第3節 影をまとった少年
名前が与えられてから、世界の色が変わった――そんな気がした。
“シズク”。
たったそれだけの音が、心の奥に深く染みこんで、何もなかった輪郭に、静かに、でも確かに形を与えてくれる。視界が澄んでいく。光が、輪郭が、空気さえもくっきりと。――そして、そこに“いた”のだ。
わたしのすぐそばに、誰かが立っていた。さっきまで、声だけだった存在。目の端に揺れていた、ぼんやりとした“何か”。今は、はっきりと見える。銀の仮面。深い藍の外套。黒と金が混じるような、不思議な目。
「……あなたは……書記?」
わたしの声は、自分でも驚くほど静かだった。仮面の人物は、ゆっくりとわたしの方に顔を向けた。口元は見えないけれど、その目がわずかに細められる。
「ようやく、見えるようになったか。そうだ。わたしは“書記”だ。
名を得た君が、この世界に踏み込んだ証拠でもある」
「“書記”……あなたは、この国の……?」
「記録の管理者だ。契約と名、そのすべてを読み、そして見届ける。だが、わたしに君を記すことはできない。君はまだ、契約の外にいる者だから」
契約の外
その言葉は、どこか自分の胸に引っかかった。
「では、問おう。名を得た少女よ。君は、ここで“記録される”ことを望むか?」
契約――それは、存在すること。誰かに覚えられること。数秒の間をおいて、わたしは小さくうなずいた。
「ならば、“記録の泉”を訪ねるといい。君の存在が、この王国にどんな“影”を落とすか――興味深い」
書記はふっと一礼し、そして身を翻した。その言葉と共に、彼の姿は音もなく水に溶けた。まるで初めから存在しなかったかのように。
「……なんだったんだろう……」
ひとりごちたその声に、今度はすぐさま返事がきた。
「書記ってやつは、いつもあんな調子だよ。詩人か預言者か、ってくらい回りくどい」
ぱちん、と指を鳴らす音。振り返ると、そこに少年が立っていた。年はわたしとそう変わらない。深銀の髪と、明るい目。頬には水の文様のような刻印。着ている服は淡いブルーで、まるで水の揺らぎそのもののようだった。
「よう。君、名をもらったばっかって顔してるね」
「……そう、かも」
「やっぱり。“はじめて”の顔って、すごくわかりやすいから」
その口調は軽く、笑みさえ浮かべているのに、その瞳の奥には、まるで記録されていない“何か”が揺れていた。
「ぼくはフラウ。……まあ、“記録上の名”はそうなってるけど、呼びたければ好きに呼んでいいよ」
「わたしは……“シズク”。仮の名だけど」
「いい名前だ。音に柔らかさがある。君にぴったり」
ふっと微笑んで、彼は歩き出す。わたしの隣を通り過ぎながら、片手を軽く振った。
「さ、行こうか。“契約の泉”へ。
君がほんとうに“存在する者”になるために、ね」
その背を見ながら、わたしはふとこの少年の笑顔に、どこか“記録にない影”を感じた。
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