8月32日

「……ちょっと待って」


光が空いた方の手を前に出して、猶予を求めた。心の準備がまだなんだ、そんな意気込む必要はないと思うが。

光の手に握られているのはお酒。コンビニで買ったチューハイ。

ジュースと称されるような、初心者向けの度数の低いお酒を前に、光は先ほどから待ってを繰り返している。


「別に実際に飲んでるわけじゃないだろ」

「全く同じメカニズムが働くんだから、同じだよ!!」

「……じゃあ俺が先に飲むわ。俺が大丈夫そうなら光も怖くないだろ」

「そういう事じゃない!ダメだって、ダメ、待って!」


ローテーブルに置かれた缶チューハイは、すでにプルタブが外されている。アルコールの特有の香りがほのかに漂っている。ツマミとしてサキイカや、ポテトチップスなどもテーブルの上で鎮座している。初めての飲酒は俺の部屋で行われようとしていた。


お酒を飲んでみたいと俺から言い出した。正確には「酔う」という状態を味わってみたかった。

最初は光も乗り気で一緒にコンビニに行き、酒やツマミを買い込んだ。


むしろ光の方が前のめりで、初めてだからと度数の低い酒を買う俺を嗤い、強いお酒を自らカゴに入れていたのに……いざとなると、こうだ。

パーティー開けで開かれたポテトチップスに手を伸ばす。大量にあったポテチはもはや数えるほどしか残っていない。それだけ光が躊躇していた。


「あのね、酔うって言葉が使われてるけど、実際は脳の麻痺なんだよ。理性をつかさどる大脳新皮質の活動が低下して、本能をつかさどる大脳辺縁系の活動が活発になるの。それだけならまだしも、血中のアルコール濃度が上昇すると小脳や海馬も麻痺しちゃって」

「さっきも聞いたって。自分で自分をコントロールできなくなるのが怖いんだろ」

「海くんは怖くないの!?だって自分が何をしでかすか分からないんだよ?本能が活発になるって……絶対にヤダ!そんなのさ……だ、誰にも見られたくない!」


飲んでもないお酒を片手に、光は同じ演説を何度も繰り返す。本当はちょっと酔ってたりしてないか?


「そんなに嫌だったら、無理して飲まなくてもいいって」

「無理してない!!それに飲むなら一緒じゃなきゃ嫌!」


もうめんどくせぇ。何かと理由を付けて躊躇する光を置いて、缶チューハイを傾けた。

最初に少し薄めのレモンの酸味が広がって『なんだ、ただのジュースじゃん』と思った瞬間に、味わったこと事無い苦みが口の中に広がる。

だが耐えられないほどじゃない。ちょっと苦い程度。飲み干すと僅かな苦みが口内に残って後味が悪い。


「あー!ダメだって言ったのに……」


ローテーブルに両手をついて、前のめりになった光が、恨めしそうに俺を睨む。


「ちょっと苦いぐらいでジュースみたいなもんだった。光も飲めって」

「だ、だから味じゃなくて飲んでからが怖いの!それより大丈夫?頭痛くなってない?」


心配そうに光が体調を確認する。首やデコに手を当てて慌てる光の様子が思ったより可愛くて、もっと見てみたいという欲が沸いた。手に持った350ml缶を振ると、だいだい三分の二くらいは残っていた。


そのまま傾けて一気に飲み干す。『えー!』と光が大げさに声を上げてワナワナと震えた。


アルコールが体内で熱を持っている。体の中心辺りがほんのりと暖かく、鼻の奥でアルコールの匂いがツンと響いた。口に中に残った苦みが強い。包装紙に包まれてミニチョコを手に取って口に入れる。


