今、魂が熱い
翌朝、会社に着いて席についた途端、斜め向かいから視線が飛んできた。
阿須望さんが、顔を僅かに顰めながら、こちらを見ている。
俺のすぐそばでは、天使がまだほんのり光を纏ったまま、ふよふよと浮いていた。
阿須望さんはしばらく黙ったままこちらを見ていたが、やがてぼそっと口を開いた。
「……この間から、ずっと光ってるけど。あなた、一体何したの?」
目は天使の方を見ている。
だがその視線は、明らかに俺にも向けられていた。
「前は……まあ、戯れか何かかと思って気にしなかったけど、よく見たら分かるわね。光の質……少しだけど、確かに力が増してる」
言われて、俺も天使の方をちらりと見る。
ふよふよと漂っていた天使が、にこーっと目玉を細めて言った。
「んふふ~っ☆ ごしゅじんさまがぁ~っ、祈ってくれたのぉ~っ♪ ちゃんと、気持ち込めて、届いたんだよぉ~っ☆」
その言葉に、阿須望さんは小さく息をつき、ぽつりと呟いた。
「……祈り、ね。……ああ、もしかして、どこかの教会にでも行ったの?」
核心を突くような視線。
俺は僅かに頷ずいた。
「はい、まあ……ちょっとだけ」
「それで、前より魂が活性化してたってわけね。納得したわ」
さらりと言いながらも、その表情にはどこか複雑な色が浮かんでいた。
「……っていうか、魂が活性化とか言ってますけど。天使とか悪魔って……そういうの、見えるんですか?」
今更すぎるが、率直な疑問だった。
言ってる側は真剣でも、こっちは正直ピンときていない。
阿須望さんは少しだけ目を細め、言葉を選ぶように口を開く。
「言葉にするのは難しいけど……そうね。“見える”というより、“感じる”って言った方が正確かも。そっちの天使が光り始めてから少しして、あなたの魂もじわっと活性化してるのが分かったわ」
阿須望さんの言葉に、天使もふわりと同意した。
「そだねぇ~っ☆ わたしたちには、なんとな~く“匂い”とか“震え”みたいな感じで伝わってくるの~っ♪ ごしゅじんさまの魂、あったかくてきらきらしてるから~っ☆」
……なるほど。
人外の感覚すぎて、俺はなんとも言えない気分で頷くしかなかった。
そんな空気の中、阿須望さんがふと表情を引き締め、話を切り出す。
「……昨日、私のところに、アバドンが来たわ。あなたの話は、聞いてる」
その名前を聞いた瞬間、背筋にぴりっと冷たいものが走った。
「え……阿須望さんのところにも?」
「ええ。蝗を通じてね。あの子、そういう使い方ができるのよ。状況の共有と監視。おそらく、あなたに“兆し”を伝えに来たんでしょうね」
──アバドンの蝗。
どうやら阿須望さんのところには本人ではなく蝗が来たらしい。
どこか不穏な存在感は感じていたが……まさか、そんなふうに“情報伝達”に使えるとは思ってなかった。
考えてみれば、常にどこにでもいて、音も無く移動できるあの虫を使えば──ほぼ地球上どこでも即時に情報を飛ばせる。
……便利だ。怖いくらいに。
そして、阿須望さんは淡々と続けた。
「──ルシファー様が、少し動き出しそうだって。そういう報告だったわ」
俺はしばらく言葉に詰まった後、意を決して問いかけた。
「……阿須望さん的には、どう思ってるんですか? この状況……」
少しの間を置いて、彼女ははっきりとした口調で答えた。
「私としては──あなたには、“余計なこと”はしないでほしいわね」
その言い方には、重みがあった。
「もし、これ以上あなたの魂が活性化して……ルシファー様が本当に顕現するようなことになれば……その時は、もう“天使”だとか“悪魔”だとか、そんな区別は意味を持たなくなる」
ゆっくりと言葉を繋げながら、彼女の瞳は真っ直ぐ俺を見ていた。
「すべてが巻き込まれる。世界も、秩序も。そうなったら、誰も止められない」
その断言に、俺はしばし黙ったあと、ぽつりと呟いた。
「……なんか、詳しいですね?」
軽く問いかけたつもりだったが、阿須望さんは少しだけ視線を逸らしてから、静かに言った。
