新社会人へのアドバイス

惑星ソラリスのラストの、びしょびし...

第1話

 東京の朝のラッシュはパネェ。

 とキミが言うのでまあ入社初日、記念すべき新社会人の第一日目だし、かなり早めにアパートを出て駅へ向かう。まあ早く着き過ぎたら会社近くのスタバに入って優雅に一服するのも何か「ぽい」しアガるよね、と駅に着き、TOKYOのせっかちな人の流れにあわせ改札を抜けて(勿論こちらではICOCAでは無くてSUICAなんだぜ)ホームへと上がると嘘やんけ、愛・地球博? というくらいの人だかりだ。黒い・白い・灰色の・濃紺の・茶こげたスーツにくたびれた背中、煤けた革靴、大屋根リングみたいにスカした頭頂部。それら無言の徒がぎちぎち音立てホーム上を埋め尽くす。マジか、マジかと僕は狼狽え、しかし彼らのなす列の最後尾に並ぶほかない。すえたにおいがする。誰かの頭頂部か、耳の裏か、口臭だろうか。唖然愕然呆然と電車を待つ間にもホームには新たな人員がとめどなく供給され僕は心太よろしく背中を押されそして誰かの背中を押す。舌打ちがして歯軋りもしくは唸り声。

 あ? ひょっとして、これがあと四十年以上続くのか。週5で? マジで? マジか。

 入社1日目だというのに何だかひどくユーウツな気持ちになってしまう。マリッジブルーだ。空も灰色や黒のコントラスト。何ならそこからぽつ・ぽつと不吉な雨が降ってくる。幸先悪い。バックれたろか。そんなことを考えながら、ふと顔を上げると、くたびれた・使い古された・または味のあるスーツに混じって、ぴかぴかの・皺一つない・おニューのパリッとしたスーツ(きっと買いたての文房具みたいなにおいだってするに違いない)の、ディス・イズ、って感じの若いやつがぽつり・ぽつりと突っ立っていて、ああ間違いない僕と同じディス・イズ・社会人1日目だ面構えで分かる、明らかにこなれていない、期待と不安と好奇心、人生最後の春休みの爛れきった生活を経て充血する目はぎろりぎろりと辺りを神経質にまさぐっている。あんまり不用意に突っ立っているので後ろからやってくる旧社会人に小突かれオラつかれ突き飛ばされている。両手で艶のある鞄を後生大事そうに持っている。そういうのを見ていると、勝手に同志を得たような気持ちになり僕の不安もいささか和らいだ。

 アナウンスをかき消して電車がギューッとホームへ。扉が開く。嘘やんけ、中は既に人・人・人。それが色の悪い鱒寿司のように、ぎちぎち詰まっている。その間をテトリスよろしく、高速で回転しながら(事実そうだったのだが)かなり痩せて細長いおばさん(マジなんだって)が「すみません、オシリス」(たぶん「降ります」とおばさんは言った、と思うのだけれど、車内に詰め詰めた通勤客の隙間を縫うために彼女自身は高速で回転していたのだし、駅のあらゆる方向から発着を告げるマシンのナレーション、遅延を伝える車掌のだみ声、遠くで訳の分からぬようなサイレン、クラクション、拡声器、右翼左翼政治家バーニラ、犬かなにかの遠吠え、それらがパーティーのカクテルのように混ざり合い、結果としては、その細長いおばさんの発した言葉が僕の耳には「オシリス」という単語として聞こえたのだった。マジで)と言って、スーツ姿の、色の悪い鱒寿司たちのわずかな隙間を縫って外に出てきた。おっ、逆テトリスだな、東京では皆こうなのかなと僕はすこぶる感心する。駅で降りるのはその細長いおばさんだけだったので、並んでいた乗客たちは1815年6月18日のフランス歩兵隊よろしく(まあ銃剣は持っていないのだけれど)電車へ、その車両内の有効な空間を求め、隊列組んで一斉に突撃する。トーゼン僕も今まさに誉れ高き皇帝陛下(しかしホアキン・フェニックス演ずるナポレオンはやっぱり変だと思ったのだ)の兵士としてそれに参画していた。そして周りのパリッとした新社会人たちも、自らの運命を未だ受け入れられぬと見える困惑や恐慌を双眸に浮かべ、しかし抗いがたい歴史の濁流に飲まれるようにえいやと突き進むのだがいや無理だって、電車の中はもうぎちぎちの寿司詰状態じゃねぇか。隙間が全くねぇ、死ぬて! と思いつつも(ワーテルローの戦いに挑む歩兵隊一同もきっと同じことを思ったに違いない)、驚嘆すべきは矢張りふるつわものの旧社会人たちだ。先の、細長いおばさんのように細長いI字のおっさん、スクウェア型のおっさん、L字、T字のおっさんがぎゅるんぎゅるんと高速で回転、または左右に激しくステップを踏み、自らの肉体と精神とを収容可能な空白を探り当て、そこへ向かってシュシュッと突き刺さっていく(「シュシュッ」という音さえした。裏声の。彼らが空気を切る音だろうか? 口から言っていそうな気もする)(しかし真っ当な社会人が電車に乗るとき「シュシュッ」なんて言うものかね)。彼らの収まったあとの空間というのはこう……ビック・バン以前の、つとめて均されたまるで偏りのないのっぺりと冷たい宇宙みたいに継ぎ目の一切ない艶やかな虚無だ。Oh、と僕は再び感嘆、なるほどこれがTOKYOの社会人なのかと思う。クソボケがよ。

