アンブッシュ

世界が茜色に燃えて、地面に長く伸びる自分の影が目に入る。


ずっと俯いたまま歩いてたせいで首が重い。顔を上げると、一挙に広がる世界が眩しく輝いた。同じ姿勢で血が溜まっていたのか、急にクラっとくる。その場に座り込んだ。一度腰を下ろすと、しぼむように力が抜ける。薄い倦怠感が膜のようにまとわりついた。お尻だけ浮かすように座り込むと、膝の前で両手を組んで首を垂れる。


光の言動がおかしくなったのは知っていたのに、でも心の何処かでは同じ価値観、同じ感情を共有しているんじゃないかと思っていた。電波とか儀式とか言ってるけど、そのじつ俺の事が好きなんじゃないかとか——そんな淡い希望を抱えていた。



恥ずい。クソダサい。きも!俺きも!無理無理きついきついきつい。死ねよ殺してくれ。あ~無理だってマジで。だっさ、全然お前の事好きじゃねぇ~から。うわー、うわうわうわ無理無理、本当に殺してくれ、いま!多分いま全身が真っ赤になっている。赤い丸が地面に転がってる。巨大梅干し。性欲を抱えている巨大梅干し。うわうわ無理だって。はやく腐って地面のシミになってちまえ。


感情が津波のように押し寄せて、全然引いてくれない。心はキャパオーバーして一杯一杯なのに、冷静な自分も居るのがことさらにキモイ。

俺は心のどこかで安堵している。


光が変で良かったと。


俺への好意ではない事が分かった瞬間、きっと俺の愚行の意味を光は理解していない。光の世界では何も変わっていないのだ。

最悪だ、キモすぎるよコイツ。この期に及んでまだ金曜日を期待しているんだお前は。


おぞましい。愛と性欲を誤認してんだよお前は。

無性に叫びたくなった。でも恥ずかしく寸前でストップがかかって、小さな息みたいなだけが出た。叫ぶことも満足に出来ないのかお前。


「……何してんの?」


聞きなれた声がした。一瞬光の声と勘違いして心臓が飛び跳ねた。すぐに別人の声だと気付いたが、それでも見られたくない相手には変わらなかった。


頭を下げたまま弁明の言葉を考えた。俺は今道の端でうずくまっている。一番適切なのは体調不良だろう。急な腹痛という事にすればいい。顔を上げれば、顔に影がかかったおさげ髪の女が居た。余裕綽々、自信満々という言葉を体現するようなオーラをまとった彼女がそこに居た。自転車から降り、手で支えながらこちらを見下ろす相良が居た。


「……フラれた?」


多分、顔に出てはいなかった。相良の一声で全ての感情が凍り付いたから。

他人に言語化されると、失敗を突きつけられたような気持ちになる。


「俺キモすぎ」


『お腹痛い』って言おうとしたのに六文字全部間違えた。教会に懺悔室が存在する理由が分かった気がする。


自転車のスタンドを下ろしその場に停めた相良は、俺と同じ目線まで腰を下ろした。影で隠れた相良の表情がよく見える。これまでにないほどニヤニヤしている。


「フラれたんだ。キスまでしてたのに」

「フラれてはない。でも好意じゃなかった」


相良が不思議そうに首を傾げる。


「遊ばれてたって事?」

「分からない。でも、それも違うかも」

「詳しく」


価値観がバグった幼馴染と毎週イケない事をしています。俺は止めるべきなのに、自分の欲望を解消するために止めませんでした。これをそのまま伝えるわけにはいかない。そんなに自分の尊厳が大切か?自己中野郎。


「……身体的な距離感が近い。みたいな」


相良の視線が冷ややかなものに変わっていく。軽蔑の色が明らかだった。


「身体的な距離の近さを悪用して性行為しようとしたら拒否られて傷心中!?いくら何でも男として情けなさすぎやしないかい!?」

「そこまでじゃない!!」


思わず否定したが、言われてみれば確かにその通りな気もしてくる。いや……その通りだ。


「……間違ってない……かも」

「だ、だ、だっさぁいなぁ!!フッフッヒヒ、ヒッヒ、いくら何でも……男の子すぎって!ヒッヒッヒ、それで道端にうずくまって……い、息できない」


相良が腹を抱え引き笑いを起こした。普段の凛とした彼女からは想像もつかない変な笑い方で、痙攣を起こしたようにブルブル震えている。その異様な様子に驚き、恥ずかしさが少しだけ和らぐ。


