冷や水

周防の彼女ってクラスにいる?」


掃除の時間。空き教室の中で二人きりになったタイミングで相良がそう聞いてきた。

これがもし漫画だったら、口の中に縦線を引いてだけ描写されそうな、白い歯を見せた悪意のある笑顔だった。


「……彼女じゃない」

「なるほど。じゃあ校内?」

「彼女じゃない」

「う~ん。学校は違うけど中学の同級生とか?」

「……だから彼女じゃないって」

「当たりか。中学からね……ませてんなプレイボーイ」


指を鳴らした相良は、両手で持った箒を杖代わりにして柄に顎を置いた。肩を撫でる二つに結んだおさげが揺れる。


「いいねぇ、青春だ。独り身の僕たちを置いて、周防はそうやって青春を謳歌するんだ。それでクリスマスが来ても『え、いや普通に用事あるけど』って言って蜜月の時間を過ごすんだろ。普通に用事ってなんだろうな、普通にって。用事があることが普通と認識する、傲慢な人間と化していく同級生を止められないのは歯がゆいよ」

「…相良ならやろうと思えば彼氏の一人や二人くらいすぐだろ」

「それって誉め言葉?それとも慰め?」

「率直な感想」

「僕の愛は妥協でくれてやるほど安価な物ではないね。一つ一つ職人のハンドメイドだ」

「一つ一つなら心が二つあることになる」

「そういう揚げ足取りは彼女さんにはやらない方がいいよ。法の拳が出そうになる」

「法の拳ってなんだよ」

「……セクハラパワハラお気持ち表明ナックル?」

私刑リンチじゃねぇか」

「自力救済も出来ない、か弱い美少女ではないのでね」


誰もお前の事を弱い女なんて思ってねぇよ。

そう言い返そうと思ったが、また何か言い返されるのが目に見えていたので、黙っておくことにした。


相良は自他ともに認める美少女だ。いや、美少女というより美人だな。

女にしては高い身長と、整った容姿。そして“僕”という、普通の女が使ったら扱いがきわどくなる一人称を使いこなし、勉学にも運動にも優れるその様はまさしくクラスの王様…いや、王子様だ。


「さっき僕が彼女さんって言った時、否定がなかったね」

「会話の流れで無視しただけだ」

「ふ~ん。まぁいいや」


クルリと背を向けた相良が掃除を再開する。俺も雑巾がけを行う。手でやると膝が汚れるので、足で踏んだ雑巾で床をかける。

先生に見られたら説教ものの禁じ手だ。


「足で拭いてる姿って滑稽に見えるな。鳥の求愛ダンスみたい」

「優雅さと利便性はトレードオフなんだよ」

「でもダサいよ」

「……」


膝をつき手で雑巾をかける。別に気にしてるわけではないが、無理して貫き通すほどのこだわりを雑巾がけに持ち合わせていない。


「素直じゃん」

「現代っ子は臨機応変なんだよ」

「素直じゃないなー」


早めに掃除が終わらせてしまったせいで、少し時間が余った。待ってましたと言わんばかりに、相良が話題を掘り返してくる。


「彼女の写真見せてよ」

「撮ってない」


相良の眉が下がる。呆れ顔を浮かべる。


「それ本当に付き合ってる?」

「だから付き合ってないって言ってるだろ」


親指と人差し指の間に顎に置いた相良が、考え込むように視線を斜めに向けた。先ほどの会話から何を考察する気なんだろうか。言葉通り受け取ればいいものの。しかし、意外にも相良の回答はストレートだ。


「もしかして、本当に付き合ってない?」

「だから何度も行ってるだろ」

「でも好きだから足繁く会ってるってこと?」

「……」

「一途だなぁ、すごいすごい」


改めて他人から指摘されると、ものすごく恥ずかしい。相良が思っているような綺麗な感情で動いているわけじゃない。それなのにズキりと胸が痛んだ。良いように解釈されてる気がして、罪悪感がひしひしと湧く。


「相良さぁ……付き合ってもないのにキスする人ってどう思う?」


察しの良い相良なら、多分この一言でおおよそを把握してしまうだろう。

でも、それでも誰かに聞いてみないと手詰まりだと感じていた。一人で抱え込んでいたら、このまま何も変わらずズルズル引きづってしまう未来が見える。口にしてみたら、これがどれほど恥ずかしい相談か痛感する。

