修羅場

小森光宅への訪問は翌日の金曜日、奇しくも儀式の日と被っていた。

待ち合わせ場所は俺の家。近隣に集合に適した場所が無いから、仕方なく。約束の時間まで残り三十分を切っている。だというのに、俺は未だにベッドに横になり、灰色の天井を見上げていた。


『分かってるんだろ?このままで良いわけがないんだよ。夢はいつか覚めるから夢なんだ。それに……閉じこもったのは彼女の意志かもしれないが、それを助長させているのは間違いなく君なんだぜ』


相良の言葉が無限にリピート再生される。ひとつひとつの音が鉛のように重く響き、体の奥に沈んでいる。相良は光について知っていた。どうして、どこで、どうやって。つま先からてっぺんまで疑問符で埋め尽くされて破裂寸前だ。レンジでチンしたら濃厚な疑念が毛穴から溢れ出る気がする。想像したら余計に気持ち悪りぃ。


昨日の帰り道、何度も問い出したが『彼女に会った時に話すよ』とだけ言って、それ以外は何も教えてくれなかった。

相良と初めてキスをした日。あの日、どうしてあの場に相良がいたのか?

それだけじゃない——相良は最初から光に目を付けていた? もしかすると、俺よりも先に異変に気付いていて、光がそれに関与していると知っていた?

けれど、霊体マンタを見た時の相良の顔をよく覚えている。本心から驚いていたし、あれは困惑以外の何物でもなかった。そうだとしたら、どうして彼女は光について知っているのか。分からない。全く想像がつかない。自分の鈍さがここまで嫌になるのも初めてだ。

問題はまだある。


光は聡明だ。きっと一目見ただけで、相良がデートした相手だと気付くだろう。もしかすると、実際のデート風景まで監視されていた可能性まである。だとすれば……一体どうなるんだろう。

昨日の光はおかしかった。無害な小動物みたいな光が、声を荒げて別人のような振る舞いだ唐突過ぎて実感が無かったが、一日置いて考えると事態の異質さがどんどん膨れ上がっていく。光が人の首を絞める?悪い夢だと言われた方が信じられる。

不安定な光と、相良を会わせてしまって本当にいいのだろうか?昨日からずっと頭を悩ませている。大きく拗れて、どちらかの関係が、或いは両方の関係を失ってしまうのが恐ろしい。こういう事を考えていると、自然と表情筋がふやけて口角が上がる。今の俺はきっと凄くキモイ。骨の髄までクソ野郎。贅沢な悩みだ。でも二人を天秤にかけている時が一番楽しい。うわ、きも!きもきもきもうわー!俺ってダサすぎ。

ポンポーンとチャイムが鳴った。呑気で軽快なチャイムの響きは、煽られているように思えた。ほら、お迎えが来たぞ。刑が執行される死刑囚はこんな気分なのだろうか。


「やぁ、周防。準備はいいかい?」


もうどうにでもなれだ。ドアに鍵をかけて外に出る。果し合いに向かうわけでもないのに、もうこの家には二度と戻れないような、そんな気がした。

相良は徒歩で来たようで、一緒になって光の家まで歩く。足取りは重たい。地面に靴底を押しつける度に、これから訪れるだろう修羅場を想像して億劫になっていく。


「浮気者の周防くんは、不貞が露呈するのが怖いのかい?」


揶揄うような口調で相良が背中を叩いた。不貞が露呈、ダジャレみたいだな……ダメだ、ふざけてみたが、心臓は相変わらず楽しそうなビートを刻んでいる。


「べ、別にそんなんじゃねぇよ。ただ、昨日の光は様子が変だったから……心配なんだ」


嘘じゃない。光は中学卒業間際に突然不登校になって、家に引きこもった。理由は未だに分からない。本人は電波のせいだと言っていたが、はいそうですかと鵜呑みには出来なかった。最初はいじめを疑ったが、それらしい噂も手掛かりもない。

少し前までは、分からないままでも良いと思っていた。誰にも知られたくない弱みなんて、どんな人間でも持っている。無理にほじくって取り返しがつかなくなるより、『設定』も『引きこもり』もそういうものだと受け入れて、同じ時間を共にした方がきっと光の為になる

