天岩戸 後半

この家に来てから、どれだけの時間が経ったのだろう。どれだけ寝起きを繰り返しても、同じ星空が広がって、底なし沼のような家で溺れ続けている。


もう何年も経った気がするし、もしかしたらまだ一か月も経っていないのかもしれない。代わり映えのしない飯を食って、光と確認のような会話を繰り返す。飯もシャンプーも全てがいつの間にか補充されていて、全てがこの部屋の中で完結していた。

爪も髭も伸びないこの世界では、内に秘めた疑念が羽虫のように蠢いて、骨と皮の隙間に卵を植え付けて、脳を虫食いにしていく。最後に一押しが必要だった。背中を押してくれる何かさえ埋まれば、何処まで一緒にいる覚悟が決められる。

光は夜泣きをするようになった。時間が分からないので、それが夜なのかは怪しいが、一緒に寝ていると急に飛び起きて、暴れて泣き叫ぶ。パニックを起こした光は、抱きしめてずっと介抱していると、次第に混乱を収まる。それでも、不安の種はきっと光に根を張ったままだ。

俺が知らないだけで昔からなのか、それともこの家に籠ってからの事なのか判別がつかない。夜泣きの頻度は日に日に増えて、それに比例して見るからに光は弱っていった。

閉じた世界のままでは光を癒す手段は生まれない。徐々にそう思うようになった。


「私はね、クソなの。ほかの娘みたいになれなくて、でも何も変わろうとしないで自分を甘やかしてた。だから怠慢が全部自分に返ってきた。全部私が悪くて、最低で、性根の腐った馬鹿な女」


光の濡れた髪にドライヤーを当てると、艶っぽくなった白髪が温風に靡いて生き物ように揺らめいた。根元を乾かすように指でかき分ける。相槌を返す間もなく、光は二の句を継ぐ。


「自分を変えないためにずっと頑張ってきて、でも急に馬鹿らしくなっちゃった。もっと簡単な答えがあるって、私は賢いから、ずっと前から気づいていたはずなのに」


乾いた髪を櫛でとく。ふっさりとした髪が、見事に波打って纏まりを生じさせた。


「全部分かっていて、それでも私は私の生き方で幸せになりたいの。一番否定してるのは自分なのに、それでも固執して欠片も捨てずに抱えてる。ねぇ、海くん。私を否定してよ」

「……そんな悲しい事、言うなよ」

「馬鹿みたいだよね。慰めて貰ってるのに、冷めた自分もいる。心が分裂して平行してあるみたい……。笑っていいよ。バカ女がって。貶して、いたぶって、捨てていいんだよ」

「……そんなことはない。光にそんな事しないし、したいとも思う事もきっとない」

「じゃ、じゃあ。一緒に居て。何があっても、最後まで、一緒に居てくれる?」


光は『最後まで』という言葉をよく使う。最初はただの誇張表現だと思っていたが、考えれば考えるほど、この言葉が何を意味するのか分かるような気がした。


「最後まで一緒に居るよ。全部がぶっ壊れて。何もかもが塵芥に変わったとしても、最後のその時まで光の側に俺はいる」


何度同じ問答をしたか分からない。細かいニュアンスを変えただけのやり取りを、無限に繰り返していた。何度もやっていると段々分かってくる。光は怖いんだ。不安が光を飲み込んで、何度確認しても終わりのない恐怖が彼女を支配する。

髪を乾かし終えると、背後から光を抱きしめる。すると俺の両手を抱えた光が、左右に揺れる。俺も一緒に揺れて、そのまま一緒に横倒しになった。相変わらず細くて柔い。こんな脆弱な体では、内に秘める激情によって壊れてしまうんじゃないかと不安になる。


「光はここに居て幸せか?」


光を抱きしめた。何処にも逃げられないように、何にも奪わせないように。


「……うん。当たり前だよ。海くんと居て不幸になれるわけないよ」


その言葉に嘘があるようには思えない。きっと心からそう思っているんだろう。だからこそ心が痛んだ。なら、どうして泣いたりするんだよ。


「光には幸せになって欲しい。傷つくことなく、哀しむこともなく、ただ穏やかな日常を享受してほしい」

「え、う、うん。海くんが望むなら……が、頑張ってみる」

「本当はずっと好きだったんだ。でも俺がビビッて、何重にも予防線を張って、だから変に拗れた。光にも、相良にも、迷惑をかけて」


信じ切れていなかったんだ。俺の事が好きだって。だから揺れた。だから自分の恋愛感情を上から塗りつぶそうとした。相良には本当に悪い事をしたと思っている。初めから俺に覚悟が伴っていれば、光をここまで不安にする事は無かった筈だ。

光は何も言わない。ただ、小さな体を強張らせているその様子は、心を守るための防御反応のように見えた。目の奥が熱くなって、勝手に涙がこぼれていく。


「本当は……本当はこんなところに居て欲しくない。閉じた世界に籠ったって何も現実は好転しない。光は外の世界に出て、幸せになって欲しい。なって欲しいのに……俺は、俺はさ」


