霊体マンタ

手を洗って、髪を軽く整えてからトイレを出た。

入り口付近で待っていると、暫く経ってからから相良が出てきた。

乱れた髪が整っていて、毛先が微かに濡れている。


展覧会は寂れた雑居ビルの地下スペースで開催されていた。看板が目立たない位置に設置されていて、一目でそこが目的の建物だとは気づけない。


「せめて入り口にポスターでも張って欲しいよな」

「同感だ。もう少し誘導を作って欲しいよ」


ビルに入り、奥へ進むと長い廊下が続いている。真っすぐ進むと曲がり角があり、その先には階段が現れた。階段を下ると、壁に張られた展覧会の案内が目に入る。是非これを入り口にも掲示してほしいものだ。


「学生二人、当日券でお願いします」


相良が受付に声を掛けた。これも奢った方が良いのかと思案したが、相良はそのまま一人分の料金を払ったので、俺も後ろに並んで一人分の料金を渡した。学生料金で1人500円だ。

会場はあまり広くない。二十畳スペースが二つあって、絵画だったりオブジェだったりが狭いスペースにせわしなく展示されている。観客はそれなりに居るが、年齢層は高め、で少なくとも同年代らしき姿は見当たらない。。


相良と二人並んで、入り口近くの展示物から順に見ていく。

最初に目についたのは絵画だ。真っ白なキャンパスにクレヨンで書かれた無数の顔が幾重に重なっている。正直なところ、絵が上手い様には見えない。落書きみたいな顔が重なっているだけで、キャンバスには多くの余白が残されている。

作品の横に設置されたプレートに作品名『嘘』と書かれていた。他の観客たちも私語を交わしているので、俺も小さな声で相良に話しかけた。


「これは……どういう意味だ?」

「さぁ?それを考えてみるのがアートだろう?」


軽い口調だが、絵画を見つめる相良の目は真剣そのものだ。俺も感化されて真面目に考えてみる。

顔が重なっているのは多面性の表れだろうか。クレヨンには幼児性のイメージがあるから、アダルトチルドレン的な意味かもしれない。余白の多さは人生の薄っぺらさとか空虚さとかそんな感じか?だめだ、結局どれも安直な発想に帰結してしまう。

今考えた事を相良に伝えると「意外と作者自身、何も考えてないかもね」と返ってきた。


それを言ったらおしまいだろ。


次はコラージュアートと呼ばれるものだった。雑誌から切り取られた写真やイラストを組み合わせた作品だ。

笑う女性の顔が鼻から上を切り取られ、その部分から草花が生えているかのに見える。後頭部の辺りから海外の新聞で作られた羽が生えていて、洒落ているのか、悪趣味なのか、絶妙なバランスを保っている。

こちらもプレートが設置されていて作品名『脚色』と書かれている。


「Tシャツとかにプリントしたら売れそうだ」

「こういうのって頭の中で完成させてから素材を集めているのか、あらかた素材になるものを集めてからパズルみたいに組み合わせているのか……どっちだろうな」


相良の言葉に影響され、作り方を想像してみる。……前者のやり方ではやっぱりあれやこれが足りないとなって、その都度雑誌を開く自分の姿が浮かんだ。


「後者だろ」

「だろうな。だが、これはイメージの押し付けになってしまうが芸術家には前者であってもらいたい気持ちがある」


相良の言いたいことは分かる。後者は賢いやり方だとは思うが、天才性みたいなものが薄れる気がした。それにしても最初は少し悪趣味に思えた草花の生え

た女も、よく見ればなんだか……。


「綺麗だな」「悪趣味だな」


声が重なった。驚いたように顔を見合わせた。すると相良が、もう一度展示品を覗き込むが、その首は次第に横に傾いていく。綺麗だと言ったが、なぜこのコラージュアートをそう感じたのか、自分でも説明できなかった。


