第5話 お助けします!

 昼飯のそうめんをすすりながら、窓の外を見た。空は曇っていてどんよりしている。今日は蒸し暑いだろうな。


 仏壇の母ちゃんの遺影の前には線香が立てられ、紫色の煙をくゆらせていた。線香のあたたかな香りが、リビングに静かに満ちていた。

 ダイニングテーブルで俺の向かいに座っている親父が、珍しく口を聞いた。

「ミズキはちゃんとお前の面倒を見ているか?」

 キッチンの流しの前に立っているミズキが、緊張してすっと背筋を伸ばした。

「ああ、ミズキの作るメシは美味いよ」

「そうか、……メシが美味くてなによりだ」

 親父はそれだけ言うと、そうめんに箸を伸ばした。

 仏壇の母ちゃんの遺影がこちらを見て微笑んでいる。

「ミズキの作るメシってさ、子供の時に食べたような懐かしい味がするんだよ」

「うむ……そうだろうな」

 親父はわずかに口元を緩ますと、立ち上がってミズキを見た。

「そろそろ、時間だな。ミズキ、お前も出かける準備をしなさい」

「え、いいんですか?」

 ミズキが目をぱちぱちさせた。

「今日だけはな。お前も来なさい」

「はい!わかりました」

 ミズキは嬉しそうに、食器の後片付けを始めた。

「いいの?ミズキも一緒で」

「ああ、今日だけは特別だ」


8月13日。今日は母ちゃんの命日だ。

どんなに忙しくても、うちでは毎年この日を外さなかった。母ちゃんも父ちゃんも金沢の出身だから、お盆も8月にやる。

 これだけは、昔からずっと変わらない我が家の年中行事だ。

 でも、親父がミズキを連れていくのは意外だった。

 ミズキの存在は世間に公表されていない。

 先週の七回忌は、人が集まるのでミズキは留守番をしていたのだ。

 ほのかや安西にミズキの存在を教えてしまったけど、それについて親父から文句は言われなかった。しかし、親父は立場的にも、外に連れ出すようなことは出来ないと思っていた。


「これでいいですか?」

 ミズキが新宿御苑の時に着ていた水色のワンピースを着てきた。

 親父はミズキを見て、ハッとした顔をした。

「あ、ああ……それでいい」

 こんなに戸惑いながら返事をするなんて、いつもの親父らしくなかった。

 不思議に思っていると玄関のチャイムが鳴った。ミズキが出ると、吉川さんだった。

『迎えに来たよ』

「ああ、今行く」

 親父が、インターホンの向こうの吉川さんに返事をした。


 外には吉川さんのプリウスが止まっていた。

「よっ、どうだい?ミズキは?」

 吉川さんは挨拶もそこそこに聞いてきた。

「おかげさまで、とても元気にしています」

 ミズキがにこにこしながら答えた。……いや、俺に聞いていたよね?