 入り口を上から下まで全く埋め尽くす肉の壁に狼狽え、まごつき、突撃する歩兵隊の列を乱すのは僕を含めた新社会人ばかり。しかしてその後ろには督戦隊よろしく旧社会人およびJR駅員たちが控えている。彼らは後ろからぐいぐい無理くり僕たちを死地へと捩じ込んでいく。仕方なしに僕たちも見よう見まねでくねくねとテトリスよろしく回転してみたり、あるいは左右にステップを踏み、あいまに自己分析し、自らが収まるべき空間を何とか探ろうとするのだけれど第一そんなものはないし電車の発車時刻は過ぎてるしキレ気味の駅員たちがぎゅうぎゅうと僕たちを車内へ向かって押し込んでいく。痛ぇのなんの。社会という鋳型に向け僕たち新社会人の肉体や骨格や青春や自意識が押し込まれていく。すえたにおい。頭頂部のにおい。耳の裏のにおい。口臭。体臭。加齢臭。爛れた香水。制汗剤。生乾きの柔軟剤。音。シャカシャカというイヤホンからの音洩れ。歯軋り。ぶつぶつ。舌打ち。ぐるるる。誰かの胃腸の蠕動。無数の革靴は地団駄を踏み、あるいは踏まれる。僕の左右の手は手摺吊り革を求めるのだがつーかまず腕がびた一文動かせない。文字通りのぎちぎち。オール巨人師匠ならパンパン。折り畳んだMacBookAir(13インチ・モデル)の上に立つ人間を想像せよ。それが今の僕に与えられたパーソナルスペースだ。辛うじて首を捻るとまだこの車両へのトライを試みる、四十代半ばと見えるサラリーマンが扉の上のところに何とか指を引っ掛けて粘っている。体を車内へねじ込もうと、顔を真っ赤にして「フッ・フッ、フッ・フッ」と顔晴るのだけど先んじて扉付近にポジションを取った旧社会人たちはまるで有史以前よりそこにあった巨大な自然石をたまたま人の形に彫っただけなんですよネ、という頑迷固陋をもって動かない。ちょっとくらい譲ったれや。やがて発車を告げるアナウンスで扉が閉まると「ウワッ」。先のサラリーマン、扉からほとんど体が出とるやないけ。あかんやないけ。あかんやないけ。しかし電車はそのまま動き出す。大丈夫なのかな、あれ(駅を出てしばらくしてから僕は再び首を捻って扉の方を見た。既に彼の姿は無かった。まあ然もありなんという感じ。大都会。無情)。