「……感性は人それぞれだね」


それは返事と言うより、納得するための独り言みたいだった。


「こういうのが好きなら頭に花飾りでも付けてこようか」

「そういう意味で言ったんじゃない」


茶化すような相良の言動に少しムッとした。もう綺麗とか言わないようにしよう。

相良が次の展示物に進むのを追いながら、去り際にもう一度作品を振り返った。ぶれる視界で捉えた女の顔は、少しだけ光に似ている気がした。





それからの展示物も、その殆どが理解の及ばないものあった。

バナナの皮を模したオブジェ。椅子と自転車の車輪を融合させた謎の物体。足場…踏ざんの部分に棘を生やした脚立。顔全体を赤いロウの様なものでコーティングした赤ちゃんの人形——どれも奇妙な物ばかり。

つまらないわけじゃない。他ではまず見ないような造形が多く、それなりには楽しい。でもそれ以上によく分らない。特に作品によっては高額な値段が付いている物もあって(展示品はレプリカ)それが余計に不思議さを増していた。


「こういうのは研究と同じなんだよ、周防」


泥だらけの靴に土を敷き詰めて、造花を差しこんだ作品を見つめながら、相良が言った。


「説明がつくとか、何か意味があるとか、そういった考えを捨てて眺めるんだ。ブランドのコレクションだって、偶に突拍子もない、とてもマトモな感性で

は着れない衣服が出てくるだろ。それと同じだ。これまで無かった概念や発想をとにかく数出して形にする。もしかしたらそれが何処かで上手くハマるかもしれないし、全く意味のない物として終わるかもしれない。でもそれで良いんだ。大事なの試行回数、挑戦をし続ける事に意味がある」


相良の話す内容もそうだが、そのような思考を相良が抱えている事に驚かされる。物憂げに語る相良の横顔は何処か大人びて見えた。

「——そうパンフレットに書いてあった」


前言撤回。やっぱりコイツは俺と同じ芸術が分からない。


「まぁ、僕に芸術は分からないよ」

「何となくそう思っていた」

「でもね、一つだけ分かることがあるよ」


相良が一歩分近寄った。一緒に同じ展示を見ているので、体は正面を向いたままだが肩が軽く触れる。サラサラとした髪が耳をかすめて、右肩に重みが掛かる。相良の頭が俺の肩にもたれた。


「必ずしも面白いものでなくていいんだ。水族館や動物園みたいな、いかにもな場所じゃなくていい。場末のゲームセンターでもいいし、趣味じゃない展覧会でもいい。ただ公園でベンチに座るだけでもいいし、家の中でゴロゴロするだけでいい。一番大切なのは同じ時間を過ごして、同じ思いを共有する事にあると僕は思うね」


それは耳を澄ませないと聞こえないような囁き。間近に居る俺だけが聞こえた響きは、告白のようにも思えた。名状しがたい感情が込み上がって、無性に叫びたくなる。


「……俺もそう思う」


そう言ったら相良に肩で小突かれ鼻で笑われた。その反応はどっちなんだ、それも一緒に共有してくれよ。


しばらく展示を見て回った後、俺と相良は一枚の絵の前で足を止めた。

壁際に設置された絵画……と思わしき展示物は、果たして絵画と呼んでいいのだろうか。




それは白紙だった。

コピー用紙みたいな真っ白な紙が額縁に納められ展示されている。最初は奇をてらった展示物だと思ったのだがおかしな点があった。

作品の横に設置されたプレート、そこには作品名『ひまわりと私』と記されている。しかし紙にはひまわりどころか、何も描かれていない。飾る額縁も黄色ではなく銀色をしており、関係はなさそうだ。


「流石に先鋭的すぎないか?」

「……いや、トラブルがあって絵を抜いているだけじゃないのかな」


白紙を睨めつけた相良は、スマホを取り出すと作品名で検索を始める。

なるほど、元の画像を探るのは賢い手だ。だが、次第に相良の顔が曇る。


「周防のスマホでも調べてくれないか」

「…どうした?」

「いいから」


相良の申し出に疑問に感じたが、そのまま従った。


『ひまわりと私』で検索をかけると、いくつかのサイトがヒットする。どうやら80年ほど前に、フランスで作成された絵画のようだ。そのまま画像を確認しようとするが、いつまでたっても画像が表示されない。最初はそのサイトが重いのだと思い、別のサイトに入るが、いつまでたっても画像は表示されない。