相良はしかめっ面をし、間を空けてから答えた。


「遊ばれてる」

「……それ以外だと?」

「弄ばれてる」

「他に」

「普通に考えたら…アプローチを仕掛けられている。ヘタレで鈍感で素直じゃない周防にも分かりやすく形で」


相良の言葉に、俺は頭を抱えてしまう。その可能性なら腐るほど考えた。

でも、どれだけ内省を重ねても答えは出てこない。答えは光の中にしかないのだから。


「困ってるなら、本人に聞いたら?」


それが出来ないから困っている、とは言えなかった。もし口にすると相良に聞いた意味がなくなる気がしたから。


「少なくとも僕なら、何とも思っていない相手とキスはしないけど」


相良が声が開けた廊下に反響した。それが全てだと言わんばかりに。









「後は残った数字を公式に当てはめれば、答えは出るよ」

「……それは、どの公式を当てはめれば?」


クーラーでキンキンに冷やされた部屋は、夏だと言うのに非常に涼しい……むしろ寒いぐらいだ。

白い長袖パジャマに水色のカーディガンを羽織った光にとっては、この室温がちょうど良いのだろう。

一方で、制服の半袖シャツだけの俺にはかなり厳しい。

光の部屋で彼女に勉強を教えて貰う。それはもはや恒例行事になっていた。テストが近くなると、いつも光に頼らせてもらっている。


カーペットの上に置かれたローテーブルに教材を広げ、光が俺の真横に座っている。

肘が軽く触れるくらいの距離間。これまで何度もこの距離間で勉強を教えて貰っているが、未だに慣れない。肘と肘が触れ合った時の温度とか、微かに匂うシャンプーの匂いとか、全てが狂おしい。


「人に教えるのって難しいね。自分が勉強するのとは大違い」

「……度々ご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません」

「迷惑だなんて思ったこと無いよ。それと、私はうみくんに謝って欲しい訳じゃないうよ」

「……いつもありがとう、光」

「ふふ、どういたしまして」


光はスイレンの花のように清らかな笑みを浮かべる。眼が焼けた、その笑顔は俺には眩しすぎる。思わずに緩みそうになる頬を、必死で押さえた。

今日は金曜日じゃない。だから儀式はなしだ。それが少し寂しいと感じてる自分が情けない。


「うん、それで正解。これで数Ⅰは問題なさそう」

「頭が数式で埋め尽くされてる。数学は満点行けるかも」

「後は英語だね。それと暗記科目は教えられないから、ちゃんと勉強してね」

「詰め込み教育を憎い。この国の教育システムを変える必要がある」

「変えるにはもっと勉強しなくちゃいけないよ?」

「構造上の欠陥だ。勉強を苦に思わないような者でないと上に立てない。だからいつまでたっても改善されない」

「じゃあ海くんが上に立ってよ。良い国作ろう海くん幕府だよ」

「それだと海幕府だろ」「そう?」「それにパチンコみたいで嫌だ」「どこが?」


使い過ぎで脳みそは熱を内包している。冷却モードに入ると、背中から地面に倒れ仰向けになる。カーペットのふわふわした起毛が首の裏を撫ででむず痒い。


「休憩にしよっか。集中力も切れるよね」


光も俺と同じように横になった。俺のすぐ隣で、こちらを向くか形で。仰向けになった俺の胸に、光の腕がそっと置かれた。抱き着く一歩手前の距離感で、添い寝をする光が目を合わせてきた。


「……なに?」


光の顔が間近まで来ている。息が止まりそうになった。


「なんでもない」

「なにそれ?」


視線を天井に向けた。シミ一つない綺麗な天井では何を数えればいいのか分からな。平常心を保つために、何か別の話題を考えた。何か……何かないか。あぁ、そうだ。丁度いいのがある。


「前言ってた本、読み終わった」

「読んだの!どうだった?」


光はパッと顔を輝かせると、勢いよく体を起こした。そのまま俺の体に馬乗りで乗っかる。

……どうやらこの選択は悪手だったようだ。俺を見下ろすから光は、今か今かと感想を待っている。逃げ場のないこの状況に、鼓動が早まった。


本の内容はこうだ。


高校時代にタイムスリップした主人公が、当時の後悔を解消しようと行動に移すが、過去とは全く違う出来事が多発して上手くいかない。実は主人公がいたのは過去の世界ではなく全人類が見ている共通の走馬灯の世界だったのだ。星が終焉を迎え、全人類が同じ走馬灯を共有したことによる疑似タイムスリップ。