 電車はめいめいの職場へ人員を効率よく輸送する装置。江戸では四百年前からそうと相場が決まっている。決まっているんやでぃ。生ぬるい空調の風が車内を循環し春先のまだ肌寒い時期だからといささか着込んだヒートテックが割かし暑い。脇からじっとりとした冷たい汗が肋骨の上をと・た・た・と・た・とリズミカルに流れて落ちて気持ちが悪い。思わず身悶えすると「ンワッ、ンワッ」と隣の、安部公房みたいなサラリーマンが咳払いで威嚇してくるので、僕は囁くようにスミマセン、とだけ呟く。公房はお腹に抱えた黒のリュックの肩紐の位置を直し、上部に載せたスマホをポチポチと器用にいじくりぶ厚い眼鏡の奥の左右の黒い瞳でそれを睨みつけている。眼球の運動はスマホの画面へ向け全く固定されるから僕の存在は彼の認知世界から須く追放される。そういう術、というか素早いタスクの切り替え、それがこのコンクリート・ジャングルで生き延びるために必須なのかもしれない、いや、肝心のジャングルにさえ僕はまだたどり着いていない……思えば大学時代は学校から徒歩五分の木造アパートに下宿していたものだから通勤電車なんてものは乗ったためしがないのだ。いやあるわ、就活生の頃、大阪は淀屋橋にある人材派遣会社の開く短期集中セミナーなんてのにうっかり参加してしまった時の朝の御堂筋線。地下鉄のホームへ降りるなりマジか、マジかとやはり狼狽えて(しかしそれでもここまで混んでは無かったのだが)、僕は早々に電車へ乗るのを諦め、駅を出て、梅田から淀屋橋まで、会場となる小綺麗なオフィス・ビルへ向けて汗みどろで走ったのだった。さてセミナーのほうはといえば僕と同じような就活生をひっつかまえてきて、名刺交換だ電話応対だ来客対応だのシミュレーション、あまりにアホらしくて初日でバックれた(セミナーは三日三晩繰り広げられたと聞く。アホ!)。今もあの時のマナー講師の釣り上がった目を思い出すことがある(やっとの思いの昼休憩、食事もそこそこに僕はテーブルに突っ伏して眠りを貪っていたのだが、そこにマナー講師がやってきて突如苛烈に怒り出した。つまり理屈としては「お客様がいつ来るかもわからないのに、机に突っ伏して眠る馬鹿がいるかッ!」ということ。知らんがな知らんがな。お前は富野作品の女か)。それを思い出すと今でも苦しい、息苦しい。いや、空気が薄いのは気のせいではない。酸素をたくわえておくだけの余計なスペースがあればより多くの通勤客を収納すれば良いのだから。旧社会人たちは提示された空間条件に対し自身の肉体と精神とをX軸Y軸Z軸の三次元的に回転させ器用にねじ込んでいる。現に左右の荷物棚でゆうゆうと横たわる八人の男たちやその下の長椅子に座る乗客の膝の上にスクウェア型の男、二組のL字の男が互い違いに寝そべり床と平行に均された面の上にまたスクウェア型、L字、I字……と余剰も欠落もなく積み上がって窓の前は完全に壁(壁ですよ公房センセ! と僕は思わず彼の顔を見るが彼の目はスマホの画面に固定されたままだ。あるいは、彼は何も見てはいないのかもしれない、と僕は想像する)で塞がっている。今どこを走っているのかさえわからない。窓の前の壁は全体で一つの生き物のように単一のリズムで膨らんだり縮んだりしている。呼吸しているのだ。寄生獣の後藤状態。ちょっとおぞましくてどことなくきしょい。ふと足元を見ると僕と公房センセの股の間にはそれぞれT字の男がおさまっていて、彼らはめいめい縦に折った日経新聞を器用に読んでいた。

 やがて列車はゆるゆると減速する。駅に着いたのだろうか? 降りる客によって空白ができるかもしれない。もしくはそれ以上の歩兵が新たに補充されたとしても降客に乗じ、より快適なポジションを取ることができるかもしれない。アナキンさん地の利を得ました。「プシュシュッ」と扉の開く音がして僕の上下前後左右の鱒寿司どもがうごうご蠢き、肩がごり・ごりといささか可動域を超えて捻られている。「すいません、オルフェウス!」(だからマジでそう聞こえたんです)と若く悲痛な叫び声が通路の奥から聞こえてくる。誰も動かない。いや一旦降りろよおまんら、と思うが本当に動かない。いやもしや動けないのか? まさかそんな。首を捻ってあたりを伺う。公房も叫び声のした通路の方を不安げに見ている。足元ではT字の男たちが新聞から目を離しやはり困り顔で通路のほうを見ている。周囲の、隙間なく完璧に組み上げられたテトリスかあるいはジェンガの一部であるところの旧社会人たち。どことなく申し訳なさそうな半笑いの顔で、なにか気恥ずかしそうに、もじもじと肩や腰や胸や腹を捻って見せる。彼らにとっても、それが精一杯の誠意の表れなのだろう。