地下に居るので電波の問題かもしれない。しかし別の画像であれば直ぐに表示される。なら電波は関係ないはず。


「どうだった、周防」

「……『ひまわりと私』の画像だけが表示されない」


不思議な事に、どれだけ検索をかけても『ひまわりと私』と思わしき画像データだけが表示されず、淡々と読み込み中のアイコンが回転を続けるだけだ。


「そもそもが、画像を読み込むときに出てくるマークを描いた絵の可能性は?こうやって検索するところまでがアートみたいな」

「八十年前の絵画だよ。その時にインターネットはなかったろう」


もう一度白紙の紙を見つめるが、これといった仕掛けがあるようには思えない。他の客の邪魔にならないように『ひまわりと私』から距離をとっていたのだが、ちょうど二人組の女性客が『ひまわりと私』の前に立った。

片方の女性客が顔を近づけ、白紙の紙を見つめている。しばらく眺めてから隣の女性客に話しかけた。


「色が良いわね。特にこの黄色は堪らないわ」


女性客の問いかけに、もう片方の女性客も頷きながら答える


「うん、私もそう思う。凄く綺麗」


最初は聞き間違いを疑った。相良を見ると、同じように俺を見つめていた。青ざめていた相良は瞳孔が開いて、眉頭が上がっている。きっと俺も同じ顔をしているだろう。

二人の女性が冗談を言っているようには思えない。彼女らはいたく真面目な顔で白紙を見つめている。

奥歯を噛みしめるように口を噤むんだ相良が、せわしない足取りで女性客の元に向かった。背後に立った相良が二人に話しかけた。


「すいません、この絵画についてなんですけど……」


相良が震える声で尋ねた。

いきなり話かけられた女性客は、一瞬警戒する素振りを見せるが、相良が同じ女性であったことと、俺達が学生らしい見た目だったからか、直ぐに警戒を解いた。


「この絵がどう見えたか、教えて頂いてもよろしいでしょうか?」


震えた相良の指が、白紙の紙に指し示す。顔を見合わせた女性客は、困惑しながらも優しい口調で答えた。


「どうって……ひまわりの黄金色が淡い色合いで感動しました…みたいな感じかしら」


言葉の意味を理解した瞬間、背筋が凍り付いた。目の前の絵画はどう見ても白紙で、ひまわりの形も色も、微塵も存在しない。体の先から凍てつく様な寒気が沸き上がり、脱水を起こしたみたいに喉がカラカラに乾いている。


「……白紙、ですよね?」


何か言わずにはいられなくなり、自然と口を出していた。展示品に指を指す。人差し指の先は何度見返しても、空白だけが飾られている。


しかしその瞬間、二人組の女性客の首が不自然な角度でガクンと曲がる。シンクロするように、まったく全く同じタイミング、同じ速度で、真下に向いた。その動きはまるで機械仕掛けの人形ようで、いや生身の人間なぶん余計に恐ろしい。無言のまま絵画を見つめる女性客はそのまま微動だにしない。体は互いに向き合ったまま、首だけ四十五度に曲がり絵画を見つめている。


誰かが俺の手を掴んだ——相良だ。一歩前に出ていた相良は、のけ反るようにたたらを踏んだ。猛獣と出くわしたみたいに、背中を見せないようにしながら一歩ずつ後ろに下がる。


目の前に二人組に変化はない。ただ口を噤んで真下を眺めていた。

そして——二人組の背後に、いつの間にか行列が出来ていた。

列を成す観客は、全員が直立不動。虚ろな目で、何かを見ているようでもなく、生気を感じさせない無機質な顔つきで前方を見つめている。展示物を見ているわけじゃない。誰かと話しているわけでもない。ただ意識を消失したように立ち尽くしていた。