「……意外となんともないな」

「なんともないじゃないよ!一気飲みは凄く危なくて、血中のアルコール濃度が」

「軽いお酒なんだから大丈夫だって。それにヤバくなったら光がパラメータ弄って元通りだろ」

「そうだけど……そうじゃないよ!」


ポカポカと弱い力で胸を叩いてくるが、弱すぎて痛くもかゆくもない。


「俺は光が酔っ払って暴れまわったりしても、幻滅しないから」

「うぅ……海くんが良くても私が良くない。私が見せたい私だけを記憶してもらいの」

「えぇ、俺は酸いも甘いも全部知りたいよ。光のこと、全部知りたい」


頭がフワフワしてくる。どうやらこれが酔うというものなんだろう。体が軽い、開放感がある。

積み重なった澱が降り落ちたような、いい気分だ。更にアルコールを摂取する。

さっきより度数の強いお酒は苦みが増して、喉に持たれるが、飲めない程じゃない。胸の上あたりがポカポカする。冷房で涼しい筈なのに汗ばんできた。


「それでも嫌なのは嫌だよ。海くんが私を思い出す時は、全部綺麗な私でいて欲しい」

「……そう」


なんかイラっとした。俺の事は全部知ってて、俺の知らない俺も知ってるくせに、自分だけ隠し通そうとする態度が妙に癪に障る。適当なお酒を手に取って口に含む。特有の苦みが喉に張り付いてキツイ、早く飲み込むか吐くかしなくては。


グチグチ言っている光を抱き寄せて、口の中に指を入れた。温かくてねちょねちょする。そういえば指は入れたことがなかった。そのまま親指と人差し指に力を込めて、口を上下に開かせる。薄いピンク色の口内は粘着質な唾が糸を引いて、邪な感情が沸々と湧き上がった。


無理やり開かせた口にキスをした。いや、これはキスか?口内に溜めたお酒を口移しで注入する。右手は光の背に回し、逃がさないように力を籠める。吐き出さないように舌で唇を塞いだ。頭がガクガクと揺れている。飲んだら死ぬというわけでもないのに、大げさだな。ごくりと嚥下する音が聞こえて、細くて白い喉が上下する。何か言いたげに瞬きを繰り返してるので、唇を離す。


「ゲッホゲホ、げぇ、が、はぁふ」


何度か苦しそうに咽ると、直ぐに落ち着いた。涙目の光は口呼吸を繰り返しながら短い舌を出した。


「……うぇ、苦い」


文句より先に味の感想が来るとは思わなかった。包装されたミニチョコを一つ袋から取り出して、解いたものを摘まむ。「口を開けて」と言えば、意外と素直に言う事を聞いた。


唾で泡立っている口の中にチョコを放り込むと、口が閉じてもごもごと咀嚼し始める。


「もう飲めそうか?」


そう聞くと咀嚼の速度が上がって、多分まだ大きな固形のままのチョコを無理やり飲み込んだ。口が大きく開かれる。


「まだのめひゃい……だひゃら、のまひて」


顔が真っ赤に熟れて、目線が明後日の方に向いている。一瞬酔っているのだと思ったが、自分の感覚を思い出してこんなに早く回らないかと否定した。適当な酒を口に含む。また口移しで酒を注ぎこんだ。唇の端から上手く渡せなかった酒が零れてズボンが濡れる。揮発したアルコールの匂いが部屋に充満している気がした。


もう注ぐ酒は口の中に残っていないのに、光の舌が追い求めるように口内を探りまわす。頭がぼうっとする。

思考がドロドロに溶けて、全身が熱い。喉がすぐに乾いた。また酒を飲んでキスをした。体の輪郭があやふやになる。

光が暖かくて熱くて柔らかい甘い気持ちいい。全身がドロドロに溶けて一つになっている。部屋が明るくて真っ白で痛い。

電気を消した。温かい。気持ちがいい。ずっとこのままでいたい。眠たくて、瞼が重くなる。苦い、甘い、ねちょねちょして、からだがかるくておもくてずっとこのままで……このまま……。



頭が痛い。寒気が全身を覆い、吐き気も止まらない。なるほど、これが二日酔いというやつか。思い知る中で最悪の状態だ。

気持ち悪い。しんどい。こんな思いをするなら酒なんか飲まなければ良かった。横になる俺の肩を光がパンチした。

全く痛くないが、体が揺れて気分が悪くなる。


「光……これ、治してくれないか?」

「絶対にやだ。そこで反省してればいいよ」


眉が中央によった光は、怒り心頭と言った感じだ。一体何が起きたというのか。光と酒を飲むことになったのは覚えている。酒の味もだ。でもそこからは全く覚えていない。多分酔っ払った俺が、光に粗相をしてしまったのだろうけど。


