天岩戸 前半

目の前に食事が並べられて居る。底が低く、いくつかの仕切りで区切られたプラスチックのお皿には、ヨーグルトに似た粘り気のあるペースト状のものがベタリと張り付いている。いや、配膳されているのか。赤や青などの色とりどりのペーストが仕切りを多くを占めて、そ空いた部分に小さなレンガのような長方形の塊が、無造作に置かれている。


「海くん、食べよっか」


声の主は光だ。真っ白で角張ったダイニングテーブルを挟んで向かいに座っている。

俺も座っていた。長方形な座面に、簡素な背もたれだけ付いた真っ白な椅子に座り、食卓に着いている。


「……あぁ」


手にしたスプーンで、赤色に色付けされたペーストを掬う。食用を減退させる醜悪な見た目だ。躊躇していると、光は迷いなく吸い込むように食した。覚悟を決める。眼を閉じて口に運んだ。

味は悪くない。美味しいと言ってもいい。ただ、ヨーグルトのような滑らかな触感に反し、肉の味がすることが理解を混乱させた。触感はヨーグルトなのに、噛めば噛むほど肉汁の様なものが口の中で広がっていく。夢を見ているみたいだった。

緑色に染色されたペーストからは野菜の味がした。サラダを口にした時のような、多様な野菜の風味が口内で交錯する。レンガみたいな塊は驚くほど甘い。バニラの味がして、触感は硬く噛み砕くように咀嚼した。

食事に集中していると、いつの間にか光は箸を止め、じっとこちらを見つめている。注視されるとだんだん羞恥がこみ上げてくる。見てないでお前も食べろの意で、顎を振った。光はふっと鼻で笑うと食事を再開させた。


視界の隅が流線形の明かりが横切った。不思議に思い明かりの先に顔を向けると、そこには宇宙が広がっている。

掃き出し窓の向こうには深い青に染まった暗闇と、無数の星明りが眩しく煌めていた。星が堕ちる度に夜空に線が引かれる。その明かりは暗い部屋をほのかに照らしていた。

掃き出し窓から見える夜景は、星空を上から見上げているようなものではない。この部屋自体が宇宙の中に漂っているようだ。


「綺麗だよね。ずっと見てても飽きないくらい。海くんはどう?」


光もまた窓の外を眺めていた。光の淡い瞳の奥で、流星がまた一つ尾を引いた。光の瞳の中に、もう一つの宇宙があるかのように。


「……綺麗だ」


薄く曇った光彩の中を鱗粉のような星々が泳いでいる。どれだけ時間が過ぎたかは分からない。それだけの間ずっと光を見つめていた。






空いた皿を食洗器のような箱に入れて、スイッチを押す。ピコンと鳴って中から水流の音が聞こえる。振り返ると両手を体の後ろに回した光がいた。こちらをじっと見つめている。


「……なに?」

「ううん、なんでもない」


そのまま跳ねるようにステップを踏んで、ふわりと抱きついてきた。背中に両手が添えられるだけの優しい抱擁。目の前に存在してることを確かめるようなハグだった。


「大丈夫。何処かに行ったりしないから」


光の背中にさする。光の顔が胸に埋まって、暖かい息が繊維を超えて熱が肌にじわりと染み込む。暫く抱きしめていると、もう充分だと言わんばかりに光が背中を叩いた。

光が胸に埋めた顔を上げる。熱を帯びた頬が、溶けかけのバターみたいにふにゃりと潰れる。

光に手を引かれ、ダイニングテーブルがある四方全てが真っ白なリビングを抜ける。真っ白な壁が横にスライドして、別の空間が現れる。リビングと全く同じ様相をした6畳ほどの真っ白な部屋に、ベッドと机だけが置かれていた。机の上には大きめのタブレットが一つ置かれているだけで、他には何もない。

光は部屋に入るなり、勢いよくベッドに飛び込んだ。勢いに引っ張られて、一緒にベッドに倒れ込む。反発の少ないマットレスに体が受け止めて、互いに向き合うように横になった


