久しぶり
定時のチャイムが鳴って、なんとなく今日も一日が終わった。
パソコンをシャットダウンしながら、斜め向かいの阿須望さんにちらりと目をやると──こっちを見ていた。
「……帰る前に、もう一度言っておくわね」
立ち上がりながら、阿須望さんは淡々と告げる。
「これ以上、魂を活性化させないように。感情の振れ幅にも気をつけて。分かってるわね?」
「……はい」
反射的に頷いたが、内心は複雑だった。
魂を狙っている“元・天使で現・悪魔”──本来なら警戒するべき相手のはずなのに、今朝からのやりとりのせいか、どこか味方みたいに感じてしまっている自分がいる。
……いや、たぶん“気のせい”なんだろうけど。
帰り支度をしてエレベーターを降りる間も、阿須望さんは横で「信仰系の音楽も避けて」「下手に救いを求めるような本を読まないこと」「あとは恋愛感情にも注意して」などと、地味に厳しめな注意事項を次々と投げてくる。
俺はただ「はい……」「分かりました……」と頷くだけで精一杯だった。
そのやりとりを聞いていたのか、俺の後ろをふよふよとついてきていた天使が、嬉しそうに声を上げた。
「うんうんっ☆ さすが悪魔なだけはあるねえ〜! 魂の扱い、詳しいよぉ~っ♪」
阿須望さんは「褒めてるのかバカにしてるのか分からないわね」とぼそっと呟いていたが、天使は気にした様子もなくぴょこぴょこと浮遊していた。
──正直、気が休まらない。
ようやく会社の外に出たところで、ふっと目を上げる。
「……あれ?」
そこで視界に入ったのは、金髪のねーちゃん──……じゃなかった、マモンだった。
なんでいるんだよ。
相変わらず背が高い。
遠目にもすらりとしたシルエットが目を引く。
服装はラフで、Tシャツにジーパンという飾り気のない格好だったけれど、スタイルの良さのせいか、むしろ洒落たファッションモデルのように見える。
そのせいか、通りすがりの人たちがちらちらとマモンを見ていた。
そしてそのマモンが、こちらに手をひらひら振りながら、ニッと笑った。
「よ。久しぶりじゃん」
俺が返事をしようとしたその瞬間、阿須望さんが小さく首を傾げた
「……誰かしら? 知り合い?」
──あれ?
思わず阿須望さんの横顔を見つめる。
まさかとは思ったが……もしかして、この人、マモンが“悪魔”だって分かってない……?
いや、そういえば──
悪魔って、天使ほど感覚が鋭いわけじゃなかったな。
そもそも“見通す”ような力はあまり得意じゃないって天使から聞いてた。
前に現れたレヴィアタンは、働き始めのトゲトゲしたオーラのせいで、気配が漏れまくってたらしい。
その点、マモンはああ見えて、そういうコントロールが上手いんだろう。
となると、阿須望さんの目には、ただの派手な金髪のねーちゃんにしか見えてないのかもしれない。
俺は口を開きかけて、けれど──すぐに言葉に詰まった。
ここで「はい、知り合いです」って言っていいのか?
いや、それ以前に──“悪魔”のことを別の“悪魔”に紹介するって、どうなんだ。
天使はというと、空気を読んだのか、ずっと無言で浮いている。
ていうか、悪魔同士って出会ったらどうなるんだ……?
いきなり戦いとかにならないよな……?