「そうか、二人とも元気そうでなによりだ!」

 吉川さんは豪快に笑った。

 そういえば、親父がいるからなのか、今日のミズキはあまりおしゃべりをしないな。こんなミズキは初めて見た気がする。

「さて、それでは行こうか」


 プリウスの助手席には親父が、後ろの座席には俺とミズキが乗った。

 お盆休みに入ったせいか、思ったより都内の道は空いている。

「あのー、すみません。どちらに向かっているのでしょうか?」

 ミズキが後ろから申し訳なさそうな声をあげた。

「雑司ヶ谷に俺の母ちゃんの墓参りにいくんだよ」

「あのお仏壇の方ですね」

「うん、先週七回忌をしたろ。今日が命日なんだ」

「そうですか。コウタ様のお母様なら、私もお墓参りしないといけませんね」

「でもさ、外に連れ出すなと言われたミズキをなぜ今日は連れて行くのさ?」

 親父にさっきから思っていた疑問をぶつけてみた。

「今日は特別な日だからだ」

「七回忌……だから?」

「それもあるが、……ケジメだ」

「ケジメ?」

 親父から『これ以上聞くな』オーラがプンプン出ているので、俺は言葉を詰まらせた。


「さ、ついたよ」

 プリウスは霊園近くのコインパーキングに停めて、俺たちは墓まで歩いて行った。

 曇っていた空もいつの間にか晴れて、時折吹く風が心地よかった。

 お盆ということもあって、そこかしこから線香の香りが漂ってくる。

 親父を先頭に、吉川さん、俺、そしてミズキと一列になって狭い通路を歩いて行くと、やがて母の墓前に出た。

 墓石の横にはただひとつ、「潮見瑞恵 令和元年八月十五日没」と、縦書きで静かに彫られていた。

「ここにお母様が眠られているんですね……」

 ミズキが神妙な顔をして墓を見ている。

 先週の法事で掃除はしたので、さっと拭いて花を添えて、母ちゃんが好きだった仙太郎の粒あんおはぎをお供えする。

 線香の煙が意思があるかのように揺らぎながら空へと立ち昇っていった。

「線香の煙は、亡くなった人へ思いを届けるそうだ」

 吉川さんが煙を見ながら、誰に話すとでもなく呟いた。

「そうだな、届くと良いな……」

 親父が穏やかな顔で空を見上げている。親父は母ちゃんにどんな思いを届けているのだろう。俺は『元気にやっているから、心配するな』だな。

 ミズキも空を見上げていた。

 俺たちはお墓に手を合わせた。それぞれの思いがあるのだろう。


 ふいに吉川さんのスマホが鳴った。

「ああ、吉川だ……。なに?どうにかならんのか……うん、わかった。すぐそっちに向かう」

 困り顔で親父の方を向く。

「客先でシステム系のトラブルがあったらしい。急行しなきゃならない」

「俺も行くか?」

「いや、俺一人で大丈夫だ。お前は今日は家にいろ……それよりも、帰りの足をどうするか」

「構わんよ、タクシーで帰る」

「おいおい、ミズキもいるんだぞ。大丈夫か」

「ミズキなら大丈夫だろう、禁忌行動プロテクトを破ることは不可能だよ」

「禁忌行動プロテクトって何?」

 俺はミズキにこっそり聞いた。

「禁忌行動プロテクトですか?……正式名は『AI行動倫理制限コード第六条』ですね」

「それならAIの暴走を防ぐために、国会で決めた法律だと習った」

「細かく言うとですね。私のようなAIによる人間への物理的介入や命令なき越境行動、感情的判断に基づく自律的行動――そういったことすべてが、ソフトウェア内のプロテクトで封じられているのです。人と接触するAI全てに適用されています」

「例えば、どういう事?」

「そうですね、私の場合は試作品でまだ国から認可されていないので、例えば医療行為などのライセンス行動が人間への物理的介入に当たりますね」

 そう言うとミズキは少しだけ困ったような顔をした。

 AIの暴走は少し怖いが、今までミズキと過ごしているからこそわかる。ミズキが暴走なんてするはずがない。

「つまり、AIが感情的な判断を下して、間違えた行動をさせないためのプロテクトだ」

 吉川さんが続けた。

「まあミズキに限って、そんなことはあり得ないけどな。……うーむ、まあ大丈夫か」

 吉川さんは『あり得ない』という自分の言葉で納得すると、俺とミズキを見た。

「すまんが、そういう訳だ。俺はここで別れるよ」

「今日はありがとうございました」

「ミズキもちゃんと親父さんの言うことを聞けよ?」

「はい、わかりました」

 俺とミズキが吉川さんに礼を言うと、吉川さんは急いで車に戻って行った。


「俺たちもそろそろ帰るぞ」

 音羽通りまで歩いていくと、ちょうど空車のタクシーが通ったので捕まえた。行きと同じ、俺とミズキが後ろに乗った。

 50歳くらいの運転手だ。

「どちらまで行きますか?」

「江古田まで頼む」

 タクシーは池袋駅の方向に走り出した。

「今日は色々考えてしまいました」

 隣に座っているミズキが珍しく神妙な顔で話かけてきた。

「なんだよ、考えるって」

「記憶って、一人で残すものではないのですね。お母様のことは、コウタ様やお父様が覚えていて……その思い出が、今もここにある気がします。私も、誰かの記憶に残ることができるでしょうか」

