第2節 忘却の海と記録の巫女
連れてこられた場所は、静かすぎるほど静かだった。
「忘却の海」と呼ばれるその神域は、アルマディナの奥――王宮にも近いはずの場所にありながら、誰も足を踏み入れようとしないという。地面は光を帯びた水晶でできていて、足元には薄く水が張っていた。まるで浅い海の上を歩いているような感覚。水面は揺れず、鏡のように空間を映している。
「ここに“記録されなかった記憶”が沈められているの」
リュミエラが言った。彼女は靴を脱ぎ、裸足で水の上を歩いている。
その姿は、どこか儀式のようにも見えた。
「記録されなかった……って、どういう意味?」
「契約が失効した者、名を失った者、あるいは――記録を意図的に消された者。この海には、そういう“存在の痕跡”が眠っている」
言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。けれど、ふと視線を落とすと、水面に――知らない顔が映った。子どものような小さな影。若い兵士のような姿。老人の背中。見覚えはないのに、なぜか胸が苦しくなる。
「……これ、誰……?」
「かつて、確かに生きていた人たち。でも、今はもう記録されていない。ラストレアでは、“記録されない者”は、存在していないのと同じ。だから、こうして忘却の海に“沈められる”の」
それは、記憶の墓場だった。
リュミエラは、ゆっくりとしゃがみこみ、水に手を浸す。その手から、微かな光が走り、水面が揺れた。
「……どうして、あなたはここに来られるの?王族なの?」
わたしが聞くと、彼女は少し間をおいてから、口を開いた。
「“だった”のよ。今はもう、記録には載っていない。わたしの名は、この王国の公式な記録から――削除された」
その言葉は、あまりにも静かで、あまりにも重かった。
「でも不思議ね。こうしてあなたに出会って、こんな場所に来てると、少しだけ思うの。記録されていないからこそ、触れられる記憶もあるのかもしれない、って」
彼女の手が、水面から何かをすくい上げた。それは、小さな貝の欠片。淡い光を帯びていて、表面に文字のような模様が刻まれている。
「これは、“記録されるはずだった名前”。今は消えてしまったけど……まだ、完全に消えたわけじゃない」
彼女はその貝を、わたしの手の中にそっと置いた。
「あなたの中に、“名前を宿す余地”があるなら。きっと、誰かの声を思い出せるかもしれない」
わたしは、手のひらの貝を見つめた。まだ温もりがある気がした。誰かの、名も知らない声が、そこに息づいているようで――
「名前って……本当に大事なんですね」
「ええ。でも、時には名前に縛られすぎると、本当の自分を見失うこともある。――わたしがそうだったから」
リュミエラは背を向け、また静かに歩き始めた。鏡のような水面に、彼女の姿だけが、まっすぐ映っていた。
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