「……人の恋路を笑うなよ」

「だって……はぁ、ヒッヒ。だって笑うだろ、それ。あー、久しぶりにちゃんと笑ったかも」


笑い疲れた相良は、口元を手で押さえて、顔を上に向けたり下に向けたりしている。

二十秒くらいしてようやく落ち着いたようだ。手を離すといつもの冷静な相良に戻っていた。


「それで?もうその子には会えなくなっちゃった?」

「いや、向こうには何も伝わらなくて、それでそのまま。だから……好意がないまま、俺とキスしてた事だけ分かった」

「それで傷ついちゃったか。いやぁ、思春期だね」

「お前だって思春期だろうが」

「……そうだね。でも周防みたいな失敗はしないだろうな」

「たいそう自信がおありで」

「勿論。自分の価値は自分が一番分かっているからね」


胸を張る相良を見て、羨ましいと思った。俺は多分そんなこと言えない。


「これから周防はどうすんの?いつか報われる日を信じて巡礼の旅を続けるのかい?」


その言い方だと一生報われないみたいだ……いや、相良は本当に思っているのかもしれない。


怒りは湧かなかった。と言うより感情が閾値を超えて鈍感になっているようだ。恥ずかしくなって、怖くなって、哀しんで、ちょっと安心して。感情がジェットコースターのように揺れ動いて、疲れ果てている。

俺がこれからどう光と接していくのか。これはきっと何も変わらない。


「続ける……それでも俺は続ける」


俺の返答を聞いた相良がつまらなそうな顔をする。無策に失敗を繰り返すだけの馬鹿とでも思っているのだろう。


「……一途だね。ちょっと引く」


そう言い捨てて、相良が立ち上がった。俺もつられて立ち上がる。

そういえば、どうして相良がここに居たのだろう。彼女の家はこの辺りではないはずだ。相良が自転車のスタンドを上げた。何も言わずに自転車を手で押し始める。たまたま進む方向が家と同じだったので、そのままついて行く事にした。


「……相良って何でここに居たんだ?家、遠くだろ」

「……別に、この辺りに用があっただけ」


そっけのない返事。内容を言わない辺り、詮索されたくないんだろう。薄明の空に薄いオレンジ色が光線のように伸びている。相良の横顔が橙色に染まっていく。遠くでカラスが鳴いて、一日の終わりを告げているみたいだった。

曲がり角に着くと、俺の家とは反対方向に相良が進もうとした。


「俺の家、こっちだから」


俺が家の方に指を指して「じゃあな」と言おうとしたが遮られる。


「待って」


自転車のスタンドをもう一度下ろし、こちらを向いた。


「…どした?」


相良は何も言わない。口元に手を添えた相良は、周囲をキョロキョロと見渡した。

俺も一緒に首を動かしたが、周囲には誰も居ない。

それだけじゃ飽き足らないのか、空や地面など上下左右360度隅々まで確認するかのように動かしている。一体どうしたというのか。首の体操みたいだ。ようやく動きを止めた相良と目が合う。ぼそっと相良が何かを呟いた。声が小さくてうまく聞き取れない。初めからこちらに聞かせる気がないような声量だ。


「ちょっと目、つむって」


今度は聞こえる大きさだ。色々勘ぐる気持ちはあるが、素直に従い目を閉じた。

五秒くらい経過して……しかし何もない。


目を開けてようとした瞬間、知っている感触が口に触れた。一瞬だった。多分1秒くらい。でも、それだけで分かった。暖かくて柔らかい唇の感触が焼き付いて離れない。


あぁ、相良がキスをしてきたんだ。最初はただそう思った。


目を開ける。

視界の中心に表れた相良は無表情だ。いや違う。ほんの少しだけ表情が強張っている。


「理想の身長差は12cmらしいけど……やっぱり差は0の方がやり易いな」


それだけ言うと、自転車のスタンドを上げて乗りこんだ。


「それじゃあ」


振り返ることなく、軽快にペダルを漕ぎ、彼女は消えていく。茫然として、暫くその場に立ち尽くした。


——相良とキスをした。

それだけが事実として置き去りにされている。


『少なくとも僕なら、何とも思っていない相手とキスはしないけど』


相良の言葉を都合よく思い出した。


『……今日は金曜日じゃないよ?』


警鐘のように光の言葉が残響する。









なんだよ、これ

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