「……うぅ、光。頼むよ。もう酒なんか飲まないから……助けてくれ」

「だめ。海くんはちゃんと苦しむべきだよ。私はとってもひどい目に遭いました」


ここまで俺に怒っている光は初めてかもしれない。少なくとも分かった事は、酒はクソだということ。


「……別にもう飲むなってことじゃないからね」


独り言のようにボソッと光が呟いた。それってどういう意味だよ。口に出すのも億劫で追及はしなかった。頭が痛い。また吐瀉物が出口を目指して逆流してきた。


「ぐぅ……やばい」


立ち上がり、トイレに駆け込む。畜生。もう二度と酒を飲むかよ。




潮のにおいが鼻腔を刺激して、寄せては返す波の音が静かに砂浜を行き来する。水平線に沈んで行く夕陽は、水面を青紫色に染めてながら、中心で金色に輝く。


昼でもなく夜でもない、その狭間を漂う夢想のような空間は、時間の流れがここだけ止まっているような感覚を湧き上がらせる。まぁ実際に時間が止まっているのだけど。


大きなジップパーカーでショートパンツを隠した光が、黒褐色に焼けた砂浜の上に立ち、ただじっと落ちていく夕陽を食い入るように眺めている。俺達の他に観光客なんて居ない。正真正銘のプライベートビーチだ。


「海くんが海にいる!」

「それ今日で何回目だよ」


霧原市は内陸の市だから海が存在しない。本線の電車に乗れれば海まで行けるが、市の境界を越えた先は空白だ。だから宇宙を漂った時と同じ方法を取った。

箱を想像して欲しい。大きな箱が霧原市だとしたら、その中に小さな箱を形成する。

それがこの世界だ。海と砂浜だけの世界はいくつか存在していたが、その殆どがバグにやられて海の色が真っ赤に変色していたり、波のパラメータが狂って大津波が常に押し寄せる珍妙も世界と化していた。

唯一無事だったのが、この夕暮れの海だ。


「潮の匂いだ。この匂いを嗅ぐと、海に来たんだなって感じる」


光の隣に立って落ちていく夕陽を眺める。遠くでうみねこの鳴き声が聞こえて、同じリズムの波音がやけに心地いい。心がストンと体から抜け落ちて、強張りみたいなものが薄まっていく。


「潮の匂いはね、植物性プランクトンの死骸や腐った海藻から発生するジメチルスルフィドが原因なの。だから海の匂いは死の匂いなんだよ」


遠目からだと分からなかったが、隣に立つと光は夕陽を睨みつけているように見えた。目を細めて、手が届かない夕陽を目で掴むみたいに凝視している。

死の匂い。そういえば生命の最後は海に還ると何処かで聞いた事がある。なら海から死の匂いがしてもおかしくはない。


「じゃあ海は死で満ちているわけだ。こんなに綺麗なのに」

「綺麗だからじゃないの。綺麗だから最後はみんな海に帰りたいんだよ」

「へぇ、じゃあ光も最後は海に帰りたいか?」

「いや、私は……」


光が口ごもる。視線は絶えず夕陽を向いたまま、小さな足は砂を固めるようにもぞもぞと足踏みをしていた。二人だけの海はとても静かで、波の音に紛れて光の心臓の音まで聞こえるかもしれない。


淡い光が彼女の横顔を優しくなぞる。長い睫毛の影が頬に落ちて、真白の髪は夕陽に良く染まって、黄金の波を描いている。細く儚げな彼女は、全てが静止した浜辺と完全に調和して、この世界の全てが彼女の為に存在しているかのように思えた。

