全部、知ってる

何かが切り替わった様な気がした。気圧が下がったみたいに全身の毛が逆立って、場面転換を迎えた舞台みたいに、周囲のセットが足早に入れ替わっていくような錯覚を覚える。


「二酸化硫黄と硫化水素が大量に放出されると、大気中で光の錯乱や屈折に影響を与えたりするの。噴火や化学工場の爆発がそうだね。そうして空が緑色に輝くの。硫化物以外にも光化学反応だってそう。揮発性有機化合物や窒素酸化物が太陽光に晒されると、空気中の光の波長が変化して緑色になる。高層大気では特にそう」

「……何だよ、急に」

「宇宙の構造と脳細胞の神経ネットワークに類似性があるみたいな話があるけど、私はそうは思わない。視覚的に捉えたらそう見えるかもしれないけど、3次元的に見た宇宙の構造は面じゃなくて泡の壁みたいな構造が網目状に分布してるの。ある角度からは似て見えるかもしれないけど、少し見方を変えると全くの別物になる。その方が面白いとは私も思うけど、それを真実と捉えるのは正しいとは言えないよ」

「だから何を言ってんだよ!」

「金縛りは脳は覚醒しているけど、筋肉が麻痺して動けないだけ。幽霊は単純な目の錯覚か幻覚妄想。シャーマンの儀式“アヤワスカ”は、幻覚症状のある植物を飲んで神秘的な幻覚を見ているだけだし、ディアトロフ峠事件は雪崩と矛盾脱衣、それに当時のランタンに使われていた放射性物質トリウムで説明が付く」


光は機械みたいに淡々と語句を編み出している。一度も口ごもることなく、本読みをしているかのように淀みなく一定のリズムを刻んでいた。

ドアも窓も締め切った部屋は、全てが室内に滞留しているように思えた。壁掛け時計の秒針が絶えず時間を刻んでいる。部屋の置かれた幾つかのぬいぐるみの全てが、こちらを向いている気がする。カーテンから漏れる斜光がやけに青白い。カーペットの起毛が意志を持って畝っているように肌を擽る。

衝動的に拳を振り下ろした。床を打ちつける鈍い音が痛みと共に響く。痺れが腕を駆け上がったが、その痛みがかえって正気を取り戻させた。

光が言葉を切り、驚いたようにこちらを見た。嫌な緊張が解けて視野が広くなる。ぬいぐるみは無機質な布だし、斜光もただの陽の残照になる。勿論カーペットだって動かない。


「誤魔化さないでくれ……頼むよ。いつもの、いつもみたいな説明で良いんだよ光」


自分でも情けなく思うほどかすれた声だった。それでも光の口から聞きたかった。俺には理解できない難解な話でいいから、ちゃんと説明して欲しかった。


「……誤魔化してるのは海くんの方だよ」


光の瞳が細く、鋭くなる。まるで仮面をつけ替えるように感情が切り替わった。


「……どういう意味だよ」

「酷いよ。自分だけ一方的に決めつけて、私の言い分は聞いてくれないんだ」

「だから、それを言って」

「海くんが隠し事してるからだよ。ねぇ、言ってない事があるよね?私に黙って……隠し通せると思ったの?ねぇ、バレなければ何しても良いと思っているの?海くんがさぁ!」


突然の非難に息がつまる。一転して攻勢に出るような棘のある口調。予期せぬ方向からの反論に対し、自然と相良を関連付けてしまう。

相良とのデートは光に話していない。だって光とは付き合ってるわけではないし、第一二人は面識がない。それに彼女が俺に対して恋愛感情を持っているわけでもなくて……だから光に感じている負い目は、全て自分の中で完結する筈だ。


「ねぇ……霊体マンタって何処で見たの?」


口からこぼれる全てが呪詛みたいに思えた。低く湿って、喉元に冷たい鉄を押し当てられたような息苦しさに襲われる。


「何処って……街で展覧会があって、それで」

「誰と行ったの?海くんが一人で展覧会なんて行くわけないもんね。ねぇねぇ、早く言ってよ。それとも話したくない相手なの?」

「……クラスメイトだ」

「“女の”クラスメイトだよね、女の。二人きりでお昼ご飯を食べて、ゲームセンターで遊んで、そのあと展覧会も行って……そのまま何も無ければ夕ご飯も一緒だったのかな。それともその先も?」