「キャハハ、フフ。ウヒヒ。ハハハハハ」


光は子供のように笑った。目尻を下げて、顔をくしゃくしゃにして、発作のように体を捻じらせて、体の奥底から湧き出る喜悦で、体の制御を失ったかのように笑う。


「ねぇ、海くんはどうしてここにいるの?言ってよ。私に教えて。どうして?ねぇ、どうしてぇ?」


光は体を丸めながら、手だけのばして俺の顔を覗き込む。プレゼントを開封する前の子供のように、瞳を期待で輝かせる。喉元までこみ上げた言葉を、ただ光の為に紡いだ。


「……光が好きだから」

「うんうん、それで?誰より。ねぇ誰より好きぃ?」

「……相良より好きだ、光のことだ」


光が声にもならない声を出すと、布団を手に取って顔を覆い隠した。そのまま布団ごと顔を押しつけてくる。布団の塊みたいになった光を両手で抱える。陸に揚げられた魚みたいに暴れている。どういった感情表現なんだ。


「く、苦しい。息、息!」

「苦しかったんなら言えよ!あ~もう、動くなよ」


絡まった布団を無理やり引きはがす。布団が剥がれると、入れ替わるようにぼさぼさ髪の光が現れる。静電気のせいで軽く跳ねている。


「見つかっちゃった……」


恍惚とした表情を浮かべた光が口元を歪ませる。


「私、今が一番幸せ。ほんとだよ。幸せなの。ねぇ、海くんは?海くんは幸せ?」


ねぇねぇと連呼をしながら光が急かす。ここまで楽しそうな光の姿はいつぶりだろうか。少なくとも覚えている記憶の中には、こんな光は残っていない。

脳裏を掠めるように疑念が浮かぶ。

ここは何処だ?窓から見える景色はなんだ?相良との会話は?相良は何処に消えた?

聞きたいことは無限に沸いて、でも口を噤んだ。もし一度でも口にしてしまえば、目の前の笑顔が二度と見れなくなる予感がする——だから先延ばしにした。


「幸せだよ」


それ以上の言葉はきっと不要だ。ふっくらとした唇が俺を塞いで、光の鼻先が目の前にあった。煮えて溶け切った鉄みたいに熱くって、とろりした瞳には俺だけが反射している。光の髪を撫でると、奥まで沈み込んだ舌がウネウネと揺れた。舌で唾液を押し込まれる。口の中に溜まって仕方ないから、喉を鳴らして飲み込むと、また舌がうねった。


「もう、何処にもいかないで」


今にも泣きだしそうな光を抱きしめた。こうすれば喜ぶと知っているから。



この家はキッチン付きのリビング、光の部屋、トイレと風呂場で構成され、建物なら必ず存在するあるものが何処にも存在しない。

それは玄関だ。リビングからトイレや風呂場に繋がる廊下を進むと、不自然な行き止まりにぶち当たる。四方を細かく観察しても、継ぎ目1つない精巧な壁だ……この場所になければ。一般的な構造と示し合わせて考えてみると、恐らく壁の向こう側が玄関になるだろう。

掃き出し窓から見える景色も謎だ。この建物には朝も昼も夜もない。窓の向こうには星空が絶えず投影されている。部屋には照明器具が設置されているものの、その電源を入れるスイッチやリモコンは見つからない。だと言うのに、窓の無い光の部屋や廊下であっても、薄暗いだけで視界は確保されている。この家は、自分の知る世界の法則から明らかに逸脱していた。宇宙を漂うようなこの建物の正体も、相良が突然消えた理由も、ビルでの出来事も、あの町から出られない理由も、全てが1つの仮説で説明がつく。

だとしたら、相良が光に語った話の内容を推測するに……俺は。


「海くん」


突然の掛け声に、思考を中断させて振り返る。眠たげな光が目を擦っている。


「おはよう、先に起きたんだ」

光は朝に弱い。一度は目を覚ましたが、すぐに二度寝を要求されたので、そのまま寝かしておき、この家の構造を確認していた。そもそも今は朝と呼んでいいのか。一日中薄暗く、時計も無いので、時間の概念が曖昧だ。


