第10話 ありがとうございます!

「はじめまして、私はミズキです」


 その挨拶は、まるでカウントダウンのような、毎朝の始まりの儀式になっていた。


 俺は絵を描き始めてから、すっかり家に引きこもるようになった。

 ミズキとたわいない会話をして、ご飯を食べて、予備校に行って、帰って絵を描いて、眠る――そんな毎日だ。


 ネットでは炎上騒ぎも収まり、まるで何もなかったかのように別の話題で盛り上がっている。

 もしかしたら、ミズキのデコミッション騒ぎの夢でも見ていたんじゃないか――そんな錯覚すら覚えるほど、静かで穏やかな日々が続いた。


 そして、8月31日を迎えた。


 朝、ミズキが俺の部屋に来て、耳元で囁いた。


「私がいなくなった後、お母様の仏壇を探してください」


 囁くような、消え入りそうな声だった。

 それだけ言うと、ミズキは静かに階下へと降りていった。


 この日は、珍しく親父も朝から家にいた。


 ダイニングに降りると親父は食べ終わって、タブレットで朝のニュースを読んでいる。

「今日、朝10時にミズキの引き取りが来る」

 俺がテーブルにつくと、それだけ言ってまたタブレットに目を落とした。


「朝ごはん、できてますよ」


 白いご飯、豆腐とわかめの味噌汁、焼き鮭、そして小さな漬物の皿。

 なんの変哲もない、いつもの朝の献立。だけど、きっとこれが、ミズキと食べる最後の朝ごはんになる。


 子供の頃に食べた味だった。懐かしくて、少しだけ胸がつまった。


「鮭、焼き加減ちょうどいい」

「ふふ、いつも通りを心がけました」


 ミズキは、静かに微笑んだ。


 食後、俺が部屋で絵を描いていると、片付けを終えたミズキがそっと入ってきて、背後から覗き込むように絵を見つめた。


「今朝の私は、朝6時に起動してから今までの記憶しかありません。でも……コウタ様の絵を見ていると分かります。私が過ごしてきた日々には、たくさんの思い出があったのでしょうね」