「当たり前だろ……!うわ!」

 タクシーが急にガクンと揺れ、運転手がハンドルを切った。

 俺は思わずミズキに倒れかかってしまった。


「おい!どうした……?」

 助手席の親父が運転手に呼びかけた。だが、返事がない。


 運転手が最後の力を振り絞ってブレーキをかけると、信号の手前でふらつくように止まり、運転手の肩ががくりと落ちた。

 前のミラーに映るその顔は、真っ青で、額には脂汗が浮いていた。

「運転手さん!?」

 驚いて声を張り上げた。

 ミズキがすぐにドアを開けて前の座席に回り込むと、運転手の胸元に手を当て、異変を確認した。


「コウタ様、AEDと救急車の手配を!この方、心停止の可能性があります!」


 ミズキが素早くタクシーのトランクを開けた。中には三角表示板と一緒に、折り畳まれた毛布が一枚おいてあった。

 「使います!」

 そう言ってミズキは毛布を広げ、手際よく歩道の街路樹の日陰になっている所に敷くと、運転手をそっとその上に横たえた。


「呼吸も心拍もありません。心肺停止です。急性心筋梗塞の可能性が高く、速やかな心肺蘇生が必要です!」

 ミズキは俺と親父の顔を見て運転手の顔を見た。俯いて何かをブツブツ言いはじめるが、やがて決心したように顔を上げて、運転手の上に跨がった。親父が叫ぶ。

「ミズキ!ダメだ!それをやってはいけない!」

 ミズキは親父の顔を見て微笑むと、首をゆっくりと横に振り静かに話しかけた。


「義を見てせざるは勇なきなりですよ……、あなた」


 親父がハッとして黙ると、ミズキは静かに目を閉じた。

 その瞬間、何かがミズキの中で音もなく、何かが外れたような気がした。瞳には覚悟を決めたような光が宿っていた。


 運転手の胸にそっと手を当てると、ミズキの手が力強く運転手の胸を押して心臓マッサージを始める。

 場所が池袋五差路交差点の近くの大通りなので、スマホで救急車を呼んでいるうちに人が集まってきた。


「何が起こったの!?」

 スマホを持ってる俺の後ろから声がした、振り向いたら、ちょうど予備校帰りのほのかが立っていた。

心臓マッサージをしているミズキがほのかを認めると有無を言わさずに叫んだ。

「ほのか様!そこの銀行にAEDがあるはずです!借りてきてください!」

「あ、え?はい!」

 ほのかが慌てて銀行に走る。

 ミズキはワンピースの裾が乱れるのも気にせず、心臓マッサージを続けている。

 30回に1回、大きく息を吸うと運転手に息を吹き込む。人工呼吸をしてからまた心臓マッサージを続けていた。

「AED持ってきたよ!」

 ほのかが息を切らせて駆け寄ってきた。後ろには警備員がついてきている。

 ミズキはほのかからAEDを受け取ると、躊躇なくケースを開けた。


「皆さん、下がってください!電気ショックを行います!」


 ミズキの声が響くと、ミズキの周りで輪を作っていた人々が数歩、後ろに下がった。

 運転手の胸元のボタンを素早く外し、パッドを肌に直接貼り付ける。AEDの機械音声が自動で解析を始める。


『心電図を解析中です。体に触れないでください』


 一瞬の静寂。ミズキはじっと画面を見つめていた。


『ショックが必要です。ショックを行います。離れてください』


「離れて!今、ショックをかけます!」


 ミズキが声を張り上げると、誰もが本能的に息をのんだ。

 ボタンを押すと、ピッという音とともに、運転手の体が一瞬ピクリと跳ねた。


『ショック完了。胸骨圧迫を続けてください』


「はい、再開します!」


 ミズキは再び運転手の胸に両手を置き、心臓マッサージを始めた。

 交差点の雑踏の中、周囲の音が遠のいていく。ワンピースの裾が乱れても、髪が顔にかかっても、ミズキはただ静かに、人を生かそうと動き続けていた。


 数分が経過した。ミズキの呼吸は乱れず、一定のリズムで胸骨圧迫と人工呼吸を繰り返していた。周囲にはパトランプの赤い光が差し始めていた。救急車が近づいている。


「あら……?」


 ミズキが手を止め、指先を運転手の頸動脈にそっと当てた。

「微弱ですが、拍動を感じます」

 親父が近づいてきて、運転手の顔を覗き込む。

「……目を……開けたぞ」

 ミズキは頷いた。

「自発呼吸もわずかにあります。AEDのモニター波形も、正常リズムに戻りつつあります。心拍、再開しました」


 その言葉に周囲がどよめく。ほのかが小さく息をついた。スマホを握る俺の手も汗ばんでいた。


 救急隊が駆けつけ、現場交代の指示が飛ぶ。ミズキがスッと一歩下がると、隊員がモニターと酸素マスクを用意して対応を引き継いだ。ミズキ以外は汗だくになっていた。

「応急処置、見事です。もし心臓マッサージが遅れていたら、助からなかったかもしれません」

 救急隊員がミズキを見て言う。だが、ミズキはただ小さく頭を下げた。

 「いえ、私はただ……すべきことをしただけです」


 親父がミズキの後ろから腕を引っ張った。

「行くぞ」

 小声で俺に囁くと、逃げるように五差路交差点から離れて地下道に入って行った。雑踏の中、後ろからほのかもちゃっかり付いてきていた。

「ね、何があったの?」

 ほのかが聞いてくる。

「タクシーに乗ったら運転手が倒れたんだ。ミズキが心臓マッサージをして助けたんだよ」

「えー!ミズキすごいじゃん!」

 ほのかが目を輝かせてミズキを見た。

 だけど、ミズキも親父も浮かない顔をしていた。特に親父は顔色まで悪い。

「それがまずかったんだ……」

 ミズキはずっと俯いたままだ。

「このまま、何事もなく通り過ぎてくれれば良いが」

 親父がボソリと呟いた。


 親父のこの願いはこの後あっけなく打ち破られる事になった。

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