「周防、あれ」


指の先を見る。その先にはおしゃべりをしながら展示物を眺める二人組のカップルの姿があった。雑談を繰り返しながら、ゆっくり進むカップルが行列の最後尾にたどり着くと、その瞬間に、スイッチが切れたかのように沈黙して、互いに前を向き静止した。それまであった全ての感情がはぎ取れて、笑いも、息遣いも、全てが消え失せている。列そのものが、彼らの人間性を奪い取ったかのように。

とても現実の光景には見えなかった。悪い夢と言われた方が納得がいく。

背後を振り返ると、先ほどとなんら変わらない当たり前の光景が映っていた。真面目な顔で展示物を眺める彼らは、目の前の異質な行列が見えていないかのように、反応を示さない。


「ここから出よう」


俺がそう言うと返事は無かったが手を握る力が強まった。俺を行列を見つめ背中を見せないよう、すり足で入り口の方に向かった。この展示スペースは入り口と出口が一緒になっている。周りの目をきにせず、歪な体制のまま急ぎ足で出口に向かった。

だが異常は行列だけではなかった。入り口付近に居た観客の全てが静止していた。身じろぎ一つ起こさないで、その場に佇む彼らはマネキンのように見えた。

来た道を逆走すると、受付にたどり着く。


「ありがとうございました!ありがとうございました!ありがとうございました!ありがとうございました!ありがとうございました!ありがとうございました!」


目の前を走り抜けた俺達に、受付に係員がそう繰り返しす。全く同じトーン、同じリズムでで、壊れたテープのように繰り返す。


「……僕がおかしくなったのか?」

「だとすれば俺もだよ。畜生!なんだよ……あれは」


階段を駆け上り、地上に向かう。展示スペースは地下二階だったので、駆けあがれば直ぐに地上一階にたどり着くはずだ。二段飛ばしで登っていく。持ち上がった左足が二段上の踏み板を踏むはずだった。しかし、地を踏むはずだった左足が階段に沈んだ。


「——ッッ!?」


左足がそのまま地面に沈んで態勢を崩す。咄嗟に手すりを掴み、その場に座りこむように静止した。踏み外したのだと思い、足元を確認すると、そこには黒い穴が広がってた。


穴だ。階段に穴が開いていた。しかし通常の損壊によるものではない。踏み板には沈澱したコールタールのような黒泥が広がって侵食し、静かに広がり続けている。


「…あ?」


口からは困惑が漏れてしまい、立ち止まった俺を不審に思った相良が振り返る。


「周防、それは…なんだ?」


相良の問いに俺は何も答えられない。穴に沈み、見えなくなった左足はまだ感触が残っている。宙ぶらりんになったみたいに何処にも足が付かない。

手すりを握る手に力を入れて、左足を引き抜く。意外にも、泥のような暗黒からはあっさりと足が抜けた。これと言って異常は見られない。もう一度穴を覗くが、目の奥まで穢すような真っ黒な虚無が広がっている。


「……分からない。でも多分早くここを出た方がいい」


背筋に汗が伝う。嫌な予感がした。目の前の異常に、好奇心よりも警戒心が勝つ。もう一度触れて無事でいられる保証はない。

階段を駆け上がろうとした瞬間、今度は建物全体が強い揺れに襲われる。激しい揺れが階段を軋ませ、体のバランスを崩す。立っているのもやっとで、必死で手すりに掴み揺れが収まるのを待った。


「周防!あれ!」


相良が叫ぶ。壁一面に広がる展覧会のポスターが、異様な変化を見せていた。焦げ付いたように黒いシミが広がって、壁そのものが腐食していくようだ。黒泥のような物質がじわじわと壁全体を覆いつくしていく。