 最早この車内の誰も、自らの意思で降車することが出来ないのであった。

 んなアホな。

 通路からは「オルフェウス!」「あのッ」「僕はここで」「オルフェウス!」と何度も叫び声がする。しかし乗り口から新たなプレッシャー。誰も降りないと見たか、ホームに控えていた歩兵隊の先陣が車内に突撃してくる。ふるつわものの旧社会人がカチャリ・カチャリと回転し僅かに空気の残った空間さえも埋めていく。僕たちはますますぎちぎち満たされ圧迫され身動き取れずあのそろそろこれ中身出ちゃうんじゃねぇかなあ、なんて考えていると目の前の公房センセが「あっ・あっ・あっ・あっ」と洩らしつつ、「オルウェウス」の若者と反対側の通路の奥、その肉と肉のはざまに押し込まれるように消えてしまう。車内の圧力分布が変動し僕の体が持ち上げられバレエでいうところのポワントのように爪先立ちの姿勢で辛い。足元にT字の男たちはまだいるのだろうか? もう首をそちらに向かって動かすこともできない……発車を告げるアナウンスと扉の閉まる音。「ギルガメシュッ──」と先の若者の断末魔が一瞬して、静かになった。

 がたん・ごとん・がたたん・ごととん。寿司職人にあばらを握られているような圧迫感。上手く空気が肺に取り込めず、くらくらしてくる。僕はいったい、こんなところで何をしているんだろうか。こんなことをするために、僕は……お母さん……ポワントした方のふくらはぎはぴくぴくと痙攣してくるがどうにもならん。壁の向こうに消えた公房センセのかわりに今僕の前にいるのは身長1.9メートルくらいのシュワちゃんみたいなやつだ。うなじ・もみあげから頭頂部へ向かっての見事なフェードカットのグラデーションが艶やか。撫で付けられた七三分けからポマードのにおいが香り立つ。しかしシュワちゃんっぽいんだけど顔が若いなこいつ、とまじまじ見ているうち、ハリウッド的に極まりきっていたぱっきぱきの彼の顔はみるみるうちにしわしわの干し柿、ないし強迫症の猿を思わせる容貌に変化する。見開かれた目の周りは落ち窪みぎろぎろと充血した眼球が忙しなく辺りを卑近に伺っている(あるいはその目は運動を繰り返すばかりで何も捉えていないのかもしれない)。あっ、もしやこいつも新社会人なのか? と思った刹那「ガリガリ」と電車が砂を噛んだみたく減速し車両を満たす人員すべてが「ギュッ」と進行方向へ圧縮される。車両の、先の方に行くに従い「ぎえ」「ぎゃあ」「ぐぎぎ」。僕はシュワの胸に思いっきり顔を埋め事なきを得た(やわらかく、ほのかなあたたかさ。お母さんのようだった)。顔を上げると矢張り彼もまたびっくりした様子で胸に顔を埋める僕を見て、はにかんだような良い笑顔を浮かべる。矢鱈に焼いた黒い肌。異様に白い歯のコントラスト。目がぱちぱちといかれてしまう。

「ひょっとして君も、新卒かい?」とシュワが言う。僕は頷く。シュワがニギッと白い歯を見せてバキバキ笑う。一切の乱れなく整えられた歯列。そのまま大阪中之島美術館に常設展示されていてもおかしくはない逸品だ(「ツー・ブロックのシュワルツェネッガー〜理想的な口内環境に関する試案」というキャプションはどうだろう? だがあそこは維新のお膝元だからもしかするとうっかりどこぞの地下駐車場の片隅にほっぽりだされ埃を被ることになるかも知らん。地下駐車場の片隅でひっそりと埃を被る彼の歯列はそれでも誇り高く輝き続けるのだろう。知らんけど)。

「しかし東京の、通勤電車というのは大変だ、ネ」と小声でシュワが言う。そうですね、と僕は相槌を打つ。

「僕は、こう見えて実は、出身は福岡なんだが、まあ、あのキューダイなんだが、しかもこう見えてビルではなく」

「ビル?」

「ボディビル。ビルではなく、フィジクなんだが」

「フィジク?」

「バランスが大事。美しさ。トータルの、ネ」

「ははぁフィジークですか」

「シュワ(シュワって何? 「Sure」の聞き間違いだろうか)。しかしいやはや、この満員電車というのはちょっと堪える、ネ。ビルなら耐えられたかもしれないが、なにせフィジクだからなあ」

