暴く

外行きの服に袖を通して、ふと壁掛け時計を見た。

短針は11を指し、長針は少しその手前。

夏休みの真っ只中、それでも大人たちはいつもの日常がある。両親は既に出勤していた。この調子なら、光の両親も同様だろう。


ビルから脱出した俺達は、どこにもよらずに帰路についた。

帰りの電車の中で、俺達は何も話せないでいた。口に出してしまえば、この電車でも同じ現象が起きるではないかと不安になっていたからだ。脚をくじいて歩きにくそうにしていた相良は「親に車で迎えに来てもらう」と言ったので、駅前で解散してその日は幕を閉じた。



今日は木曜日。昨夜の出来事が嘘だったように、底抜けに透き通った青空が広がっている。雲ひとつなく、もちろん透明なマンタの影ひとつ浮かんでいない。


やはりおかしい。家から光の所に行くまでには、川を一つ渡る必要がある。その為の小さな橋があるのだが、どう見てもその橋の位置が記憶と違うのだ。

最初に気づいたのは、昨夜の暗がりの中だった。その時は辺りも暗くなっており、勘違いだと言い聞かせた。相良と一緒に帰った時は、別の道を使ったので気が付かなかった。だが昼間の光の下では、それが通用しない。


ビルでの出来事がよぎる。長すぎる廊下、不気味な黒泥に呑まれていく壁や天井。現実のはずが非現実だった光景。コールタールのような黒泥に浸食されていったあのビルの事を。これはただの偶然か。知らなかっただけで、何かの工事が行われたのか。いや、橋の位置は元の位置から百mも離れていない。わざわざ移設する必要が無い。


何かが、この町で蠢いている。

それが何なのか、何を意味するのかは全く分からない。だが、その「何か」の存在を感じるだけで、じっとしていられなかった。

光の家の前で電話を掛けた。ワンコールもしないうちに、光の声がする。


「海くん、どうかした?」


耳に届くのは、不思議そうで、けれどいつも通りの彼女の声だった。


「いま…光の家の前に居るんだけど、会えないか?」


一拍置いて「うん」という返事が聞こえる。通話が切れると同時に、玄関から開錠音がした。

家に入り、階段を上がる。心臓の鼓動が早まって鳥肌が立っている。何を緊張しているんだ俺は。いつも通り光と会って少し話すだけだ。全部偶然だ。昨日見た幻覚と光の妄言が偶々一致していただけで、光の話が本当なわけない。

大きく息を吐いて、ドアノブに手をかける。いつもより重たく感じる扉を開けると、部屋の中心に立った、光と目があった。やや横を向いて俺からは斜めに見えた。


「おはよう、海くん」

「……おはよう、光」


光は薄めなままで、よく見れば髪が少し跳ねていた。寝起きだったのだろうか。


「悪い。起こしたか」

「大丈夫。ずっと寝ちゃうと頭痛くなるから」


その場に座り込んだ光は、カーペットの上に無造作に置かれている大きな白いクッションに抱き着いて、眠るように横になる。大きな欠伸をした姿は、まだ眠たげだった。彼女の隣に腰を下ろす。ごろんと転がって仰向けになった光が、下から覗くように俺を見

つめた。


「どうしたの?理由も言わないで海くんが来るなんて珍しい」

「……ダメか?」

「そんなことないよ。むしろ、嬉しいかも」


こちらを見上げる光は眩しいのか、指でピースのような形を作り、ハサミの部分を両目に当てている。なんだよ、そのポーズは。

照明のリモコンを手に取り電源を落とす。カーテンの隙間から漏れる淡い光だけが、薄く部屋に広がっている。


「ありがと、やっぱり暗い方がいいね」


両手を離すと、光の大きな瞳が露わになった。寝転んだまま俺の腰を軽く叩く。おそらく感謝を表しているのだろう。


「夏休みだね」

「夏休みだな」

「まぁ、私は毎日夏休みだけど」

「映像とかで授業するんじゃないのか」

「録画を見るだけなの。だから視聴履歴だけ残してテストで問題無ければ後は自由」


何とも羨ましい。光だからできる事だ。俺には到底真似できない。


「一応言うけど、ずっと暇なわけじゃないからね」

「読書とかゲームは暇つぶしに入るだろ」

「……むう」


頬を膨らませて、睨むように眉を顰めているが、迫力に欠けている。ただかわいいだけ。そう、ただかわいいだけだ。光の無垢な笑顔には、きっと嘘も偽りも存在しない。左手を置いて、下半身は寝そべらせたまま上から覆いかぶさった。光が俺の陰に隠れる。そのまま顔を近づけた。