「うん。いろんなことがあったよ」

「コウタ様……」

「ん?」

「私がいなくなった後も、いっぱい食べて、いっぱい遊んで、いっぱい勉強しないとダメですよ!」


 無理に明るく振る舞うような笑顔とガッツポーズ。

 それを見た瞬間、こらえていた涙が溢れた。最初の一粒が呼び水になって、声を上げて泣いた。

 ミズキは、困ったような顔で少しだけ笑ったあと、そっと俺を抱きしめてくれた。

 俺はその腕の中で、子どもみたいに泣きじゃくった。



 10時を回った頃、家の前に、白いワンボックス車が停まった。


 玄関のチャイムが鳴る。親父が出ると、インターホン越しに、男の声が響いた。


「経済産業省 技術安全局の山岡隆と申します。MZK-01の稼働停止および回収について、潮見技研とともに参りました」


 玄関を開けると、スーツ姿の中年男性が書類バインダーを携えて立っている。その隣には、吉川さんが立っていた。目が合った瞬間、吉川さんが小さく会釈した。


「……こんにちは、潮見透さんですね。こちら、正式な回収命令書になります」


 山岡と名乗った官僚が、淡々と書類を差し出す。サイン欄にボールペンが添えられていた。


「……」


 親父が淡々とサインをする。俺は手を出さなかった。吉川さんが、小声で言う。


「……これは、もう決定なんだ」


 背後からミズキが現れる。うちに来た時と同じ、ブルーのポロシャツにチノパン姿だ。いつも通りの穏やかな顔だった。


「お手数をおかけします。私の準備はできています」


 その瞬間、山岡が一歩前に出て、無感情な口調で確認をとる。


「はい、本体識別コード、MZK-01。認証済。行動ログと本体の提出を潮見技研にて確認……実機の製造番号の照合をします」


そういうと、バーコードリーダーを持ってミズキのチノパンを脱がそうとする。

 ミズキがちょっと体を引いた。


「人を……人みたいな存在を、そういう風に扱うのかよ……!」


 山岡は一瞬、きょとんとした顔をしてから、小さく首をかしげる。


「人……ではありませんから」

山岡の声には、感情がなかった。それは誰かを見送るための言葉ではなく、ただの手続きだった。


 ミズキが、そんな俺の肩に手を置いた。

「コウタ様、私は大丈夫です。むしろ、最期にコウタ様と過ごせて、誇らしく思っています」


 山岡はミズキのチノパンを下げると、太ももの外側に刻印されているバーコードにバーコードリーダーを無造作に当てた。


「MZK-01のチップとバーコードの照合一致、本機を該当機と確認しました」

 ミズキは、静かに目を閉じていた。人ではない、ただの物として識別される瞬間を、目に焼き付ける必要などないとでもいうように。


 俺は見てられず前に出ようとしたら、親父が俺の肩に手を置いた。その手は、無言だったけれど、震えていた。

 振り返ると、親父はただ静かに首を横に振った。涙をこらえるように。


 玄関から出ると、大きな声がした。


「あー間に合いました!ちょっと待ってください!」

 前を見ると、山内さん親子が立っていた。

「今日でお別れと聞いて、せめてご挨拶にと思って来ました」

 ミズキに近づこうとすると、山岡が遮った。

「ダメです、回収中の機体に近づかないで!」

 山内さん親子は、戸惑っている。


「私たちも来たよ!」


 ほのかと安西が山内さんの後ろに続いて来た。

「最後の別れぐらいさせてあげてよ!ケチくさいなあ」

 ほのかが山岡に食ってかかると、安西が後ろから威嚇のオーラを出している。

「し、しかし」

 山岡は安西とほのかにたじろいだ。

「早く車に乗って!」

 ミズキを車に押し込むと自分も乗り込んで、ドアを閉めた。

「何をしている、早く出したまえ!」

 運転席の吉川さんをせかすと、吉川さんがゆっくりと後ろを向いた。


「いやー、それがおかしいんですよねぇ、さっきから車の起動スイッチが入らんのですよ」


 さも、困ったように何度も起動スイッチを押した。

「ほら、うんともすんとも言わないんですよ。困りましたねえ」

 パチパチとその辺のスイッチを付けたり切ったりした。

「エアコンもつかないから暑いですね」

 そう言うと、吉川さんは全部のウインドウを全開にした。

「お、おい!」

 慌てる山岡を無視して、吉川さんは悠々と運転席から外に出てボンネットを開けて中を見た。

「古い車だからなあ、どうしたんだろうなぁ。……バッテリーかなぁ?」

 ボンネットを覗きながら、困ったような顔をした。


 吉川さんは俺を見てニヤリと笑うと、ボンネットの影からウインクした。


 山内さんがすかさず窓からミズキに話しかけた。

「あなたが繋いでくれた命があるから、私たちは家族として生きていけます!あなたのおかげです!ありがとう、本当にありがとう」


 安西が続いて窓に張り付いた。

「ミズキさんの教えてくれた料理で、弟が笑ったよ、久しぶりに笑うところが見れたよ!ありがとう」

 ほのかも負けじとミズキに話しかける。

「正直言うとさ、私あんたに嫉妬してたんだ。でも負けを認めるよ!あんたすごいよ!コウタの絵に残されるあんたはただのモノじゃないよ!」

 ミズキは一瞬驚いた顔をして、ほのかの顔を見た。

「お役に立てて本当に良かったです、ほのかさんはとても良い人だと思います、私の勘が言っているので、間違いなく人を幸せにする人だと思いますよ」

 ニコッと笑うと、今度は安西に向かって話しかけた。

「安西さんは真っ直ぐな所がきっとご自身を助ける事になると思いますので、変わらずいてくださいね」

「はい!」

 安西が大きな声で返事した。横でほのかが迷惑そうに耳を押さえてた。


「まってー!」

 息を切らせながら、小柄な女の人が走ってきた。どこかで見た人だと思ったら木村さんだった。

 木村さんは窓に取り付くとミズキに向かって、大声で話した。


「誰も被害者のいない出来事で、あなただけが裁かれるなんて……そんな理不尽に、私は何もできなかった。技術者としても、人としても――私は思い上がっていました。余りにも無力でした」


 ぜえぜえと苦しそうに息をしながら、それでも木村さんは叫んだ。


「でも、今ここで、あなたに誓います。私は必ず、この法を改正させます。あなたの行動が、未来の擬似人格AIたち……いや、人とAIにとっての希望となるように。あなたが踏み出した一歩を、無駄にはしません――絶対に!」


 ミズキは、木村さんの顔をじっと見つめていた。

 その瞳には涙はなかったけれど、言葉を超えた感情が、静かに満ちていた。

「……ありがとうございます、木村さん」

 その声は、やさしく、けれどはっきりと車窓の外へ届いた。

「今、私が感じている感覚が恐らく『怖い』という感覚なのでしょうね。あなたが躊躇した時の気持ち、今ならわかる気がします。けれど――」


 少しだけ間を置いて、ミズキは微笑んだ。


「私の中にあったものが、誰かの中に残るのなら……恐怖は乗り越えられると信じます」


 木村さんの目から涙が溢れた。


 「人間ではない私が、誰かの中に残るということ。それは、きっと……私が生きていたという証なんだと思います、証が残せるだけでも幸せだと思います」


 車内の空気が、静かに震えた。

 それは言葉では伝えきれないほどのミズキの『ありがとう』という気持ちだろう。

 