いやいや、それはさすがに……さすがに……。
そんな俺の逡巡をよそに、マモンが軽く手を挙げた。
「私はマモンって言うんだ、よろしくな」
おい、普通に名乗るのかよ。
でもその名前を聞いた瞬間──
「……マモン?」
案の定、阿須望さんの反応が引っかかってる。
「で、そっちは?」
今度はマモンが、にやりと笑いながら阿須望さんに視線を向けた。
阿須望さんは一瞬の間を置いてから、いつも通り淡々と答える。
「阿須望よ。この人の先輩に当たるわね」
「ん?」
マモンが少しだけ眉を上げた。
──微妙な空気が流れる。
そこから、なぜか二人とも黙った。
マモンは笑ったまま、軽く目を細めて阿須望さんを見つめている。
阿須望さんは微動だにせず、静かに相手の顔を観察している。
会話が終わったわけじゃない。
敵意があるわけでもない。
でも──沈黙だけが、ぴたりと空気に張りついていた。
……なんだこれ。
何か話した方がいいのか、それとも黙っていた方がいいのか。
どっちが正解か、まったく分からない。
俺はただ、妙に静かな空気の中で、無言のまま固まっていた。
と──
「───?」
マモンが、突然、奇妙な音を紡いだ。
それはまるで、人間の発音ではない“何か”。
舌を絡めて捻じるような、不自然な響きだった。
その言葉を聞いた阿須望さんは、ほんの一瞬だけ瞼を伏せて、そして静かに返す。
「……────」
──なんだそれ。
その場に立ってるだけなのに、全身の皮膚がぞわぞわと粟立つ。
耳に届いた瞬間から、脳が拒否反応を起こすような、そんな音。
何か“言葉”のようで、“音”のようで、でもそのどちらでもない。
──気持ち悪い。
まるで、聞いてはいけないものを聞いてしまったみたいな、そんな感覚だった。
いったい、なんなんだ。
ぞわぞわする感覚をなんとか押し込めながら、俺が目線を泳がせていると──
「……久しぶりね、マモン」
ぽつりと、阿須望さんが言った。
その声は静かで、表情も崩れなかったが、微かに滲んでいたのは、懐かしさか、それとも警戒か。
「……ああ」
マモンも、少しだけトーンを落としながら応じた。
どうやら、ようやくお互いの正体を確認し合ったらしいが……
それで場の空気が和むわけでもなかった。
むしろ、余計に微妙な空気になった。
沈黙の間に、ふと疑問が浮かぶ。
「……顔見知りじゃなかったんですか?」
同じ“七つの大罪”の名を冠する悪魔同士なんだから、当然面識くらいあるものだと思っていたんだけど。
何気なく問いかけると、阿須望さんは少しだけ目線を外して、淡々と返してきた。
「地獄での姿と現世での姿は、違うのよ。外見だけじゃ判別できないこともあるわ」
「え、そうなんですか」
「ある程度は似通うけどね。特に高位の悪魔ほど、“本来の姿”と“現世での仮面”には差があるの。だから一目見て分かるってわけでもないのよ」
──なるほど。
人間からしたら見た目がすべてでも、彼らにとってはそれが当てにならないってことか。
余計に人外感が強まった気がする。
……というか、その“本来の姿”ってどんななんだろう。
ちょっと気になる。
ちょっとだけ。
──でも、うっかり見たら精神に支障をきたす系のやつだったらどうしよう。
うん、やめとこう。
好奇心は身を滅ぼすって言うし。
見ても後悔しかしない気しかしない。
「……現世での見た目はともかく、今の“久しぶり”って──面識はあるんですよね?」
俺の問いかけに、阿須望さんは軽く目を伏せたあと、ゆっくりと口を開きかけ──
「ええ、だってこの子は──」
「ルシファー様の“反逆”の時に、一緒に加担してたからな」
言葉を挟んだのはマモンだった。
笑ってはいたが、その目にはどこか鋭さがあった。
「まあ、一応“仲間”ではあるが……別に“友達”ってわけじゃないよ」
軽く言い放たれたその言葉が、妙に冷たく響いた。
──なんなんだろう、この距離感。
過去を共有してるのに、ぜんぜん打ち解けてないっていうか……微妙にピリついてる感じ。
でも、確かに“仲間”ではあったのか──そこだけは、意外と納得だった。
そしてマモンの言葉を聞いて、ふと頭の中に浮かんだ疑問があった。
「……もしかして、レヴィアタンとか、ベルゼブブとかも──ルシファーの反逆に加担してたんですか?」
恐る恐る問いかけると、マモンはあっさりと頷いた。
「ああ。そうだよ」
まるで“当然じゃん”というような口ぶりだった。
「っていうか、“七つの大罪”の奴らは、基本的にその時の反逆組だよ。ルシファー様についていった連中って意味でもあるからな」
「へぇ……」
そうだったのか、と妙に納得しかけたところで、ふと別の名前が引っかかった。
「でも……ベルフェゴールも、ですか? あの人、というか、あの悪魔、基本的に何もしないって聞いてますけど……」
その問いに答えたのは、阿須望さんだった。
「その時は、私たちが無理やり引っ張ってきたの。本人はずっと『面倒くさい』って言ってたけど」
呆れたように言いながらも、どこか懐かしそうな声音だった。
「結局、何一つしなかったわよ。でも、一応“加担した”ってことで、まとめて堕天したわ。まあ、“いた”ってだけなんだけどね」
「マジか……」
思わず素で呟いた。
何となく察してたけど、ベルフェゴールはまさかの元天使。
というか、ほぼ何もしてないだろうに堕天させられたって……それって、可哀想……?