光が良く見える。眉の端に生えた産毛だって、赤く充血した左目の血管だって、シミ一つ無いお餅みたいな肌だって、目を凝らせば毛穴の一つ一つ全部見える気がした。


光の口を小さく開いて黙っている。右手で光の頬に当てた。壊れ物を触るみたいに慎重に。光の肌はひんやりとして、それでいて滑らかな手触りをしている。痛くない程度に指先で摘まんだ。すると面白いように伸びる。


「わたひぃであひょばなぁひでひょ」


ムッとしたように眉が狭まった。右手は頬を摘まんだまま、左手の親指と人差し指で、眉を横に伸ばす。すると元の表情に戻った。今度は逆に指で更に狭めてやると、もっと怒り顔になる。


「……ハハ」

「うふふ」


俺が笑うと光も釣られるように笑った。しょうもないガキの遊びなのに、それでも強張った自分の神経が緩んでいくのを感じだ。



「霊体マンタってなんだ?」

一瞬だけ光の表情が強張ったのが分かった。それから、ふんわりとした顔に戻る。


「……霊体マンタは霊体マンタだよ?」


光が小首を傾げる。まぁ、そうなるだろう。俺の質問も悪い。手を放し、光の髪を指でかき分けた。真っすぐ生えている前髪を横分けみたいになる。


「……前に教えて貰ったのは覚えてる。でも忘れたんだ。もう一度だけ教えてくれないか?」

「頼むよ」と、付け足してお願いすると、光の目線が左上に流れ、乾いた唇を乾かすように舌で舐めた。


光は両手で蝶々の形を作ると、空を漂うようにユラユラと動かす。


「霊体マンタはね、空をふよふよ漂ってるの。この霧原市だってそうだし、他の街にも何匹も居る。でね、体は透明で、周囲に擬態してるから誰にも見えないの。レーダーにも感知されない。それでお腹に模様みたいな孔がついてて……その穴から霊体拡散電波を雨みたいにザーザーって降り注ぐの。テレビの砂嵐に似てる」

「光はシンクロしたから、霊体マンタの存在を知ってるんだよな」

「うん。チャンネルが混信したの。だから認知ができるようになった」

「チャンネルって?前は脳波が位相同期したって聞いたけど」


光の口が止まった。唾を飲みこむ音が聞こえて、喉の付け根が隆起する。


「……そう言ったっけ?」


口元に指を当てて、すっとぼけるように光が言った。


「あぁ」

「なら多分、海くんが分かるように言ったんだよ。専門単語が多いと難しくなるでしょ?」

「……そうか」

「うん、それでね。霊体マンタはもっと上の位の人達に使役されてるんだけど、それが誰かまでは教えてくれなかったの。守秘義務があるからって。律儀だよね。」


光の話が全て本当だとして、こじつけて考えてみた。


『その電波にね。もし共鳴しちゃったら脳頬(のうほほ)に盗痛(とうつう)が起きて…頭が虫食いのゾンビ人間になっちゃうの』


霊体拡散電波について光はそう説明していた。

頭が虫食いのゾンビ人間……これは展覧会に見た静止した人々ではないだろうか。白紙の絵画を眺め続け、指摘されると壊れた様に動かなくなった観客達。その行列に並んだ人々も感染したように動かなくなったが、それらすべてがゾンビ人間だとしたら。

条件は分からないが、頭が虫食いなのだとしたら、相良と俺で突きつけた指摘に対処しきれずショートしてしまったのかもしれない。

だがそれでは建物を侵食した黒い泥のようなものの説明が付かない。


「ゾンビ人間っているよな?」

「霊体マンタの次はゾンビ人間について知りたいの?海くんって私の話ちゃんと聞いてくれてる?結構ながして聞いてたり……。」

「ちゃんと聞いている、だから安心しろって。でもゾンビ人間に関してはちゃんと教えて貰ってないはず」


間髪入れずにそう答えると、勢いに押されたのか光は黙ってただ口先を尖らせている。

ちゃんと教えて貰ったかどうかは俺も覚えていない。

でもさっきの発言で気が付いた。光も自分の話した事を完璧に覚えているわけではない。

光は昔『外にはね、霊体拡散電波がこう、ヌメヌメって漂っているの』と言っていた。

だが先ほど、電波は砂嵐みたいにザーザーと言っていた。細かなニュアンスの違いかもしれないが、俺のカンはそうじゃないと告げていた。

これまでずっと彼女と一緒に居たから分かる。光は嘘をついている。


「……ゾンビ人間はゾンビ人間だよ。それ以下でもそれ以上でもないよ」


投げやりに光は答えた。その曖昧な態度に苛立ちがこみ上げる。


「だから、そのゾンビ人間について詳しく教えてくれよ。頭が虫食いになるとどうなるんだ?脳頬(のうほほ)って脳の何処の部位だ?盗痛(とうつう)ってなんなんだ?辞書で調べたんだ、初めて聞かされた時に。そんな言葉の記述はどこにもなかった。なぁ、知ってるなら教えてくれよ?光、早く俺に教えてくれよ!」


