影の国の迷い子
@kakukatoDess
第1章 沈む図書館と海の書架
第1節 海辺の町の図書室、旧水路の奥で
午後四時。潮の匂いが、開け放たれた窓からゆるやかに入り込んでくる。
海辺の町にある古い図書室。その奥-立入禁止の札がかかった螺旋階段の下には、誰も知らない小さな扉があった。
わたしは、その扉の前に立っていた。なぜここに来たのか分からない。でも、何かが、わたしをこの場所へと導いた気がした。
「……変だな。昨日までは、ここってただの物置だったはず……」
かすかな声が、誰の耳にも届かないようにこぼれ落ちる。
扉は、まるで海の底から引き上げられたように濡れていた。
塩気を帯びた空気、珊瑚のような模様、そして-扉に触れた指先に、薄く張られた水膜の感触。
そのときだった。
-開けて。
誰かの声。いや、“音”だった。水の底で震えるような、やさしい息遣いのような。わたしの心の奥に、しずかに、でも確かに届いた。
「……だれ……?」
扉は、勝手に開いた。ゆっくりと、しかし迷いなく。鍵など、最初から存在しなかったかのように。
その向こうには--光が、あった。水面のきらめきに似た、けれどもっと深い場所から差し込むような、青白い光。足が、自然とそちらへ向かう。吸い寄せられるように、一歩、また一歩。
そして、世界が――沈んだ。
目を開けたとき、わたしは水の中にいた。けれど、息は苦しくなかった。天井は空ではなく、岩盤のドーム。その表面に、星のような光が瞬いている。足元に広がるのは、見たこともない都市だった。
珊瑚で組まれた塔。貝殻の橋。光を帯びた水晶の道。ゆらめく水の中を、人々が歩いている。服が水草のように揺れ、髪にはガラスの装飾がきらめいていた。
幻想的で、美しくて、でも、どこか――こわい。誰も、わたしを見ていない。まるで、ここにいないものとして扱われているようだった。そのとき、背後から声がした。
「ようこそ、“記録にない者”よ」
振り返ると、仮面をつけた人影が立っていた。深い藍色の外套をまとい、水の揺らぎの中にすっと佇んでいる。
「ここは、ラストレア。名のない者が歩くには、あまりにも静かすぎる場所だ」
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