光が内に抱えているものは確実に脆い。そうじゃなければ、部屋に籠ったりしない。だから心配なんだ。もし相良と相対して、修復不可能なとこまで拗れてしまったら、光の世界は更に狭くなってしまうのではないか。いや、多分それだけじゃない。依存してるんだ。俺も光の存在に依存してるんだ、きっと。

俺の心配をくみ取ったのか、相良の声がワントーン上がる。


「大丈夫だよ。きっと大丈夫。僕が何とかしてあげるから。その為に僕がいる」


少しずれているような返答に違和感を覚えたが、口にはしなかった。相良も緊張しているのだろう。どうして相良が光を知っているのかは分からない。だが、今日の話し合いが拗れたら異変の解明はまた振り出しに戻る。検証を繰り返して、ビルや踏切の時みたく危険な目に合うのは相良だって勘弁願いたいだろう。

暫く歩いていると、重なってた靴音が途切れて、一つだけになる。振り返ると、道の真ん中で相良が立ち止まっていた。


「どうした?」

「ちょっとね。……ねぇ、周防。こっちに来てくれないか」


そう言って手招きをするので、来た道を戻り相良の元に立つ。そして左手を差し出してくる。


「……手、握ってて」


相良は右手で口元を抑え、目線を反らしながら少し俯いてそう言った。恥ずかしそうにお願いをする相良を見て、少しだけ安心した。相良だって人並みに緊張すると分かったから

熱の籠った相良の手を握った。少し汗ばんだ手のひらが、相良の緊張をより鮮明に伝えてくる。


「……離さないでいてくれよ」

「お、おう」


滅多に見せないしおらしい態度を前に、少しだけクラっとした。色んな感情が錯綜して、ただでさえ暑い気温が割り増しに感じる。何だか俺まで汗ばんでくる。こっそりズボンで手を拭こうとしたが、強く握られた手を離せなかった。




光の家が見えてくる。

光の部屋を眺めるが、カーテンで閉め切られ中の様子は確認出来ない。いつもなら何の感慨もわかない光の家が、まるで伏魔殿のような不気味さを漂わせている。白いモルタルの外壁は黒ずんで、周囲を対流している空気が全てここに沈澱して折り重なって家の形を作っているような。外は暑いのに、背筋は冷たい。


「意外と普通の家なんだな……」


玄関の前に立つ相良は、家を見上げて呟いた。ごくりと喉を鳴らす。片方の手でスマホを取り出し、光に電話をかけた。プルルという呼び出し音が鳴り続けている。いつもはワンコールで電話に出るのに、今日に限っては一向に繋がらない。


「……留守かな」

「いや、光は外に出てるとは考えにくい」


風邪を引いた時に家まで来ていたが、引きこもり始めて以降、俺の知っている限りあれが唯一の外出だ。それまで彼女は家から、部屋から出てこない。

電話に出ないのは恐らく、俺が相良を連れてきているからだろう。改めて窓を確認するが、何処かに隙間があるようには見えない。ならば何か別の方法で、俺の動向を見張っていてもおかしくはない。

インターホンを押すが、反応はない。合いかぎの場所を光の両親から聞いていて……なんて都合の良い事はもちろん無い。まさか、リビングの窓を割って入るわけにもいかない。こうなったら光の両親が帰宅するまで待って、なんとか入り込むしかないのだろうか。

玄関前で立ち止まり考えていると、相良が一歩前に出て玄関の扉に手をかけた。予想に反して玄関の扉は簡単に開いた。どうやら初めから施錠されていなかったようだ……いや、俺達の姿を見て何も言わずに開錠したのかもしれない。


「行こうか、周防」


扉を開けてまま、振り返る相良に頷いて答える。家の中はいつもと変わらず、電気一つ付いていない。靴を脱ぐために、繋いでいる手を放そうとしたが相良は強く掴んで離さない。