 吉川さんが俺に近づいてそっと言った。

「最後の別れをしなくていいのか?」

 俺は車に向かった。恐らく、一番ミズキといる時間が長かったのは俺だろう。

「今描いている絵、間に合わなくてごめんな……」

 ミズキは何も言わずに首を横に振った。

「毎日、美味いごはん作ってくれて、ありがとうな……」

 ミズキは微笑んだ。

「お前のおかげで、俺、自分がやるべき事を見つけられたわ……本当にありがとうな」

 ミズキは黙って、まるで俺の顔を記憶に焼き付けるようにじっと俺の顔を見ていた。

「コウタさん、あなたの記憶に残れて良かった……それだけで十分です」

 俺はまた泣いてしまった。後ろで安西とほのかももらい泣きしている。


「まだ直らんのか!」


 山岡の怒鳴り声が、まるで人の心に土足で上がるように響いた。このままだと当局に連絡もしかねない勢いだ。

「ここまでだな……」

 吉川さんがそっとポケットからヒューズを出すと、しれっと運転席のヒューズボックスに差し込んだ。


「あーもう!いい加減にかかれ!」

 吉川さんがキレたふりをして、ダッシュボードを『ドンッ』と叩くと、エンジンが掛かった。


 車の窓がゆっくり閉まる。ミズキが、最後にそっと微笑んで頭を下げた。スモークガラスの向こうで、その顔はゆっくりと見えなくなっていった。


 それが、俺がミズキを見た最後の姿だった。



――2035年8月

 俺は、久しぶりに実家に帰って来た。


 ドアを開けるが、誰もいない。親父は相変わらず仕事が忙しいみたいだな。

 俺は帰るとまず、リビングに行って仏壇に手を合わせた。仏壇の中では母ちゃんの遺影が変わらずこちらを向いて微笑んでいる。


 冷蔵庫から缶ビールを取り出して、ダイニングチェアに座るとテレビを付けた。

 夕方のニュースでAI法改正施行のニュースがやっていた。

 議員バッジを付けた木村さんが、国会で答弁している姿が映しだされていた。画面の下には『人とAIのよりよい関係を築くため』とキャプションが書かれていた。

 木村さんはミズキがいなくなってから、国会議員に立候補して「擬似人格に対する権利保護法」に尽力した。インフルエンサーだった事と、誠実な性格が議員としての人気を集めて、AI法の改正まで漕ぎつけた。

 この人は本当に凄い人だと思ったよ。


 ほのかは高校卒業後、地元の美大に入って、卒業後は大手電機メーカーのプロダクトデザイン部門でAIとの共生を支えるデザイナーとして頑張っているらしい。


 安西は高校卒業後、家計を助けるために就職した。なんと『潮見技研』に!

 元々、潮見技研の仕事に興味を持っていたのも手伝って、就職はすんなり決まったらしい。

 最初は工場のラインで働いていたが、真っ直ぐな性格と真面目さが吉川さんの目に止まって、今は設計補佐や現場管理など、叩き上げの技術者として働いている。

 

 俺は一浪はしたものの、国立大学の理工学部に入る事が出来た。今は人工知能研究室で助教授をやっている。教育と研究に追われる日々だが、ふとした瞬間、あの夏の朝を思い出す。

 白衣のポケットには、今も小さなクロッキー帳が一冊入っている。


 ミズキという存在が俺たちの今を決めた。あの夏の日からミズキは間違いなく俺たちの中に生きていた。


 俺は一枚のメモリーカードを仏壇の奥の小さな隠し引き出しから取り出した。

 このメモリーカードはミズキが自分のAIのコア部分をコピーして仏壇に隠して俺に託したものだ。俺しかこの存在を知らない。

 もちろん10年前の時点では違法だが、AI法が改正された今なら違法性はない。


 ノートパソコンを開いてダイニングテーブルに置くと、メモリーカードを差しこんだ。

 仮想マシン環境を立ち上げる。画面に「MZK-01 BIOS Ver.3.4」などの文字が走り、昔の黒いコンソール画面がしばらく続いた。

 読み込みに少し時間がかかる。ファンの音が少し高まって、しばらくしてから、画面がふっと切り替わった。


『WELCOME MZK SISTEM』


 飾り気のない、古いシステムUIが現れる。


「……はじめまして、私はミズキです」


 少しだけ機械的で、けれど柔らかなあの声がスピーカーから聞こえた。

 ミズキの『40回目のはじめまして』だ、俺は深く息を吸った。


「おかえり、ミズキ」


 画面の中のミズキは、まだ仮想環境内で初期化されたばかりだ。人格データは失われている。

 けれど、あの声があるだけで、そこに「彼女」がいるような気がした。


 仏壇の隣、あの椅子があった所に飾られている俺の描いたミズキの絵が、窓からの黄金色の夕日に照らされて、あのときと同じように静かに微笑んでいた。


(完)

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40回目のはじめまして 田柄満 @moropapa

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