「私は、ルシファー様の“反逆”に加担して──堕天したくちだから」
その言葉に、呼吸が止まった気がした。
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
彼女が“元・天使”ということは知っていた。
でも、そこまで深く関わっていたなんて。
「そそっ☆ あすのんも、当時は反逆組だったの~っ♪」
軽い調子で、天使が口を挟む。
「わたし、止めに行った側だったから~、けっこー大変だったんだよぉ~っ☆」
その口ぶりがやけにリアルで、俺はなんとも言えない気分になった。
そして阿須望さんは、椅子に背を預けながら小さく息を吐いた。
「とにかく──ルシファー様の顕現だけは、絶対に許しちゃダメよ」
その声には、静かな迫力があった。
「……分かりました」
俺は思わず姿勢を正して、素直に頷く。
だが、どこか引っかかるものが胸の奥に残っていた。
「でも……そんなヤバい存在がいるのに、例えば誰かが“聖人の魂”を取り込んだところで……“序列一位”とかって、本当に有り得るんですか?」
ふと疑問に思ったことを口にした瞬間、阿須望さんの目が鋭く細められる。
「……“聖人の魂”を、舐めない方がいいわよ」
静かな声の中に、明確な警告が込められていた。
「どんな悪魔だろうと、本来交わるはずのない“純粋な魂”を取り込めば──力の系統そのものが“書き換わる”の。相性次第では、上位の存在をも超える」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
──そこまでのもの、なのか。
静かに、胸の奥にざわつくものが広がっていく。
“書き換わる”──たった一つの魂が、それほどの変化をもたらすというのか。
そう言われてみれば、確かに納得はできる。
悪魔が狙う理由も、アバドンがわざわざ現れた理由も。
そして何より──ルシファーという存在が、僅かな反応で“顕現”しかける理由も。
全部、筋が通ってしまった。
「……なるほど、そういうことか」
思わず、呟きが漏れる。
思考が纏まらないまま、ぼんやりと宙を漂う天使を見上げた。
その無数の目玉が、まるでこちらの迷いを映し取ったかのように、少しだけ瞬いていた。
すると、ふいに阿須望さんがぽつりと呟いた。
「……ルシファー様が動き出したなら、“ベルゼブブ”──あの子にも、気をつけた方がいいかもしれないわね」
「ベルゼブブ……って、あの……序列二位の?」
思わず聞き返す。
ルシファーに次ぐ、地獄の大悪魔──そんな名前をここで聞くとは思わなかった。
「うんうん~☆」と、天使がくるくると空中を回りながら口(?)を開く。
「ベルゼブブちゃんはね~、ルシファーさまのこと大好きなんだよぉ~っ☆ もうずーっと、ずーっと慕ってるの~っ♪」
まるで子供が憧れのヒーローを語るような調子だったが──その内容はとんでもなく物騒だ。
「今はルシファーさま、自我が無くなって、ただの“力の塊”みたいになってるけど~……それでも、ベルゼブブちゃんは、あの力を“神”として崇めてるの~」
ふよふよと宙に浮かびながら、天使は少しだけ声のトーンを落とした。
「だから、もしそのルシファーさまに、また何か兆しがあったら……」
──ベルゼブブは、必ず動く。
その空気は、言葉にせずとも全員が理解していた。
「……じゃあ、ベルゼブブは、サタンのことをどう思ってるんだ?」
ふと浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「ルシファーの“分身”とか、“後継”って感じなんですよね? 記憶は無くても、今のサタンに何か反応したりとかは……」
サタンは、ルシファーとは別の存在と聞いている。
でも、力を継いでるといった言葉が使われる以上、きっと何かは“近い”のだろうと思っていた。
だからこそ、ベルゼブブがもしかしたら、サタンのこともルシファーと同じように慕っていたりするのかもしれない、と。