「靴脱ぐのに邪魔だろ、一端離すだけだって」

「……いいや、繋いだままでいてくれ。これは策なんだ。周防だって一人で説得できるとは思ってないんだろう?騙されたと思って従ってくれないか?」


相良の意図が全く読めない。だが、取りあえず言う事に従った。策があると言うのなら、素直に従うのが吉だ。


「素直で助かるよ」


片手で器用に靴を脱ぎ、相良が玄関に上がって立ち止まる。あぁ、そうだ。相良が光の部屋の位置を知らない。手を繋いだまま光の部屋の前まで先導する。

扉をノックしたが返答はない。そのままドアノブを握り、ゆっくりと回した。

やはりと言うべきか……光はちゃんと部屋に居た。

入り口の扉から最も離れた場所、入り口から真正面に広がる壁に背中を寄せて、体育座りのまま俯いている。白い前髪の隙間から目玉だけがぎょろりとこちらに向く。光は無言でこちらを、ただじっと睨んでいる。


「やぁ、小森光。お邪魔させてもらうよ」


物怖じしない相良は、躊躇うことなく部屋の中に踏み込んでいった。釣られるように俺も部屋に入った。堂々とした態度で光の前に座り込んだ。腕を引っ張られながら、自然と俺も一緒に座った。


「…………海くん。コレ、なに?」


“コレ”と同時に、一瞬だけ目線が横に揺れた。敵意を隠さない低い声だ。きっとコレには相良だけでなく、この状況も含まれている。これほど不機嫌な光は初めて見るかもしれない。だが言い換えれば、それだけ動揺しているという事。相良が付け入る隙も生まれやすいだろう。


「コレとは酷い言い草だね。僕は相良だ。まぁわざわざ紹介せずとも、君は僕を知っているだろう?」

「ねぇ、海くん。黙ってないで早く答えてよ。コレはなに?海くんは何がしたいの?」


相良を一瞥した後は、それからずっと俺だけを睨みつけている。まるでそこに相良が存在しないかのように、決して視界に入れようとしない。


「……外に出ようとした。でも本線の電車は必ず運休になって、霧原市の外に出ようと思ったら道がループして出られないんだ」

「なにそれ、ゲームの話?こんな奴連れてきて、変な事言わないでよ」

「霊体マンタや電波では説明できない出来ない事だらけなんだ。なぁ光、もうダメだ。ダメなんだよ。もうはぐらかされるつもりはないんだ。だからここに来た」


光もここにきて、言いくるめれるとは思ってないはずだ。誰かを光の部屋に来たことは一度もない。それだけ本気であることは、言わずとも伝わるだろう。


「小森光。いつまでも逃避が続けられると思ってはないだろう?物事には必ず終わりがくるように、君の行いも永遠ではない。最後まで足掻いた先にあるのは、誰も報われない未来だけだ。君も周防、誰も報われない」

「お前に私の何が分かるっていうの?分かったような口聞かないで!!」

「分かるよ。分かるからここに来たんだ。僕は誰よりも君の気持を理解している」


光が面を上げる。眼差しには、隠しようのない怒りが満ちていて、今にも飛び掛かりそうだ。

思わず相良を庇う形で前に出た。


「ひ、光。いっかい落ち着け、な?」

「海くんも海くんだよ!庇ったりなんかしてさぁ!?これ見よがしに見せつけて……手まで握って何がしたいの?」


金切り声で吠える。咄嗟に手を放そうとしたが、相良は手を強く握り離そうとしない。


「ダメだよ周防。絶対に離してはいけない。僕を信じて」

「気持ち悪い、気持ち悪いよ。ねぇ、なんでずっと握ってるの。意味わかんない!海くん!海くん!!」


二人に挟まれてどうすればいいのか分からない。手を放すぐらい、どうってこともないはず。それでも相良が離そうとしないのは、きっと何かの意図があるからで、なら俺に出来る事は相良を信じる事だ。


「ぽっと出の癖に、我が物顔で海くんに触らないで。悟った様な口聞いてさ、お前は私に頼む立場でしかないのに海くんの隣に立って何がしたいんだよ!!」

「君が僕を拒絶していたからだろう。こうやって君の前に立つのもすお……海(うみ)くんのおかげだからね」

「お前が…その名を呼ぶなッ!!」


完全に呆気に取られてた。もうどこから触れて良いのか分からない。相良の言い分も、光の罵る口調も、全てが俺の知らない前提を元に繰り広げられているように見えた。

相良は何度か光とコンタクトを取ろうとしていたのか?それにこんなに口の悪い光は初めてだ。誰も報われないって何の話だ。知らない要素が多すぎる。話について行くのに精いっぱいだ。