気が付けば光の肩を掴んでいた。意識とは関係無しに力が入って、両肩を振って光を問い詰める。


「そ、そんな急に沢山聞かれても分かんないよぉ。ねぇ、海くん、肩……痛い」

「じゃあ最初からだ!頭が虫食いってなんだ!次に言葉の意味だ!早く言えよ!」

「あ、頭が虫食いになると……虫食いになるの!脳頬は脳の一部で、盗痛は…盗痛は!」

「さっきから同じことを復唱してるだけじゃねぇか!その中身について聞いてんだよ!光は知ってるんだろ!言えよ!言え!!」


言い切ってから、光の酷く怯えた顔が目に入った。顔は真っ青で、今にも泣きそうに歪ませている。両肩に加わる力もかなりのものになっていた。思わず、手を離した。


「ご、ごめん」


急に視界が鮮明になる。いや、さっきまでが見えていなかったのか。やけに呼吸が苦しくて、体が熱い。頭の奥から鈍い痛みがじわじわと広がる。


「痛かった。肩、凄く痛かったよ。それに怖い顔で睨みつけられて。変だよ。今日の海くん、怖いよ。凄く怖いの」


光は肩をさすりながら、弱い口調で言葉を紡ぐ。そうだ。その通りだ。俺は、今、何をしていた。頭が冷え切って冷静になる。

そうだよ、だって光は病気なんだから。病気だから変な言動を繰り返す。そこに整合性を求めても仕方ない。脳頬だって盗痛だって光の造語なのだから。光がその意味を知らなければ、その先だって存在しない。

光の目尻が吊り上がった。俺を刺し、貫くようにねめきつける。


「謝ってよ、海くん。謝って。悪いことしたんだから。とっても強い口調で問い詰めてきて、それって凄く酷いことだよ。肩、跡になったらどうしよう。ねぇ、海くん。どうしてくれるの?どう責任とってくれるの?謝ってよ、早く」


早口のまま、なじるような口調で光が責め立てる。

豹変——が相応しいのか。激しい口調で矢継ぎ早に喋る光は、まるで別人のようで……本当にそうか?いや、違う。光は昔から怒りっぽくて……俺は何を言っている?これはなんだ。光はずっとマイペースで、怒るより怖がるような性格のはずで……。頭が痛い。痛みで思考が鈍って分からなくなる。俺を何を言っている?光はどんな性格だった?


「ごめん、光。ごめん。そんなつもりじゃなくて、本当に、悪かった。俺が悪かった。光、そんなつもりじゃなくて。俺が、全部悪いから」


頭の中の言葉が上手く整理できず、そのまま吐き出た。繰り返し謝罪の言葉を吐いて、頭を下げる。だって俺が悪いのだから。すると光が俺の頭を抱きしめた。あやす様に優しく髪を撫で付けて、耳元で囁く。


「大丈夫だよ。怖かったんだよね。何も心配しなくていいんだよ、私が許してあげる。許してあげるから大丈夫だよ。ねぇ、顔を上げて」


顎の裏に光の手が添えられて、顎を押し上げられる。光の灰色の瞳が出迎えた。その鈍い輝きは、あの時見た黒泥を思い出させた。

頭痛は苛烈さを増した。さっきまで罪悪感でいっぱいだったはずの心が、急激に冷めていく。自分で自分が抑えられない。


「……霊体マンタを見た」


今度は一瞬ではない。虚を突かれたみたいに目が見開いて、眉が上がる。歯切れが悪そうに不自然にこわばって、困惑しているだけの顔には見えない。何かを隠している。


「……それは良くないよ。良くないの。きっと抵抗力が弱まっているんだよ。そうだ。うん。きっとそう。電波が海くんの脳髄に悪い影響を与えてるの」

「ビルが消えたんだ。真っ黒になって、地中に沈んで、痕跡一つ残さず消えていった。それに中に居た人も全部だ、皆おかしくなってた。なぁ、光は何を知ってるんだよ。頼むよ。お願いだ。何か知ってるなら俺に……教えてくれ」


首を垂れて光に懇願する。光がとぼけているのか、それとも本当に何も知らないのか判断がつかない。頭がおかしくなりそうだ。光も俺も安定していない。変だ、ずっと変なんだ。頭が痛い。頭痛持ちでもないのに。そんなわけないと分かっているのに。頭の片隅では電波のせいなんじゃないかと不安に思う自分がいた。


「海くん……海くんは緑色の空を見た事ある?」

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