ラストは少しずつ人が消失する走馬灯の世界で、それでも愛を誓いあう主人公とヒロインを映し出して終わる。


「設定が珍しくて面白かった」

「他には?」

「物語の一番の核をネタバレされてなかったら最高だった」


本当は物語をネタバレされても楽しめるタイプだ。ただ光の困る顔が見たくなったから、つい嘘をついた。


「ご、ごめんね。それでそれで!他はどうだった?」


自分の感性を言語化するのは得意じゃない。これ以上感想を求められても、俺から出てくる言葉は小学生みたいな陳腐な物しか出ないだろう。それでも、なんとか脳を振り絞ってそれっぽく答えなければ。


「え~と、バットエンドだなって」


その瞬間、光の表情が僅かに変わった。その微妙な変化に気づけてしまうのは、これまで長い時を彼女と過ごしてきたからだろう。僅かに影が差した。


「……そう?私にはハッピーエンドに思えたよ」

「主人公たちが走馬灯の中で救われたところで、最後に星が滅ぶならバットエンドだろ。愛情パワーみたいなので星の終焉が止められるなら話は別だけど」


「違うよ」


光の口から、とても光のものとは思えない低い声が漏れた。能面のように無機質で少し怖い。


「どうにもならなかった二人が、最後は報われたんだよ。終焉がすぐ側まで近づいていようが、二人の心が繋がったのは事実でしょ。未練はあるかもしれないけど、きっと悔いは無かった筈だよ。だから最後はハッピーエンド」


少し強い口調で光は力説する。その勢いに少し驚くが、それぐらい物語が好きなんだろう。

光を否定するほど、あの本に思い入れはない。ここは話を合わせようと思った。


「悪かった。そこまで考えてなくて、結構適当に感想言ってた。確かにそう言われてみれば……ハッピーエンドだな」

「そうだよ。どんな最後でも、その最後まで一緒にいられるなら、その決断に互いが至ったなら……それはきっと幸福なことなんだよ」


そう言いながら、光はそっと俺の胸に顔をうずめた。ほんのりとした熱が胸に伝わる。制服の薄い生地越しにじんわりと染み込む感触がリアルで、息が詰まりそうだ。


ここまでくれば、もしや光はわざとやっているんじゃないかと勘繰ってしまう。


『普通に考えたら…アプローチを仕掛けられている。ヘタレで鈍感で素直じゃない周防にも分かりやすく形で』


相良の言葉が胸の奥で反響した。これはもう、そういう事だろ。一度沸いた欲望は際限なく膨張する。

光の白い髪にそっと手を伸ばした。指先が髪を撫でる。ゆっくりと、表面だけを優しくなぞる様に。指先に細い髪が絡まる。自分の髪とは全然違う。一本一本が絹のように艶やかで生きてるみたいで、ずっと触れていたくなる。光も拒絶しているようにも見えない。指が滑る度に光の目が少しだけ細まる。まるで猫が気持ちよさそうに喉をならすような、そんな仕草だった。


「……どうしたの?」


光の声掛けに思わず手を引っ込みそうになったが、意を決して続けた。ここで踏み込めなかったらずっと同じ日々が続くだけだ。

片手を光の後頭部に回して、自分から顔を近づける。光の灰色の瞳に自分の姿が映っている。大きく開かれた瞳には、笑えてしまうほど硬い表情の自分が写った。浅く息を吐いて、表情を整えた。少しずつ、だが確実に光との距離を詰めていく。つい目を瞑ってしまう。

唇に感触があったでも、それは違った。これまでの儀式で感じた感触とは違っている。柔らかいけど…唇のそれとは違う感触。

眼を開けると、光の指が俺の口に触れていた人差し指を上に向けて間に挟まれている。俺達の間に立ちはだかる様に。

背筋が凍り付いた。取り返しのつかない事をしてしまったのだという自覚が、重しのようにズドンと落ちてきて潰されそうになる。視界が揺らしで、光の顔を直視できない





「……今日は金曜日じゃないよ?」


光の口調は淡々としていて、怒りも拒絶も感じなか。あるのは純然とした疑問だけ。

キスではなく『儀式』——光の認識ではそうでしかないのだと、今更ながら理解する。


「……ぁ、そう、そう…か」


胸の奥で積み上げてきた何かが崩れ落ちる音がした。自分の愚かさに、筆舌に尽くし難い嫌悪感が押し寄せる。とんだ勘違い野郎だ。気持ち悪い。性欲でしか物事を考えられない色情魔。


「そうだよ。勉強で頭いっぱいになって忘れちゃった?」

「……そうかも、しれない。駄目だな。俺」

「?……曜日を間違えただけで落ち込みすぎだよ」



無垢な瞳が、深く奥まで抉ってくる。

光を視界に捉えられない。

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