荒々しい呼吸で繰り返す光は、態勢を変えて、正座みたいに足の組んだまま腰を上げた。おそのまま前傾姿勢で顔を俯きながら、下から抉る様に相良を睨みつけている。


「意味わかんない。意味わかんないよ。ねぇ、海くん。私を信じて、お願いだから、お願い!そんな奴追い出してよ。私の部屋から追い出して!!」

「その海くんが僕を連れてきているんだよ。もう君も分かっているんだろ、小森光。タイムリミットなんだよ。楽しい時間もおしまいだ。どれだけ過去に縋っても、現実は必ず君に追いつくぞ。今日の僕を追い返した所で、僕たちは絶対に諦めない。何度だって君の前に現れて、君の嫌いな現実を必ず付きつける」

「うるさい!うるさい!うるさいッ!!!僕僕僕って女のくせに気持ち悪いんだよ!縋って何が悪いの!?全部クソじゃん!どいつもこいつも!こうさせたのはお前らだろうがぁ!」

「なら君はどうなんだ?聞いたよ、彼を家に通わせて、可哀そうなワタシで同情を買わせて繋ぎ止めていたんだろう?いつまで彼に依存するつもりだい?あれから、もう何年が経過したただろうね?」

「うるさいんだよ!お前なんか……い、淫売みたいなマネしてさぁ、色仕掛けで仲良くなったつもり?バッカみたい!女の子なのにデカくてさぁ、肌も荒れてるし…今どきおさげ髪って何?可愛いと思ってやってんのかよ痛々しい!!」

「フ、フハハハ。容姿を君が言うのかい?だから……僕はキミの事を知ってるんだよ?それに色仕掛けの事を言うなら、君だって儀式と称して接吻を繰り返してたんだろ?小森光、君の方がよっぽど」

「黙れぇよぉおお!——ぅぅぅぅ゛う゛う゛う゛う!!!!」


獣のような唸り声だった。顔は相変わらず俯いたままで、両手で耳を塞ぐみたいに顔の横に押しつけて、落ち着きなく前後に揺れている。レースのように細く透明な白髪を振り乱し、爪を立てて掻きむしっている。

絶句してしまった。まさしく発狂だ。

荒れ狂う光に、相良は蔑むような冷たい眼差しを向けている。いくら何でもやり過ぎだ。しかし相良の手から伝う震えや汗が、相良自身の余裕の無さを示していて、止めに入るべきか迷わせた。


「小森光、僕はね……決して君を虐めたいわけじゃないんだ。君は現状に罪悪感を抱いている。分かっているんだ。自分が間違っている事に」

「知った様な口を聞くな!私は、私はいますごく幸せ!海くんがいて、私を不快にさせる馬鹿もいない。ここが良いの!ここじゃないとだめなの!!!」



「じゃあどうして、僕をこれまで放置していたんだい?」


相良の一言は、まるで電源を落としたように、光の狂乱を止めた。


そこでようやく、光がずっと俯いている理由が分かった。誰の顔も視界に入れたいんじゃない、誰の視線にも自身の顔を晒したくないんだ。頭部に添えられていた光の両手が弱弱しく震えていた。


「僕を認知していたんだろ。その時点で、君は僕を無理やりでも追い出すべきだったんだ。甘く見られていたとは思わないよ。だって君は小森光なんだから。


答えは簡単だ。君は自分を止めて貰いたかったんだ。でも素直にあきらめる事も出来ない。

だから自宅周囲に障壁を張ったんだ……僕の役割は最後のセーフティネットってとこかな。素晴らしい計画だよ。結果的に君の描いた絵図通りに僕たちは動いでここに居る」

光は微動だにしない。ただ嵐が過ぎ去るのを待つ、無力な子供みたいに、頭を抱えジッとしている。


「想定外があるとしたらビルでの一件ぐらいかな。まだ試作だし……内部からでは修正が出来ないんだろ。中に入ったままメンテナンスするなんて想定されてないからね。この世界は恒久的ではない、君の望む楽園にはなり得ないんだよ」