ほんの少し、そんな可能性も頭をよぎっていた。
だが、その考えはすぐ打ち砕かれる。
「……あの子にとって、“代わり”ってだけで気に入らないのよ。ベルゼブブは、サタンを認めていない」
てっきり慕ってるかもと思っていたけど、全くの見当違いだったらしい。
「つまり、敵対関係……ってことですか」
「厳密に言えば、“否定”ね。サタンの存在そのものが、ルシファー様の終焉を象徴してるようなものだから」
その言葉に、思わず息を飲む。
“後継者”としてのサタンの存在。
それは、ベルゼブブにとっては──ルシファーの“喪失の証”なのかもしれない。
「……サタンの方はどうなんです? 何か思ってることとか、動きそうな気配とか」
そう尋ねると、阿須望さんはほんの少しだけ目を細め、低く呟いた。
「……正直、分からない。でも──可能性として、サタンが“ルシファー様の力そのもの”を取り込もうとする……そういう展開も、無いとは言い切れない」
「……え、それってつまり、“本物”に戻ろうとする、ってことですか?」
「ええ。でも……無謀よ。たとえ分身でも、ルシファー様は“装置”なの。今のサタンにそれを制御する術はないはず」
今のところは可能性は低いってことか。
ただ……もし、サタンが“装置となったルシファー”を取り込もうとしたら……?
その結果がどうなるかなんて、想像もつかない。
けれど──
取り込めなかった場合。
もしくは、暴走した場合。
……いや、うん。
怖いから考えるのはやめておこう。
そういうのは、ちゃんとした誰かが考えてくれればいい。
俺は無理だ。
脳が震える。
ひとまず深呼吸してから、ふと別の疑問を口にした。
「……ベルフェゴールって、どうなんでしょうか。何か……すると思います?」
名前を出しながら、自分でも少し不思議に思った。
地獄の序列で言えば、上から三番目。
何か大きな動きがあってもおかしくない立場のはずだ。
だ。
だが──
「何もしないでしょうね」
阿須望さんは即答だった。
むしろ、迷うことすらなかった。
「あの子、本当に何もしないのよ。たぶん、世界が滅ぶようなことが起きてもね」
そこまで断言されると、逆に凄いと思えてくる。
「じゃあ……なんでそんな存在が“序列三位”なんですか?」
当然の疑問だった。
「それもね……何かの“功績”じゃないの。“攻撃してきたやつに反撃してたら”、自然とそうなってた……って話よ」
「……攻撃してきたやつに反撃してたら、って……」
なんだそれ、って感じだ。
戦う気が全くないのに、勝手に戦闘に巻き込まれて、勝って、結果的に出世した──そういうことか?
と、そこである考えがふと頭に浮かぶ。
三位ってことは、もしかして──
「……サタンも、ベルフェゴールに攻撃したことがあるんじゃ?」
何気なくそう口にすると、阿須望さんは少しだけ肩をすくめた。
「直接見たわけじゃないけど──まあ、“そう”なんでしょうね」
さらりと、当たり前のことのように言う。
「悪魔の序列って、基本的には“格下が格上に挑んで、それに勝てば順位が上がる”ような仕組みだから」
つまり、ベルフェゴールが三位ってことは──誰が相手でも、全部跳ね返してるってことだ。
それも、わざわざ戦おうとしてじゃなく、「勝手に攻撃されて、勝手に返しただけ」みたいな姿勢で。
戦う気すらないのに、返り討ちでのし上がった。
どうやら実力は、相当なものらしい。
にもかかわらず、自分からは何も動こうとしない。
攻めず、守らず、ただ怠惰を貫いているだけ。
それでいて、誰にも倒されない。
……ある意味、一番“自由な”存在なのかもしれない。
そんな考えに浸っていたところで、阿須望さんが静かに言った。
「──とにかく。あなたは、しばらく“魂の活性化”には気をつけること。祈ったり、変に感情を動かしたりしないように」
「……はい」
俺は素直に頷いた。
さすがに、もう適当に振る舞っていい段階じゃない。
すると阿須望さんは、言葉を継いだ。
「それに、今の状態なら……しばらくは、私も含めて他の悪魔にも狙われることはないと思うわ」