此処に居たらマズイ。本能がそう告げていた。相変わらず地震は続いて、音と振動で耳が痛む。


「揺れを待ってないで行くぞ!いいな?」


相良は首を縦に振る。バランスを取るのに邪魔で、ゲームセンターで取った犬のぬいぐるみをその場で投げ捨てた。

階段を駆け上がる。踏み外さないように慎重に渡るが、揺れは収まるどころかさらに強くなっていく。揺れに同期するように、黒泥の浸食も至る所で発生し、天井や床、窓や手すりなどが少しずつ黒く染まっていく。

ようやく一階にたどり着いた。曲がり角を曲がると、あとは一直線の廊下があるだけだ。

先に角を曲がりその先を見た相良が、立ち止まり目を開いた。


「止まるな!走れ!」


俺がそう叫び、横に並ぶ。角を曲がった先には、まっすぐと伸びる長い廊下が続いていた。だがそれは異様に長い。遠くの方で光が見える。あれはきっと外の光だろうが、余りにも遠く幻のように霞んで見えた。

来た道を思い出しても、せいぜいが十五メートルくらいだ。目の前の現象を説明する理屈は一切思い浮かばない。未だに呆然としている相良の手を引いて走る。揺れは更に強く鳴り、埃が雨のように降る。真っすぐ歩くのが難しい。こけないようにするので精一杯だ。


「あ、あれ!あの光は、ほんとうに、出口なのか!」

「わかんねぇよ!でも、あれ以外、行くとこねぇだろ!」


少し先の天井がひび割れて、反射的に相良の前に手を出して、その場に立ち止まる。

突然の轟音。崩れ落ちる天井の破片が視界を塞いだ。咄嗟に相良を庇い目を瞑る。音は鳴りやんだが、相変わらず揺れは続いている。眼を開けると視界が灰色に染まっていた。天井が崩落した事によって砂塵が舞ったのだろう。もしそのまま進んでいれば二人とも潰されていた。


「大丈夫か周防!」

「俺は平気だ、お前は?」

「僕も何ともない。だが道が…」


唯一の通路は天井の残骸で塞がってしまった。崩れたコンクリートや鉄筋が入り混じった残骸は通れない事はないが、慎重にいかないと転んでケガをするだろう。揺れも未だ収まっていない。

足の踏み場を確認しながらゆっくりと残骸の上を歩く。

壁の残骸に手を当ててバランスを取りながら進む。


「くそ、こんな事ならスカートとブーツで来るんじゃなかった」

「ゆっくりでいい。俺の後ろを辿れ」


なるべく平たい場所を選んで進む。どうにか通り抜けると、再び入り口に向かい走った。

揺れは更に強くなっている。もう真っすぐ歩くことは出来ず何度か壁に体をぶつけながら走った。


周囲の風景も黒く浸食されていく。もしこのまま自分達も黒泥に侵食されたらどうなるのか、考えるだけで嫌になる。


「……ッ!!」


背後から小さな悲鳴が聞こえた。背後を振り返ると倒れた相良が足元を手で押さえている。


「相良!」

「僕は大丈夫だ!立ち止まらないで行け!」


どうやら天井の残骸と揺れでバランスを崩し、足を痛めたようだった。それでも痛みを堪え、無理やり立ち上がった相良は、片足を引きずりながら進む。

だが歩みは遅い。壁に手をつき、片足で跳ねるように歩いているが、一歩進むたびに痛みで顔を歪めている。

相良の後ろに目をやって今更気がつく。自分たちが来た道はその殆どが黒泥に染まって、曲がり角はもう見えなくなっていた。さっき通り過ぎた天井の残骸にも影は迫り始めている。