余りの展開の速さに理解が追い付いていない。だが相良のいう事が全て正しいのであれば、この世界の正体は——。

相良が光の耳元に近づいて、強固な鎧の隙間を狙うかのように囁いた。


「君は今と向き合うべきだ。いくら祈っても君が望んだ時間は帰ってこない。本来ならもっと早く離別するはずだったんだ。それを君と彼の執念が無理やり繋ぎ止めていた。最初から住む世界が違ったんだよ」


光の手が滑るようにスライドして顔を覆う。背筋もゆっくり曲がっていって、地面に平行に近づいていった。差し出すように伸びた首が垂れた。


「確かに現実は君の理想とは違うかもしれないが、それでも君には未来があるだろう。失ったものは別の物で代替すればいい。あの時間は奇跡のようなものだったんだよ。泡沫の夢だと割り切って、切り替えればいい。まだやり直しが効くうちにね」


光の小さな肩が小刻みに揺れて、細い指の隙間から押し殺したような嗚咽が漏れていく。しゃっくりみたいな呼吸が繰り返され、地面に顔を擦り付けてすすり泣く。光が泣いている。光が俺の前で泣いている。悲しみの縁に沈んで、1人で泣いている。頭痛がした。ズキズキと脳の奥から鈍い痛みが浮かんで、強くなっていく。その場に膝をついて、空いている手で頭を押さえる。


「周防!?だ、大丈夫か?」


先ほどまでの演技じみた発声から打って変わって、相素に近いような声を相良が出して狼狽えている。強い光に当てられたみたいに、視界が白く染まって霞んでいく。上書きするみたいに、白く染まった空間が姿を変えて、映写機で投影されたスクリーンみたいに別の映像が映し出される。

光が泣いている。鼻水を垂らして恥も外聞も捨てて泣いている。だが映像の光は何かが違う。不明瞭な視界のせいで差異は分からないが、間違いなく何かが違った。何処かで見たような光だ。これは、そうだ。風邪を引いて寝込んだ時に、夢に出てきたあの光だ。馬乗りになって、俺の血を舐めていたあの光に似ている。何だこの記憶は。アレはただの夢で……じゃあこの映像は何なんだ。


「……海くん。海くん、たすけて…海くん助けてよ」


光の声がする。違う、この声は夢じゃない。目の前で光が泣いて、俺に助けを求めている。

嗚咽交じりの幼児みたいな泣き声で、光が俺に助けてを求めている。でもどうしたらいいんだよ。俺は何をすればいい。


「ダメだ……ダメだ!周防、話を聞くな!!」

「手を離して……海くん、お願い。手を離して、私を救って」


呼応するように相良が声を荒げ、力が込められていく。身長は同じなのに小さくて細い手だ。汗ばんで手のひらは滑り易くて、きっと力一杯振り切ってやれば簡単に剥がせてしまうだろう。


「違う!僕の言うようにすれば全員助かるんだよ!!僕を信じてくれ!周防!!」

「手を離して……お願い。私何でもするから……お願い、私を選んでよ、海くん」


頭が痛い。二人の声がノイズみたいに響いて煩くて仕方ないんだ。お願いだから少しの間黙っていてくれ。


「僕を選べ!!周防!!」

「助けてよ!海くん!!」


手のひらを滑って熱が離れていく。全ての光景がゆっくり動いていって、繋いでいた筈の相良の手が宙を舞っている。

相良の瞳が大きく開いて、何かを叫んでいた。

顔を伏せていた筈の光の顔がいつの間にか上がっていて、大粒の涙を頬に伝わらせ微笑を浮かべている。


「……やっぱり海くんは私を選んでくれるの。だから、ごめんなさい」


こちらに伸ばされた相良の手が視界を掠めて、次の瞬間にその全てが消えてなくなった。

同時に頭痛が消えて、思考が晴れる。周囲を見渡すが相良の姿は何処にも見当たらない。髪の毛一本すらその形跡は残っておらず、手に残る熱だけが相良の存在を立証していた。茫然とその場で立ち尽くした俺を、光が正面から抱きかかえる。光の体は機械みたいに冷たくて、柔らかくて、もう二度と離して貰えないんじゃなかってぐらい激しく抱き着いてくる。


「海くんの事が好き。だから……今はおやすみ」


光の指が俺の両目を覆って……電源が落ちるみたいに体から力が抜けて意識が沈んで行く。

最後に見えて光は泣き止んでいるように見えて、少しだけ安心した

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