「えっ? 何でですか?」
「今のあなたの魂は、まだ“活性化した状態”。そんな時に、迂闊に取り込もうとでもしたら──ルシファー様がまた“反応”する可能性があるのよ」
その言葉に、思わず背筋が凍る。
「あ、確かに。考えてみれば……そりゃそうか」
今、自分の魂が爆弾みたいな状態だとしたら──誰も近づきたくはないだろう。
どんなに力が欲しくても、ルシファーが顕現するリスクを冒してまで取りに来るほど、悪魔も無茶じゃないはずだ。
……たぶん。
「それに──」
阿須望さんが僅かに眉を顰める。
「昨日、私のところにアバドンの蝗が来たってことは……他の悪魔たちにも、“あなたの魂の活性”と“ルシファー様の兆し”については、すでに共有されているはずよ」
「……なるほど」
「一応、気配が外に漏れないよう、私なりに抑えてはいたんだけどね……あの蝗、正確に拾ってきたみたい」
それは、つまり──監視網は既に張り巡らされているということだ。
けれど、そう思った瞬間──新たな不安が胸をよぎった。
「……でもこれってつまり、“俺の場所”、いつでもバレてるってことですよね?」
アバドンの蝗が常にどこかにいるなら、逃げ場なんて最初から存在していないのと同じだ。
「もし、アバドンが俺の魂を狙ってきたら……どうなるんだ……」
自分でも分かっていながら、恐る恐る口にしてしまう。
だが阿須望さんは、そんな俺の疑問を静かに首を振って否定した。
「アバドンは、そういうことはしないわよ」
「……え?」
「彼女は“監視役”みたいなものだから。“奪う”ことより、“見届ける”ことのほうが仕事としては近い。悪魔の中でもかなり特殊な立ち位置なのよ」
まるで役所仕事のように──とまでは言わなかったが、阿須望さんの口ぶりにはそれに近い冷静さがあった。
「それに、あの子が常駐してる場所って、“地獄の最深層”に近い区画なの。普通の悪魔が入り込めるような場所じゃないし、滅多なことでは狙われたりもしない」
阿須望さんの説明を聞いて、少しだけ胸を撫で下ろす。
──監視役。
確かに、あの静かな口調と蝗たちは、何かを“見ている”印象が強かった。
「そーそーっ☆ アバドンちゃんはね~、そういう“奪う”とか“襲う”とか、あんまり興味ないの~っ♪」
にっこりと無数の目玉で笑いながら、軽やかに回転して見せる天使。
「だからだいじょーぶだよぉ~っ☆ ごしゅじんさまの魂、ちゃんと見守られてるだけ~っ♪ ふふふ~っ☆」
それが安心材料になるのかどうかは別として──
少なくとも、今すぐ命を狙われる心配はなさそうだった。
とはいえ──
活性が落ち着いたら、また他の悪魔に狙われるんじゃないか。
そう思うと、安心なんてできなかった。
ちら、と阿須望さんの顔を盗み見る。
もしこの人が急に「やっぱり取るわ」ってなったら……正直、今度ばかりは、本当に奪われる気がする。
その不安を察したかのように、耳元で突然、天使の声が響いた。
「だいじょーぶだよぉ~っ☆ その時は、ちゃんと守るからねっ、ごしゅじんさま~っ♪」
──近っ。
思わずそっちを振り向くと、目と鼻の先に天使がいた。
いや、目というか──無数の目玉。
ぴくぴくと微細に動く無数の目玉が、こちらを一点に集中させるように見つめてくる。
──ぞわ……!
頭皮の奥からじわじわと寒気が這い上がってきて、全身に鳥肌がぶわっと立った。
視線というより、“視られている”という感覚。
しかもあらゆる角度から、隅々まで見抜かれているような、得体の知れない圧があった。
……見られてる。
めちゃくちゃ、見られてる。
けれど、その視線に悪意は──たぶん、なかった。
どこまでも真っ直ぐで、ただ“守る”ってことだけを言っている……ように思えた。
だから、思わず苦笑しながら、俺は小さく息をついた。
──まあ、頼りにしてるよ。
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