再び入り口に目を向けて、相良に目を戻す。

1人で走れば間に合うだろう。だが相良を連れては、決して__。

悩むという選択肢はなかった。相良の前でしゃがみ込む。


「乗れ!早く!」

「……僕に構うな!このままだと二人とも共倒れだぞ!!」

「ごちゃごちゃ言ってんじゃねよ馬鹿野郎!はやくしろ!!」

「……あー!、もう!!」


相良の腕が首に絡みつき、背中に重みがのし掛かる。その重みをしっかりと抱え込んで、足を踏み出した。

重い——が、関係ない。進め。

歯を食いしばり足を回す。揺れのせいでバランスがとりづらい。まっすぐ走っているはずなのに、体は左右に揺れて、勢いのままに左の壁に肩をぶつけそうになった。


両手は塞がっている。防ぐ術はない!身を固めて目を閉じた__だが、衝撃は無い。相良だ。相良は腕を伸ばし、壁との接触を防いでいた。

とにかく一心不乱で走り続けた。視界の隅では黒泥が蠢いて、それでも気にせずに走り抜ける。足は重いし胸は苦しいし、体中が酸素を求めてSOSを叫んでいる。それでもとにかく走り続けた。全力疾走のせいで体は限界に達していた。酸欠で視界は霞むし、頭も上手く働かない。吸い付く様な呼吸を繰り返し足だけを前に出す。ただ足を前へ__。


白い光だけが見えていた。背後は振り返らない。


視界の全てが強い光で包まれた時、それが入り口にたどり着いた証なのか、それとも酸欠による錯覚なのか、判断がつかなかった。


霧のようにぼやけた視界が、少しずつ澄んでいく。

目の前には、夕暮れに染められた見慣れた街並みが広がっていた。足を止め、背後を振り返る。

黒泥は入り口を完全に覆いつくしていたが、それ以上外に広がる素振りを見せない。まるで外の世界に恐れているように、ビルの中に閉じこもったままだ。

膝に手を置いて呼吸を整えると、体が急に軽くなった。相良が背中から降りた事に気づく。

その場に倒れ込むように座った。必死で呼吸を繰り返し、酸素を体に取り入れる。


「周防、大丈夫か」


相良が手を貸してくれる。足が重くて直ぐに立ち上がれなかったので、相良の体に背中を預けるように上体だけ起こした。

揺れは既に収まってたが、唸るような轟音は未だ鳴りやまない。

次の瞬間、ビル全体が黒く染まり始めた。その漆黒は光を飲み込んで、やがてビルそのものが黒々とした巨大な長方形に変わる。そして凄まじい速度、地面に吸い込まれ沈澱していった。


ごりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅり

歪な音を立ててビルが沈んだ。そこにビルがあったという形跡を一つも残すことなく、完全に姿を消す。元の場所には、ぽっかりと空いた空き地がビルとビルの間に残るだけだ。


「……何が、起きた?」


首を背後に回し相良を見ると、無言の相良は黙って上空を見つめていた。

放心したように口を開け、ただ黙って空を見上げている。

焼け爛れたような真っ赤な空に、透明な何かが浮かんでいた。

その存在は、周囲の景色が歪ませるように揺らぎながら、徐々にその輪郭を露わにしていく。

輪郭の端が緑色に変色した。すると変色が感染したように全体に広がり、透明だったソレの形状を浮かび上がらせた。





それは緑色に輝くマンタであった。

空を泳ぐように胸びれをたゆたわせ、お腹にある鰓孔をパクパクと開かせながら、悠然と漂っている。数秒の回遊の後、その姿は透明になり紅の空に消えた。


消えたビルと空飛ぶマンタ。一体何が起きたのか、それが何を意味するのか俺には何も分からない。全てがあまりにも現実離れしていて、茫然自失と何もない空を見ていた。それでも思考を現実に引き戻せたのは、透明なマンタに心当たりがあったからだ。

空に浮かぶ透明なマンタ、それなら知っている。彼女の話を理解するために必死で覚えた設定、彼女だけの世界の話。


「霊体マンタ……」


でもそんなわけはない。彼女だけが浸っている虚構の話なのだから。霊体拡散電波もゾンビ人間も全部でたらめの存在。

でも、もし、本当だとしたら。先ほどの存在が本当に霊体マンタなのだとしたら。




この世界で正気なのは彼女だけなのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る