「そういうのって、なにか関係あるんですか?」

「何?」

「いや、だから……」

「ナンセンス。こんなのって無いなあ。こんなのって無いなあ。早くパクをとらねばならないし」

「パク(パクと言えば高畑勲の愛称ではなかっただろうか)?」

「タンパク質。パクをとらねばボディにも差し支えるなあ。うん。こんなのって無いなあ」

 こんなのって無いなあ。こんなのって……と消え入るように言い終えると、シュワはおめおめ泣き始める。尋常の密度では無い車内においても体長1.9メートルのシュワがおめおめ泣くのはこう、迫力があって結構周りもぎょっと彼を見るのだが、直ぐにめいめいの手元のスマートフォンの画面に、あるいは狸寝入りへと戻っていく(都会だね)。僕も狸寝入りしたい。しかし位置的にちょっと気まずい。仕方無しに、「お仕事は? 商社とか、コンサルですか?」と話題を変えるよう水を向ける。ずいーっと鼻を啜ったあと、「アニメータ……」とシュワがはにかんだように言う。

 それからも、電車はいくつかの駅で止まる。扉が開くくぐもり音が肉体の壁の向こうからうっすらと聞こえてくる。わずかばかりの外気と、大量の歩兵、騎兵、砲撃兵。車内の僕らも方陣を組みこれを撃滅せんとする訳だけど彼らを妨げるような槍ふすまはおろか槍の一本さえ持ってない。そもそも突撃した端々から彼らもまたわれわれの一部になる訳でいったいどこまでが彼らで、その先がわれわれなのか、僕たちは何と戦っているのか、まるで子供の一人遊びだ。車内の密度と圧力ばかりが指数的に上昇する。耳をすませば「がたん」と「ごとん」のあいだに、確かに「みちちち」と肉の潰れる音がする。駅に着くたび僕たちは車両の奥へ奥へと押し込まれていく。シュワはいつの間にか見えなくなってしまう(二駅ほど経たのち、「腕ッ」「腕が取れたッ」と彼の声が薄ら聞こえた気がした。ほんまかいな)。僕の足は車両の床に対しポワントしたりシソンヌしたりと忙しいのだが正確には周囲の通勤客に挟まれ、常に宙空に浮かんでいる訳だからシソンヌとは呼べないかもしれない。そのうち電車が蛞蝓よろしく減速し、ノイズまじりの車掌の声が入る。混線しているのか、上手く聞き取れないのだが──「えー、██で人身」「現在係員が調査に」「振替輸送は、現在調整中」「ご迷惑」「間隔が詰まっているため」──そして電車は完全に停止した。

 瞼の裏。あるいは冬の明け方に頭まで被った毛布ごしの弱々しい陽の光。羊膜越しの外の世界。太陽に透かした掌。今の僕の目に映る景色というのはおおむねそんな感じだ(あるいは映画NOPEの、あの謎の飛行生物の食道内に生きたまま囚われた人々を想像せよ)。車内の、通路にも座席にも荷物置にも吊り革にも窓の前にも、床から中吊り広告の真横までめちめちとサラリーマンが継ぎ目なく積み上がっている。彼らが身じろぎする、あるいは咳・くしゃみ・しゃっくりをする、そのわずかな瞬間に生まれる隙間から辛うじて差し込む薄いピンクの光だけが僕の世界の全てだ。今はどのあたりなのだろうか? いやそもそも時間は? まだ日中なのだろうか? 時計を確認しようにも僕の両腕は周囲のサラリーマンにびっちり挟まれてもうびた一文動かすことはできないし何ならもう手足指先の感覚も無い。永らく電車は動いていない気がするけれどしかしそれさえも定かではない。もしかすると動いているのかもしれないが誰も降りられないだけなのかもしれない。こうして僕たちは永劫の時のあいだ山手線をぐるぐるぐるぐる廻り続けるに違いあるまい。廻りすぎてバターになっちまうぜ。感じ取れる変化といえば身体を四方八方より圧縮し続ける力だけ。それはまるで深い海の底へ沈んでいくように、底無しに上昇し続けている。酸素は極めて少ない。意識はぷつと遮断され、周囲からの圧力により軋む頭蓋のわななきで再び覚醒する。このままでは、死んでしまう……! 