上手く言葉が纏まらない。喉の奥がつっかえて、声がせき止められる。涙で前が見えなくなって、力の限り光を抱きしめた。


「俺……死んだのか?」


その一言は、相良と光の会話を何度も反芻して導き出された結論だった。この仮想の世界に光が閉じこもる理由も、彼女の異常な独占欲も、全てが説明できる。


周防海は死んでいる。だから彼女はこの世界に閉じこもった。

光の体の強張りが消えて、魂が抜けたみたいに虚脱していた。流れに身を任せるように全ての力が抜けて、静かに口を閉じている。


「それでも……一緒に居たいんだ。最低だけど、また俺のせいで光を悲しませるって分かってるのに。それでも離れたくない!ずっと一緒に居たい!」


口から飛び出すのは聞こえの良い事ばかりだ。違うだろ。本音はもっと汚いものなのに。


「俺のいない世界で幸せそうにする光を見たくないんだ!誰かのものに…他の男に靡く光なんて……想像するだけで恐ろしい。ずっと俺の隣にいて欲しい。この世界が永遠じゃないとしても……それなら、俺は光と終焉を迎えたい」


死者が生者を巻き込むべきじゃない。分かってる。そんな事分かってる。時間が経てば感情が風化して、俺の事なんか忘れた光が幸せに生きていける未来がある事くらい、誰よりも分かってる。

それでも嫌なんだ。未練がましい男の自殺につき合わせて、それでも光に置いて行かれたくない。俺を置いていかないでくれ。

頭が真っ白になって、細胞の全てが熱を帯びている。体の芯は燃え上がって、なのに凍てつく様に寒い。壊れたコントローラーに制御されているみたいに、体の上手に動かさない。

遮ることなく俺の話を聞いてくれた光は、低い声で「顔を見せて」と言った。その凍てつく刃のような口調は、悪い未来を連想させた。張り裂けるような痛みが胸に走る。


「……あぁ」


力を抜いて両腕を解いた。その場で光がゆっくりと正面に向き直る。感情を伴っていない冷えた形相を浮かべた光と目が合った。思わず目を閉じた。とても目を合わせていられなかった。



瞬間、浮遊感に襲われた。

体が宙に舞い、風も音も何も感じないのに、空を飛んでいるように体が動く。重力の束縛から解き放たれたかのように。

目を開けると、俺たちは銀河に浮かんでいた。ベッドも、光の部屋も、全ての現実が跡形もなく消え失せて、煌めく銀河の中に二人だけが放り出されている。四方八方を無数の星々に囲まれて、全ての星は過剰な点滅を繰り返し、光の波紋が波打つように広がっている。


「海くん!海くん海くん海くん海くん海くん!!!」


光の声が、宇宙を震わせるように響く。弾けるような笑顔を浮かべた彼女が、彗星のように俺を目指して落下して、俺もまた落下している。でも視界を覆いつくす宇宙には上も下も、天井も地面も、終わりも始まりも見えない。

手足を伸ばして、重力のない体を操る。態勢を変えると位置や高さが変わる。上から落ちてくる光に合わせて、なんとか態勢を修正する。

手を伸ばして上から落ちてくる光の手を掴んだ。そのまま引き寄せて抱きかかえる。態勢を保つのが難しい。バランスが崩した光がひっくり返って、俺も一緒にくるりと宙を舞った。

視界の先、遥か下——落下する先を見つめると、青い膜のような面が広がっていた。


「さっきまで無かったろ!くそ……光、頭下げろ!」


光の頭を抱えたまま膜に落ちた。膜を突き破る瞬間、生暖かい水のような感触が肌を撫でた。痛みはない。体が沈み込んで、やがて浮上する。


「なんだよこれ、海!?」


全身が濡れている。膜の正体は海に似ているが色々とおかしい。潮の匂いはしないし、体が沈む感覚もない。水面に無数の星が映り込んで、銀河そのものが液体になって、俺達を包み込んでいるようだ。


「海くん!」


光の両手が俺の頬を掴んで、キスをした。波間に揺られながら、顔と顔が繋がって離れなくなるんじゃないかと不安になるぐらいキスをした。吸盤が剥がれるみたいに光が唇を離す。濡れた髪の毛が跳ねて、深青色の水しぶきが弧を描いた。

空に全てがあった。月も、太陽も、冥王星も、海王星も、ハレー彗星も、天の川銀河も、全部俺達を見下ろして、その中で真っ白な濡髪を口の端に張り付けた光が笑っていた。それがどんな星の瞬きより眩しくて、刹那の奇跡のように儚い。


「ずっと怖かった!!最悪の事ばっかり考えて、ありもしない未来に怯えて、泣いて悲しんで怯える事しか出来なかった。でも全部違った!やっと言ってくれた!大切なのは障壁だったんだよ!!」

「ひ、光!これは……?」

「ずっと待ってたの。何回も繰り返して!でも全部何かがが違ってた。刺さらないの。だって全部嘘だったもん!嘘で塗り固めた箱の中で本当は生まれないの!今ならあの女にだって感謝してあげる!!!」


光は泣きながら笑っていた。泣きながら笑っていた。深青色の海の中では涙は輝いて見える。


ここがどういった空間かは分からない。でも二人ぼっちの宇宙の中で俺達は同じ思いを共有していた。


「返事を聞かせてくれないか……光」


濡れてぐしゃぐしゃになった髪をそのままに、目を細めた光が口を開く。


「現実がどうとか、嘘とか、そんなの全部知らない!涅槃も煉獄もヴァルハラにだって行ってあげない!私は海くんとここで最後まで一緒だよ!!」


光の言葉が銀河の全てを満たして清澄に瞬いた。永遠にも思える輝きは俺の心を掴んで離そうとしない。

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