背筋が凍る。知るはずのない情報を淡々語る光は、全くの別人に見える。耳から入り込む音の刺激が上手く捉えられない。恐ろしい呪言は止むことがない


「光……どうしたんだよ、お前」

「どうかした?どうかしてるのは海くんだよ。おかしいのは海くん。悪いのは海くん。


霊体マンタを見たからなに?私が抵抗力を向上させてあげてるんだから何も問題ないでしょ。ビルが消えたからなに?展覧会なんて普段の海くんは行かない

んだから、無くなってもら問題ないでしょ!怖い思いをしたんなら私に抱き着けばいいじゃん!怖かったねって慰めてあげる。抱きしめてあげる。頭を撫でてあげる。何でもしてあげる。だから余計なことは考えなくていいんだよ!!」


光の声が、どこか遠い場所から流れるスピーカのように響いていた。

気が付けば後ずさりをしていた。起き上がった光が、ジリジリと詰め寄って態勢が入れ替わる。背中が光のベッドにぶつかり、後退を拒んでいた。

逃げ場を失った俺の肩を、光の手が上からぐっと抑える。そのまま俺の上に馬乗りになる。光の両膝が足の関節部分に乗って、全体重をかけられる。


「か、関係ないだろ!俺が誰とデートしようが」


だってそうだろ。光とは付き合ってすらいない。


「関係あるとか無いとかってそんなに大切?そんなの全部記号だよ。わざわざ省みるほどの価値はないの。価値を決めるのは私」

「……何が言いたいんだよ」

「一から十まで言わないと分からない?」


肩にかかる重みが増して、光が体を捻じった。関節に乗った光の膝がより深く沈み、鋭い痛みが走った。


「……ぅッ!」

「痛い?痛いよね?……よしよし、痛かったよねぇ」


光が頭を撫でる。触られた髪が揺れて、額に張り付いた。

その笑顔は無邪気で、悪意が一滴も混じっていない。いや、そもそも自分が加害しているという認識すらないように見える。出来の悪い子供を叱りつける親が、叱る行為を愛情だと信じ込むように。


「……ぅ!俺はただ、知ってる事を教え」

「そんなこと知ったって何になるの……いらないよそんなの。海くんに必要ない」

「必要かどうか決めるのは俺だ!」

「ううん、私。私が決めて海くんに教えるの。勉強と同じだよ。必要のない事を覚えるなんて脳細胞の無駄使いだもん」


話にならない。いや、最初から俺の話を聞く気が無いのかもしれない。馬乗りになった光は腰を動かして、腰の上を滑るように距離を詰める。

光の下腹部が俺の鼠径部に重なった。服の繊維越しに感じる感触は、ハンマーでたたき落とされるダルマ落としのこまのように意識を塗り替える。


「動かないでね」


光の手が、肩から首元に滑り込む。左右から弱い力で圧迫され、呼吸が苦しい。こめかみから上あたりに締め付けられるような痛みが波打って、意識が朧げに霞んでいく。灰色の瞳が淫奔に形を変える。光の下腹部が硬くなった所に当たって擦れる。座り心地が悪いのか小刻みに動いていて、余計に。頭がぼんやりして気持ちが良い。光の顔が大きくなる。いや、大きく見えるのは近づいてきてるからで、このままだと……あ、儀式だ、これ。あれ……でも今日は……。


「今日、は、もくよう、だから」


てっきり曜日を忘れているものだと思って、そう言った。喉が狭まっていて、上手く息が吐けない。ぼやけて見える光が静止する。空白が顔の形を形成してるような、空虚な面立ちになって、その空白を遅れて沸いた激情で埋まっていく。光の目に力が宿った。

