第19話 焦燥の中で、選んだ道
「悠人、これ見てー! 新しい召喚術考えたの!」
朝っぱらから元気な声が響く。
部屋の隅でリリムが、何やらぐるぐるとチョークで魔法陣っぽいものを描いている。
「いや、お前何して――って、ちょっと待て、それ俺の教科書の上!!」
俺は慌てて駆け寄るが、すでに時遅し。
教科書の表紙にまで線がびっしり。
「これで“チーズケーキ”が召喚できるはずなんだよね~」
「食い物かよ!!」
そしておもむろにリリムが呪文を唱え始めた。
しかし当然、チーズケーキなど出てくるはずもなく――
バンッ!
机の上で軽い爆発が起き、黒い煙がもくもくと広がる。
「ゲホッ、ゲホッ……お、おい!!」
「し、失敗しちゃった♡」
煙の向こうでリリムはケロッと笑っている。
「もう! マジでやめろって……」
その時、壁ドン。
「おい悠人!! 今度は何をぶっ壊してるんだ!!」
隣の仁科の怒鳴り声が響き、俺は頭を抱えた。
◆ ◆ ◆
昼過ぎ。
いつものように、マンション屋上。
空はどこまでも青く澄んでいるのに、俺の心は妙に重たかった。
「前よりは確かに成長してるが……まだ全然甘いな」
仁科の鋭い声が飛ぶ。
俺の手のひらには、先日よりも少し濃くなった光が集まっている。
だが、それ以上にはならない。
「はぁ……っ、くそ……」
額から汗がつうっと落ち、膝をつく。
力を練り出すことは、ようやく少しだけできるようになった。
でも、それだけだ。光が集まる――ただそれだけ。
攻撃に転じる感触なんて皆無。
ましてや、あの夜のような実戦の場では何の役にも立たない。
「悠人、焦るな。力は段階的にしか積み上がらない」
仁科の声はいつも通り冷静だ。
その言葉の意味も、理屈ではちゃんとわかっている。
だけど……。
胸の奥で、ずっと、あの夜の情景が焼きついて離れない。
リリムが体を張って、何度も俺の前に立ちふさがってくれた。
カグラも仁科も、みんな全力で戦ってくれた。
でも俺は――ただ、守られるだけだった。
無力感が、胸の奥でじくじくと疼く。
「悠人……」
ふいに、すぐ横から声がした。
顔を上げると、リリムがそっと俺に近寄ってきていた。
さっきまでふざけていた無邪気な笑顔じゃない。
少しだけ、唇をきゅっと引き結んで、目が心配そうに揺れている。
そして――
リリムが、ゆっくりと俺の背中に手を置いた。
小さな手のひらが、汗ばんだシャツ越しにぽん、と触れる。
その手はほんの少し冷たくて、でも、何よりもあたたかかった。
「大丈夫。悠人は、ちゃんと強くなってるよ」
その声は、いつもの軽い感じじゃない。
少しだけ震えていて――それが逆に、真剣さを伝えてきた。
俺は、視線を伏せたまましばらく何も言えなかった。
胸の奥が、ギュウッと締め付けられる。
リリムは、笑っている。俺を信じてくれている。
でも、きっと彼女だって怖いはずだ。
あの夜、必死に守ってくれた時も、怖かったに違いない。
それでも、こうして励まそうとしてくれている。
「……ありがとな」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
リリムの瞳が、じっとこちらを見つめている。
目尻がほんの少し赤くなっていることに気づいて、胸がチクリと痛んだ。
無理に笑ってみせる。
それは自分でもわかるくらい、ぎこちない笑顔だった。
でもリリムは、それを見て、ふっと柔らかく微笑んだ。
「うん!」
小さな声でそう返すと、手のひらをもう一度だけ力強くぽん、と叩いてから、ゆっくりと離れていった。
その余韻が、じんわりと背中に残る。
◆ ◆ ◆
その後も訓練は続いた。
仁科の符を読み込む練習、結界の基本操作……
少しずつだけど、できることは確かに増えている。
でも――
「はあ……」
夕方、屋上から見下ろす街の景色は、妙に遠く感じた。
「結局、これじゃ……まだ足りないんだよな」
俺は拳をぎゅっと握りしめる。
このままじゃ、次にあいつが現れた時、またリリムを守れない。
◆ ◆ ◆
夜。
俺はひとり、アパートを出ていた。
夜風がひんやりと頬をなでる。
だけど、胸の奥は不思議と熱かった。
心臓がドクン、ドクンと高鳴る音が、自分でもはっきり聞こえる。
怖さはあった。
でも、それ以上に――もう後戻りしたくない、という強い気持ちがあった。
向かう先は、天見 真澄がいる神社。
街灯も少ない夜道を、無言で歩き続ける。
足元が時折ふらつき、無意識に手がギュッと拳を作っていた。
神社の鳥居が見えた時、無意識に息をのむ。
ここに来るのは何度目だろう。でも、今夜のこの一歩は、これまでとは全く意味が違っていた。
石段を、一段、一段ゆっくりと上がる。
そのたびに、靴の音が静かに響き、自分の覚悟を試されているような気がした。
拝殿の前にたどり着くと――
「……来ると思ってたよ」
不意に、闇の中から低い声が響いた。
顔を上げると、真澄が境内の奥に立っていた。
いつものように無駄のない動きで、こちらにゆっくり歩み寄ってくる。
月明かりに照らされる白髪が、夜の中でぼんやりと光って見えた。
「……俺、もう待てないんだ。もっと早く、もっと強くならなきゃダメなんだ」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
だけどその裏で、手のひらが汗でじっとりと濡れているのを感じる。
真澄はじっと俺を見た。
その視線は鋭くて、でもどこか優しさが混じっている。
しばらく無言のまま俺を見つめ――ふっと、口元だけで笑った。
「……いい覚悟だ。ただし、俺の訓練は甘くはないぞ」
その言葉は、決して脅しではない。
本当に――命がけの訓練になるのだと、言葉の奥にある重さが伝わった。
俺は一瞬だけ迷いそうになった。
でも、その迷いをすぐにかき消すように、両手をぎゅっと握りしめる。
「それでも……お願いします」
はっきりと、まっすぐに言った。
そして、深く頭を下げる。
冷たい夜風が髪を揺らし、背筋が自然とピンと伸びた。
心臓がまた強く鳴り響き、身体の奥からじんわりと熱が広がっていく。
――もう、前の自分には戻らない。
俺は本当に、この道を選んだんだ。
ここからが、本当の“戦い”の始まりだ。
ゆっくりと顔を上げた俺を、真澄がじっと見ていた。
その目がほんの少しだけ、満足そうに細められる。
そして、静かに呟く。
「――始めようか、“本物”の訓練を」
(つづく)
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