「おはよう……朝飯にするか」


まだ夢の中にいる光を椅子に座らせ、キッチンに設置されたドリンクバーみたいな機械と向き合う。見た事ない機械なのに、何故か操作方法が分かる……思い出すように。積み上げられたプラスチックのお皿を二個取り、機械にセットして起動させる。すると各仕切りに対し、色とりどりのペーストが注入され前と全く同じ料理?……食料が出来る。冷蔵庫のような物を開けると、アイスみたいな味がしたレンガがあったので皿の空いたスペースに添える。


「昨日と同じやつでいいか」

「いいよそれで、どうせそれしかないし」


なるほど、最悪だ。流動食みたいな触感では腹は膨れるが、イマイチ食った気にならない。家畜用の餌みたいだ。

先に食べきってしまったので、改めてリビングを確認する。ダイニングテーブルとキッチンあるぐらいで、他には何もない。昨日から薄々感じていたが、この部屋には既視感があった。記憶を探ると、何もない壁に背を座る光を幻視する。

風邪で寝込んだ時に見た夢だ!あの夢で見た部屋は、この部屋と寸分違わぬ構造をしていた。だが、それが何を意味する?


「この部屋は退屈?」


俯き加減の光が不安げに尋ねる。この家には何もない。ただベッドとテーブルがあるだけで、生活するための最低限の機能しか携えていない。退屈かそうでないかと言われれば、もちろん——。


「退屈じゃない。光がいるだろ」


花が咲いたように光の顔が明るくなる。食べかけのご飯も置いて、何もかも金繰り捨てるみたいに抱き着いてくる。余りの勢いにバランスを崩し、その場に倒れ込んだ。上から光が伸し掛かって地面と平行になる。

光の手がお腹の上あたりを摩る。指が肌の中に沈んで、直接神経を指でなぞられているようで肌が泡立つ。首の後ろ辺りがぞわぞわとして、意識とは関係なく体が跳ねた。


「私も同じこと考えてる。私も同じこと考えた。海くんと同じこと考えてた」

「……あぁ」

「嘘じゃないよ。本当に、ほんと、同じこと考えてて、海くんが同じことを考えていて、凄く嬉しいの。昨日だって、これまでだって、ずっと、ずっとずっとずっと嬉しいの」


同じ言葉を繰り返すのはきっと不安だからだ。一度では伝わらない気がするから、同じ言葉を光は繰り返す。光の声が徐々にくぐもって、喉に引っかかって、たどたどしい口調になる。


「だから悔しいの。私はこんなに嬉しいのに、この気持ちを直接海くんに伝えられないのが痛くて辛くて狂いそうになる。偏桃体の興奮をどうやっても声帯の振動でしか届けられない。既存の言語体系に意味を集約されて、そぎ落とされて、簡略化された意味しか海くんに渡すことが出来ない」


俺の体のあちこちを触れて摘まんで弄りながら、光は俺の服をめくってて露わになった腹の中心に側頭部を押しつける。たぶん、脳みそを近づけているんだと思った。感情の発信源を少しでも近づける為に。


「海くんの肉が妬ましい。ごつごつした筋肉を見ると嫌になるの。硬くて角ばって、いつも一番近いところに居座って、柔い私はいつもこれに阻まれている気がして恐ろしくなる」


脇腹に伸びた光の爪が刺さる。鋭い痛みが走って、それでも声を出さないように頬を噛んだ。


「分かった。なら、もう運動とか、しないから」

「ヤダ、ダメ、そんなこと言わないで、だってゴツゴツした海くんも好き。男らしい海くんも好き。好きだから苦しいの。相反するからぐちゃぐちゃになって、境界がなくなっちゃう」

「そうか。……大丈夫だから。大丈夫。大丈夫だよ光」

ただずっと大丈夫と言い聞かせていた。頭を撫でて、何一つ正解が分からないままずっと大丈夫と言い続けた。正解は分からない。そもそも正解が存在しないから光はずっと泣いているのかもしれない。

出口も入り口もないこの家はどこにも開いていない。同じ空気が同じ空間を回るだけで、時間の概念がないこの空間は、いつまでたっても前に進めない

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