第20話 天見流・地獄の鍛錬開始

――午前5時。

 空がようやく、東の端にかすかな薄明かりを帯び始めたころ。


 「さあ、始めるぞ」


 真澄の声が、静まり返った境内に低く響く。

 その声がやけに冷たく、空気ごと張り詰めさせた。


 俺は、神社の裏手にある広場のど真ん中で、膝に手をついて肩で息をしていた。

 吐く息が白く霧散し、額からは滝のように汗が流れている。


 準備運動なんてものはなかった。

 初っ端から“結界の型”を延々と繰り返しやらされ――

 もう何周目かもわからなくなっていた。


「おい……もう20周はしてるぞ……!」


 声を絞り出すように訴える。

 だが、目の前の真澄は眉ひとつ動かさず、ただ腕を組んで俺を見下ろしていた。


「黙れ。型が身体に染み込むまでは“練習”じゃない。……反射で動けるまで叩き込め」


 いつもより一段と冷たい声。

 心を見透かすような鋭い視線が、俺の胸に突き刺さる。


「結界の術式は“脳”ではなく“筋肉”で覚えろ。お前はまだ頭で考えすぎだ」


 分かってる。

 分かってるつもりだ――でも、体がもう限界だった。


 息を吸おうとしても肺が焼けるようで、足もガクガク震える。

 視界の端がじんわり滲んで、世界がぼやけて見える。


「くそっ……はあ……!」


 膝が崩れそうになりながらも、必死に踏ん張る。

 何とか姿勢を立て直し、またひとつ、ゆっくりと立ち上がった。


 足元の砂利が音を立て、無意識に握った拳が小刻みに震える。

 立ち上がった瞬間、頭がぐらっと揺れ、視界がぐにゃりと歪んだ。


 それでも――


 (やめたくない……)


 なぜだかわからない。

 こんなにも苦しいのに、心の奥のどこかが、「まだいける」と叫んでいる。


 あの夜のリリムの姿が、何度も頭に浮かぶ。

 血まみれになりながら、必死に俺を守ってくれたあの後ろ姿。

 自分の無力さに、どうしようもなく震えたあの感覚。


 ――忘れられるわけがない。


 「これが……俺が選んだ道だ……」


 口の中がカラカラに乾いていた。

 でも、その言葉を吐き出した時、不思議と背筋が少しだけ伸びるのを感じた。


 冷たい朝の空気が、俺の顔をなでる。

 そしてまた、型を繰り返すために――一歩、前に踏み出した。


◆ ◆ ◆


 一方そのころ、悠人のアパート。


「ねえカグラ、悠人帰ってこないね?」


 ソファでゴロゴロしていたリリムが、プリンのカップを片手にそう呟く。


「昨日の夜、訓練しに行くって言ってたじゃない。多分、天見のとこでしごかれてるわよ」


 カグラは雑誌をめくりながら、呆れたように答えた。


「ふええ~……大丈夫かな……。悠人、頑張りすぎて壊れちゃったらどうしよう……」


「そこまでヤワじゃないでしょ。……まあ、アイツなりに本気で覚悟決めたんでしょ」


 カグラは一瞬だけ窓の外を見て、ふっと小さく笑った。

「……あんたも、あの子の変化にちゃんと気づいてるんじゃないの?」


 リリムはきょとんとして、それから少しだけ赤くなった頬を両手で押さえる。

「そ、そんなんじゃないもん! べ、別に……!」


 でも、ぎゅっと胸の奥がチクッとする感じがして、思わず黙り込む。


◆ ◆ ◆

 再び、神社の裏手。


 早朝の空はもうすっかり明るくなっていたけれど、空気はまだ冷たく、張り詰めた緊張が場を支配していた。


「次だ。結界陣の応用――“重ね張り”をやれ」


 真澄の低い声が、鋭く空を切る。


「なっ……応用とか……まだ基礎も――!」


 思わず叫んだ俺の声が、空しく響いた。

 けれど真澄は、即座にきっぱりと首を振る。


「基礎だけじゃ、実戦では死ぬ。……お前が欲してるのは“戦える力”だろうが」


 その一言が、深く胸に突き刺さった。


 ……ぐっ。

 言い返したい。でも、できなかった。

 俺がここに来た理由は――他でもない、それだった。


 「手順は見せたはずだ。思い出せ。結界は“連続性”が命だ」


 仁科の言葉、あの夜の記憶。

 ぼんやりとした映像が、頭の奥でフラッシュバックする。


 俺は震える指先で、湿った符を握り直した。

 汗でぺたりと張り付く感覚が、やけに生々しい。


 (思い出せ……俺は、できる……!)


 目を閉じ、息を整える。

 あの時の“感じ”を探るように、じっくりと集中する。

 仁科が使っていた結界の、あの美しい連続性――

 そして、俺が暴走した時、無意識のうちに感じた“流れ”。


「……くっ……!」


 俺は両手で符を高く掲げた。

 声がかすれるほどの力で呪文を繰り返す。

 指の先、空気がじりじりと震え、光がゆっくりと広がり始めた。


 結界の輪が、ふわりと浮かぶ。


「……いけ……!」


 だがその瞬間――


 バチンッ!


 弾けるような破裂音と同時に、目の前の光が砕け散った。


「うわっ――!」


 強い反動で、俺は尻もちをつく。

 背中を打って一瞬息が止まり、目の奥がチカチカと痛む。


 地面を見つめながら、拳をぎゅっと握りしめた。


「……ちくしょう……!」


 悔しさが、喉の奥でうめき声に変わりそうになる。


 その時、真澄が静かに近寄ってきた。

 すぐ近くでしゃがみ込むと、低く重たい声で言う。


「……焦りすぎるな。力は“恐怖”を超えた先でようやく本物になる。お前は今、それに近づきつつある」


 声は厳しかったが、わずかに……本当にわずかにだけ、

 そこには期待の色が滲んでいた気がした。


 でも、その言葉の意味は、今の俺にはまだ半分もわからない。


 それでも――


「もう一度……お願いします」


 喉が乾いて、声はかすれていた。

 でも、絶対に引けなかった。

 地面に手をつき、必死に体を起こす。

 震える脚で立ち上がり、ゆっくりと顔を上げる。


 符をもう一度握りしめると、真澄がじっと俺を見据え、うなずいた。


 冷たい空気が、また頬をなでる。

 でも――さっきまでと違う。

 心の奥が、ほんの少しだけ、確かに熱くなっていた。


 


(つづく)



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