 僕は最後の力を振り絞り、天井目掛けて、もうそういう気狂いみたいに全身に力を込め四方八方滅法矢鱈と手足突っ張り蹴手繰りまわす。「痛ぇ」「何だ」「馬鹿野郎」とワンワン唸り声がするが構うものか。ひたすら周囲の有象無象を蹴り、引っ掻き、押しのけ、ようやく天井間際の海面へ浮上する。顔のすぐ横に週刊誌の中吊り広告(政治と企業と皇族とグラドル。気が狂う)。そこいらにはまだいくらかの酸素が残っているので力一杯それを吸う。ようやっと意識がはっきりしてくる。あたりを見回すと、同じように旧社会人が積み上がって出来た肉の海面から顔だけ覗かせるのはいずれも今は青ざめた顔をした新社会人ばかりだ(あっ、シュワもいる。トータル・リコールで火星の地表に出ちゃった時くらい目玉が膨張している)。しかし数が少ないように思える。海面へ浮上できなかった連中のことを考えるといたたまれない気持ちにもなる。

 そのような、海面に何とか顔を出せた新社会人のうちのひとり、青紫の河豚みたいな、目や鼻から脂っぽい汗をどべだらりと垂れ流す男が「もし……」と消え入りそうな声を出す。一瞬話しかけられたのかと思ったが彼の目は目の前の天井の換気口をどろどろりと見つめている。気でも触れたかな、いやどうやら耳にワイヤレス・イヤホンが刺さっている。なるほどあれならスマートフォンをポケットから取り出さずに通話ができる。そして彼は話し続ける。「もし、もし……」彼はそこまで言うと、ウッ、と言葉に詰まり、左右の頬を目一杯ぷくーっと膨らませた。毒属性の河豚か、あるいは貪食性のリス。窄めた唇のあいまからぴゅっ、ぴゅぴゅーっと虹色の吐瀉が噴き出す(河豚でした)。うわっ。その、河豚男の嘔吐に釣られたように、彼のまわりの新社会人がウッ、ウッ、と頬を膨らませ、ぴゅ・ぴゅーっと朝食をドロップする。車内に立ち込めるツンとみだらな異臭はいよいよもって終末の様相。

 ひとしきり出すものを出し終えると、しかし河豚男は新社会人としての最後の矜持を見せつけるように、

「入社式……間に合わ……すみま……切腹(切腹つったか? しかし確かにそう聞こえた。彼は河豚であり武士でもあったのだ。知らんけど)……」

 そうだ、僕も遅刻の連絡をしなくては。天井付近に集まったわれわれ新社会人は、めいめいが最後の力を振り絞ってそれぞれの勤務先に電話を掛け始める。ハンズ・フリーで掛けられるものはポケットの中のスマートフォンを器用にまさぐる。それができないものは無理くり腕を引き抜くか、または覚悟を決め、すぅーっと息を吸い再び肉の海中へと引き返して……「はい」「もしもし」「しかし何だって今日は」「本日入社します」「馬鹿みたいに混んでるんだ」「どなたか僕のスマホを」「入社式ですが」「ああ、四月一日」「お世話になって」「すいません」「道理で」「ええと、これかい?」「あっ、違います」「本日の」「だから詰めが甘いんだな」「間に合いそうに無く」「電車の」「詰め?」「遅延」「詰めが甘い」「通勤」「テトリスを知らんのか、テトリスを」「リス?」「圧力が」「碌にTスピンも出来ないひよっ子が」「Chick?」「こんな風に、話ができるくらいに酸素が残ってるだろう?」「圧迫されています」「いつもなら、まだ詰められるんだけどなあ」「あの」「俺たちの若い頃はさあ」「退職」「石の上にも」「モウムリ」

 ぱんっ。

 一番最初に電話を掛けていた青紫の河豚男が、車内を占める旧社会人たちの圧力に耐えきれず、とうとう破裂した。実に小気味良く破裂した(Roland TR-808のクラップを想像せよ)。河豚男の占めていた空間が消失し、しかしてすぐに周囲の旧社会人がそこを埋め尽くす。まるで河豚男なんて最初からそこにいなかったかのように。それが合図だった。ぱんっ、ぱんっ・ぱんっ。ぱぱぱんっ。ぽんっ。ぷちゅっ。ちゅぽんっ。車両のあちこちで、悲鳴をあげる間もなく新社会人は破裂した。彼と彼女の二十余年あまりの記憶や経験が、今はなめらかな液体になって車両を埋め尽くす旧社会人のくたびれたスーツのあいまを伝って下水道を通り海へと流れ落ちていく。

 社会の、その大海の一滴に溶け込んだ僕たちを、彼と我に区別し、そこから掬い上げることは出来るだろうか? ……無理だろうな。

 

 そして僕たちがこれから40年以上やっていくこの場所とは、おおむねそのような性質をもつところなのだ。

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