……いや、でも、天使としての責任を果たしてないって意味では……いや……。
「……うん、可哀想なのかどうか、よく分からなくなってきた……」
頭をかくしかなかった。
「で──結局、何しに来たんですか?」
話が一段落したところで、俺はようやく本題に踏み込んだ。
内心ではずっと気になっていた。
正直、なんでマモンが、よりによって俺の職場の前に現れるのか。
なんで会社の場所、知ってるのか。
そっちの方が気になりはするけど。
でも、まあ……悪魔だし。
そこに突っ込んでも仕方がないというか、なんというか。
前だって、会社から最寄りの駅前にいたしな。
たぶん、何かしらの手段で把握されてるんだろう。
考えるだけ無駄だ。
マモンは、ふっと顎を上げて言った。
「うちのとこに──ちょっと厄介なやつが来てんだよ」
「……厄介なやつ?」
「そう。しかも、どうやら“あんた”に関係してる」
その言い方に、背筋が冷える。
──関係してる?
「そいつ、“魂の活性化”を抑える方法を知ってるらしい」
「……え?」
思わず、間抜けな声が漏れた。
けれど、それほど驚きだったのだ。
魂の活性化を“抑える”方法──そんな都合のいい情報が、本当に存在するのか。
──というか、それを知ってる“厄介なやつ”って、誰なんだよ。
質問を飲み込みかけたところで、マモンがぽんっと手を打った。
「ま、とりあえず──焼肉行こうぜ!」
「……え?」
反射的に、間の抜けた声が漏れる。
「せっかくだし、アスモデウスも来いよ。久しぶりだしな」
マモンがちらりと阿須望さんに目をやりながら言う。
「金曜の仕事終わりだろ? 丁度いいじゃん。疲れも取れるし、美味い肉も食えるし」
──いや、焼肉……?
どこか話が急すぎて、頭がついていかない。
「ちなみにもう予約してあるから、拒否られると困るんだよな。そいつも来るし」
「そいつ?」
「魂の活性抑える方法、知ってるやつ」
──え、まさか、その“厄介なやつ”も焼肉来んの?
どこからどうツッコんでいいのか分からなかった。
「……まあ、行ってみようかしら」
ぽつりと、阿須望さんが呟く。
え、行くのか。
でも確かに、情報が得られるなら無視できる話じゃない。
「……俺も行きます」
覚悟を決めて、俺もそう言った。
「よし、決まりだな。じゃあ早速行くか!」
マモンが満足げに笑う。
と、その時。
「──主さまからのお知らせ~っ☆」
唐突に、それまで静かに浮かんでいた天使が、ふわりと宙に上がりながら呟いた。
場の全員が、思わずそちらに視線を向ける。
「“その者に、気を許すな”──だって~っ♪」
一瞬、空気が固まった。
俺は思わず口を開けかけて、そっと天使を見た。
「……今も見てんの?」
天使はにこにこ笑ったまま、曖昧に目玉をくるくる回している。
──そうか、見られてるのか。今も。
そう思った途端、背中がぞわっとした。
「あー……まあ、そうかもな」
マモンがぽりぽりと頬をかきながら、天使の“お知らせ”に雑な相槌を打つ。
「……誰なの?」
阿須望さんが静かに尋ねた。
その声音には、わずかに警戒が混じっている。
けれどマモンは、ひらりと肩をすくめてみせた。
「それ言ったら、たぶん来なくなるだろうしな。今はナイショってことで頼む」
軽い口調に見えて、その奥に微妙な間がある。
ふざけているようで、真面目な何かが混ざっていた。
「……」
俺は言葉を挟めずにいるうちに、マモンがくるっと背を向けて、ぱんと手を叩いた。
「よし、じゃあ行くぞ! 肉だ、肉っ!」
「……楽しみだね~っ☆ おにくおにく~っ♪」
天使が浮かび上がりながら、無邪気にくるくる回る。
俺は無言のまま、みんなの背中を追いながら、そっと息を吐いた。
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