だから、だからちょっとだけ気分が大きくなって、口が滑った。


「俺は……光が綺麗だと思ったから。だから帰ってきたと思ってるけど」


全身に鳥肌が立つ。まずい、きつい、しんどい。クサいセリフとかそんなものじゃない。

光の目が夕陽から俺に映った。目が大きく開かれてるのに、黒目は小さくなっていく。上唇が下唇を隠して、鼻息だけで呼吸が繰り返され肩が揺れ始める。


「い、い、イイと、思う……フフ。い、いい、とフヒヒ、おも、お、フフフフフハハ!!おもぅううウフフフ」

「良いだろ別に。思ったって」

「すね、拗ねないで。ね?わら、わ、ワフ」


腹を抱えて腹を光にイラっときて、だから光の体を抱きかかえた。


「え、ちょっと待って」

「そら!」


海に向かってぶん投げた。光の体重が軽くて想定より遠くに飛んだ。といっても所詮は人の力。あんまり飛距離は変わらないが。


「しょっぱ!……ねぇ!海に入るつもりなかったんだけど!」

「海に来たのに海に入らない馬鹿がいるかよ!」

「だって濡れるのヤダし……きゃ!」


手で掬った海水を光にかけると、怒りの炎で瞳を燃やした光が現れた。


「……もう許さないから」


光が空中で指を滑らせると、何もない空間から巨大な銃器が現れる。それは6つの長い筒が円形に纏められており、持ち手の端から垂れた透明なホースが海中に沈んでいる。


先端の伸びた円形が回転して、ギュルルというモーター音が聞こえた。海中に沈んだ透明なホースの中を海水が登って、筒の中を満たしていく。


「……水鉄砲にしては過激な見た目してるが、それって人に向けてイイやつか?」


恐る恐る聞くが返答はない。その代わりに、消防車の放水のような凄まじい勢いの水流が顔面を飲み込んで、勢いに押されるがまま体が浮いて、背中から海中に沈んだ。


一瞬何が起きたか分からず、直ぐに立ち上がる。するとガトリングガンみたいな水鉄砲を両手で構えた光がこちらに銃口を向けている。


「……今ちょっと浮いたんだけど、俺」

「じゃあそのまま飛んでけばいいじゃん!」


モーター音が再開して、筒が回転を始める。

どうやら言い訳は聞いてくれないみたいだ。6つの砲塔から生きた蛇みたいな流水が飛び出してきて、体の前で組んだガードごと俺を打ち抜いた。

放水を受け止めた俺の体は吹き飛ばされ、水切りの石みたいに水面を跳ねた。


なるほど、水の上を走ると言うのはこういう感じかもしれない。


ガードを組んだ両腕が凄く痛い。もし折れてたらしたら、光は治療してくれるかな。それだけが心配だ。

青紫に染まる空と海を見ていると、紫の空を思い出した。だが死で満ちた海が紫で、死に向かう世界の空が紫だと言うのは奇妙なつながりを感じる。


「世界の終わりもこれぐらい綺麗だったらいいのにな」


濡れた衣服を元の状態に巻き戻して、二人して砂浜に腰を下ろした。細かい砂の感触がお尻に伝わる。


「……綺麗じゃなかったら、後悔する?」


顔を反対側に背けた光が聞く。意志の確認はきっと安心したいからだ。ふとした時に沈澱したが不安が顔を出してきて、だからいつも確証を求めている。


「しない。しないって。ずっと言ってるだろ?」


光に告白をした日から……いや、もしかしたらずっとずっと昔から覚悟は決まっていたのかもしれない。一度決めた思いは覆さない、覆らせない。


「じゃあ証明して。何回でも言ってよ。お願いだから、私にまた分からせて?」


震えた手を握って引っ張った。砂浜に膝を立てて、黄昏に染まる肩を抱き寄せる。

いつもみたいに抱きしめて、深い深いキスをした。



音一つ立てずに、世界の四隅がパックリと裂けて、張りぼてのようにゆっくり倒れていく六面のサイコロを展開図にするみたいに、壁も天井も全てが一つの面になって溶けていった。


白い砂浜は無機質なコンクリートに代わり、張りぼての外はテレビの砂嵐のようなホワイトノイズが轟轟と吹き荒れている。


霧原市の外縁を覆うように発生した砂嵐は、少しずつ世界の輪郭を削っていった。触れる物全てを飲みこんで帰ってくるものはない。駅も街も霊体マンタも、もうだいぶ前に飲み込まれてしまった。


「中心はどのあたりになりそうだ?」

「この感じだと……学校だと思う。多分」


学校の校舎はここからすぐの距離にあった。砂嵐の浸食スピードはすさまじく、海に行く前より、目に見えて近づいている。思ったより時間はなさそうだ。


「服、どうしよ。流石にこの格好のままは嫌だよ」


光の指摘に、そう言えば二人とも海用の服装のままだった事に気が付いた。どうせ最後になるなら……場所に相応しいものにするか。


「制服にしよう。それとも着たいのとかあるか?」


光が首を横に振って答える。


「制服にしよ。制服の方が好き」

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