったのか、男の目が焦点を失い、うわごとのように呟いた。
「俺は、あのとき確かに殺したんだ……。あいつが妹を殺したってそう思った……俺はなんてことを、先輩を…っ!!」
男の叫びが地下の部屋に響き渡った。叫び声がエコーのように反響し、重く、そしてむなしく空間を満たした。
誰かが仕組んだ動機によって動かされ、チームの仲間を殺してしまった男に同情し、千利は目を伏せた。法橋は、奥のデスクから静かに立ち上がり、
「よくやった、須藤君。君のおかげで、真実が表に出たよ」
といって、手を叩いて称賛した。千利は、答えず、ただ男の狂乱を見つめていた。
それからの二日間、千利はその男と対面し続けた。
暗く静かな部屋で、時間を区切ることなく、過去の出来事を一つひとつ確認していった。任務の詳細、連絡の頻度、誰と会い、何を話し、どこへ行ったのか。プライベートの些細な行動──何時に起き、何を食べ、誰と過ごしていたのかまでもれなく。
男は感情を失っていた。質問に対し、返ってくるのは無機質な返事ばかりだった。ただ黙々と答える男の姿に、千利は人が壊れていく様を初めて目の当たりにしていた。
三日目の朝、法橋が再び現れた。
「大阪で、またひとり確保された。例のファイルにあった工作員の一人だ」
そう言って、法橋は千利に航空券と任務指示書を手渡した。千利はすぐに準備を整え、法橋とともに韓国を発った。
大阪、関西空港から出て、千利たちは関係機関の秘密施設へ向かった。
拘束されていたのは、30代半ばの、やや神経質そうな男だった。だが、その神経質さは、尋問が始まると崩れていった。
男の供述には、『組織』が両親を殺害したと述べていたが、男自身の記録と齟齬があった。男は両親に虐待されて施設に入っており、両親はすでに離婚していたが、どちらも健在であった。そして、その矛盾を指摘していくと、その男も、発狂こそしなかったが、
「じゃあ、俺は、なぜ仲間を…?」
と尋問の終わりには深い自己不信に陥っていた。
それから、数日のうちに、日本国内で立て続けに三件の裏切り未遂が発覚した。こう何度も起こると予見できるようになったのか、『組織』の対応も速くなった。千利が到着するころには、いずれの犯人もすでに拘束されていた。
三人を尋問すると、ある者は自分が恋人を殺されたと語り、またある者は、国家への正義感に駆られたと訴え、最後の一人は、かつての上司への裏切りが理由だと言った。
だが、千利が一つひとつ記録を洗い、尋問を重ねていくうちに、それぞれの動機には、致命的なほころびがあった。
五人目の尋問を終えた直後の夜、千利の携帯に法橋から電話があった。千利はすぐに通話に出ると、彼は静かな声で一言だけ告げた。
「今から少し、顔を見て話そうか。私の部屋で。」
千利はすぐにその部屋に向かうと、法橋はすでに中で待っていた。テーブルには二人分の湯気を立てる紅茶。だが、法橋は手をつけていなかった。
「君と対面で会って、直接、君から尋問の感想を聞きたくてね」
そう言って、法橋はゆっくりと椅子に座るよう促した。千利が静かに腰を下ろすと、法橋は声を落とし、続けた。
「……といっても、あとで詳しく説明するけど、『組織』もいまこの件で決断を迫られているからね。だから今日は、簡潔に、伝えてもらいたい」
その言い方に、千利はどこか苛立ちを覚えた。
この男はいつも、核心を後に回す癖がある、そう思った。
千利は心の中でため息をついたが、感情を抑え、うなずいた。
「……わかりました。簡潔にお話しします」
そう言って、彼は五人の尋問結果を口早に報告し始めた。
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