射殺すような視線を向けられ、首の両脇を閉めていた光の手が中央で重なった。血管が圧迫され、頭痛が更に増していく。頭部が風船みたいに膨らんで、呼吸が出来なくなる。歯を食いしばり鬼の形相を浮かべた光が見える。力んだ両手は小刻みに震えて、激情の全てを俺にぶつけているようだった。先ほどの遊びとは全く違う。生存本能が湧き出て、体が勝手に動いた。


光の両肩を掴み渾身の力で引きはがす。驚くほど簡単に離れた光は、そのまま肩からカーペットの上を転がり倒れる。

必死に呼吸を繰り返すと徐々に頭が冴えて、頭痛が薄まっていく。背中を預けているベッドに頭をのっけて少しずつ呼吸を整えていく。ようやく落ち着いた頃に光を思い出し、目線を下げると光は倒れたままの姿勢で微動だにしない。


「……何がしたんだよ、光」


息を切らしながら問いかけた。鈍感な俺でもこれぐらいは分かる、光は何かを隠している。

光の豹変も全部にそれに起因するはず。俺の声に反応するように、光が膝を抱え込むように小さく丸まった。頭を膝の間に隠して、両手で耳を塞いている。眼に見えて分かる拒絶だ。


「何か言えよ。なぁ」


背中に手を当てて揺らしてみるが反応はない。こうなったらテコでも動かないだろう。無理やり顔を上げさせる事はできるが、やったところで話しができるとは思えない。丸まった光の背中は凄く小さい。腕も首も枝みたいに細くて、真白の肌が余計に虚弱さを強調している。

豹変が追及を誤魔化す為だとして、何故光が相良とのデートを知っていたのかは分からない。きっと聞いても教えてもらえないだろう。

監視……帽子を被っていれば外に出れると光は言った。なら光は外に出て……。それにさっきの説明はなんだ?都市伝説や怪現象を科学的に説明するような事を言って……あれでは電波なんて無いと自分から言っているようなものじゃないか。


盗聴ならどうだ。現在地を外部から確認できるアプリがあると、昔瀬尾が言っていた。カップルが互いの位置を知るためにアプリを入れ合うのだと。光の家でトイレに行く時は、スマホを置いたまま向かう。俺はスマホにパスワードを設定していないから、その間に光が弄る事は可能だ。

うずくまる光を視界に捉えたまま、スマホのアプリを全部確認するが見覚えのあるアイコンだけが並んでいる。これといった怪しいアプリは見つからない。

するとちょうどのタイミングで相良から連絡が来た。メッセージは待ち合わせの連絡。これから昨日待ち合わせをした駅に来れるかどうか。現在の時刻は12時前。一度家に戻り、自転車で向かえば30分以内につく。


『十三時に行く』とだけ送った。


「……行っちゃダメだよ」


倒れたままの光が、腕だけ伸ばし俺の足を掴んだ。弱い力だ。いや、これが光の全力なのかもしれない。不気味に思えた光が、今は弱弱しく見えた。態勢を起こした光は四つん這いで滲み寄り、足を掴んで離さない。


「行っちゃダメ。海くんは抵抗力が弱まってるの。そんな状態で外に出たらもっと怖い目にあっちゃうから。絶対にダメ」


態勢に反して、嗜めるような強い口調だ。痛くしないように気をつけて、掴んでいる指一本ずつ丁寧に剥がしていく。


「ごめん、光……でも、何も知らないままなのは嫌なんだ」


指を剥がすと観念したように動かなくなる。足元は正座みたいに組んだまま、顔を地面に伏せて手だけを伸ばしてうずくまっている。このまま出ていくのは気が引けたが、今の光はとても俺の手には負えない。落ち着くまで一緒に居ない方が良いかもしれない。そう思った。


「ダメだよ…ダメだから」


独り言みたいに呟き続ける光を置いて家を出る。

視線を感じて振り返った。光の家の二階……光の部屋の窓を眺める。厚いカーテンで遮られ、中の様子は分からない。光に相良の事を問い詰められたせいか、何者かからずっと見られているような不快感がずっと付きまとった。

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