第2節 鏡の向こうの風景

「名を持たぬ者が、この地に立つとは……実に、奇異な記録だ」

仮面の人物が、低く、どこか詠うように言った。その声はまるで水の中に沈む鐘の音。どこか懐かしく、でも言葉のひとつひとつが鋭く胸に刺さる。

「……あなたは、誰?」

わたしは問いかける。けれどその声さえ、水の中に吸い込まれて消えそうだった。

「わたしは“書記”だ。この世界の記録を読む者。だが、君のような“名を持たぬ者”は記録されない。だから君は、“いない”のと同じ。……少なくとも、この王国の目には…ね」

静かに近づいてくるその人は、銀の仮面に、深い藍の外套を纏っていた。顔は見えないが、目だけが印象的だった。不思議な色――光を吸い込むような黒と、淡くにじむ金の双眸。

「では、問おう。“名のない少女”よ。君は、なぜこの場所へ?」

答えられなかった。

だって、わたし自身がそれを知らなかったから。

 名前も、家も、記憶も――なにも思い出せない。ただ、あの扉の奥に“呼ばれた”気がして、足を進めただけ。

「……わかりません。ただ……気がついたら、ここにいたんです」

「なるほど。記録の空白、というわけか。ならば」

 仮面の人は、ふっと目を細めると、手をゆっくり伸ばした。

 指先には、小さな光――まるで星のかけらのような光玉が浮かんでいる。

「君に、仮の名を与えよう。記録されるべき名ではないが、呼びかけるための“音”として」

 光が、わたしの胸元に触れた。


「――シズク」


 その瞬間、水の中の空気が震えた気がした。わたしの心に、かすかに何かが落ちてきた。それは、言葉。意味。そして、なによりも――“わたし”という存在の輪郭。

「……シズク……それが、わたしの……名前?」

「仮のものにすぎない。だが、名があれば記録される。記録されれば、存在できる。」

「君は今、この世界に“入った”のだよ。名を持つ者としてな」

 わたしは――シズクは、その言葉をただ、胸に抱くしかなかった。

名前があるというだけで、こんなにも確かなものになるなんて。世界は、鏡のように歪んで、でもどこか温かく、わたしを映していた。

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