パイモン

 ビル街の一角に佇む、それっぽい佇まいの店が近づいてきた瞬間──俺の足が、思わず止まりかけた。


 ──え、あそこ?


 黒塗りの外壁に、落ち着いた間接照明。

 入口には控えめな暖簾と金文字の看板。

 どう見ても、普通の会社員が気軽に入るような場所じゃない。


 ていうか、めちゃくちゃ高そうな店なんだけど……。


 財布の残高を一瞬で計算しそうになって、そっと考えるのをやめた。


 そんなことをぼんやり思っていたら──ふと、隣の阿須望さんが無言になっていることに気づく。


 顔を向けると、眉をほんの僅かに顰めたまま、店の前をじっと見つめていた。


「……どうかしました?」


 声をかけた直後、その視線の先にある“存在”に、俺もようやく気づいた。


 店の入り口に、誰かがいた。


 ──小柄な女の子。

 ツインテールに、黒いパーカーを羽織り、下は大胆なミニスカートという、場違いにもほどがあるラフさ。

 まるで「わざとそうしてる」と言わんばかりの、絶妙に挑発的な服装だった。


 

「へぇ〜、この人がそうなんだ?」


 口調は軽い。

 態度は小生意気。


 でもその目だけは、底の見えないものを湛えている。


 そのまま小柄な少女は、俺の顔をじーっと見つめてきた。


 ──というか、あからさまにジロジロ見てくる。

 目線が遠慮なさすぎて、ちょっと引くレベルだ。


「ふーん……これが“聖人の魂”ねぇ~?」


 目を細めたかと思えば、次の瞬間、ニヤッと口の端を吊り上げる。


「へぇ~、なんか意外。もっとキラッキラのイケメンかと思ってたんだけどなぁ~。……地味~、なんかフツーすぎ~」


 グサッ……!


「うわ、今ちょっと傷ついた顔したでしょ。まじウケる~!」


 くすくす笑いながら、指先でこっちを指しながらケラケラと笑い始めた。


 めっちゃ言うな、この子。


 あまりの遠慮のなさに返す言葉も出なかったが──


「ごしゅじんさまは地味じゃないもんっ☆キラキラしてるもんっ☆」


 横から割って入ったのは、我らが天使だった。


 満面の笑顔(?)でフォローしてくれている……ような気がするが。


 ──いや、それ、フォローになってるのか……?


 妙に場の空気がざわつく中、俺は思わず口を開いた。


「……この子って、誰なんですか?」


 率直な疑問をぶつけると、マモンが少しだけ息をついてから答えた。


「ベルフェゴール──」


「え?」


 思わず食い気味に声が出た。


 あのベルフェゴール?

 七つの大罪の“怠惰”──基本的に動かない、って噂の……?


 それにしては、目の前の子はあまりにも動きすぎじゃないか?


「──の、部下っていうか……仲間っていうか、まあそんな感じのやつだって聞いてる。実質、代理人みたいなもんだな。ベルフェゴール本人は……今も寝てるんじゃないか?」


 マモンの言葉を受けて、当の少女はぴょんっと軽く跳ねるように一歩前へ出た。


「そーゆーことっ。あたし、パイモンっていうのよろしくね?」


 右手をひらひら振りながら、あざとく笑いかけてくる。

 その仕草がいちいち小悪魔的で、なんかもう色々と警戒心が刺激される。


「パ……イモン……?」


 聞き覚えのあるような、ないような名前に、思わずオウム返しになる。


「よ、よろしく……?」


 こちらの戸惑いなんてお構いなしに、パイモンは満面の笑みでにこにこと頷く。


 その様子をじっと見ていた阿須望さんが、ふと小さく首を傾げた。


「……ベルフェゴールに、こんな部下がいたのね。知らなかったわ」


「ま、あの人基本何も言わないからね~。あたしが勝手に名乗ってるだけかもよぉ?」


 ふざけているように聞こえるその口調。

 けれど、冗談かどうかは分からない。


「……まあ、力さえあれば、部下や仲間は“自然と”ついてくるものよ。地獄では特にね」


 阿須望さんがぽつりと呟く。

 その目はどこか遠くを見ていた。


「ただし、裏切りには気をつけないと。そういうのが多い世界だもの」


「そーそー! 隙を見せたらすーぐ刺されちゃうからねぇ? こわいこわい〜」


 パイモンは無邪気に笑いながら、ひとつ指をくるくると回してみせた。


 ──なんだろう。

 この子、軽いノリで喋ってるくせに、妙に話がリアルというか、生々しいんだよな……


「え~? パイモンちゃんってベルフェゴールちゃんとセットなのぉ? ……なんか、意外~☆」


 天使が興味津々といった様子で、空中からくるくると回りながら尋ねる。


「んー? 一緒っていうかー、ほとんどあたしが勝手に付きまとってるだけみたいな?」


 パイモンは悪びれる様子もなく、けろっと言ってのけた。

 それって部下とか仲間ですら無いのでは……?


 いや、マジで勝手に“ベルフェゴールの部下”を名乗ってるだけの可能性、出てきたな。


「あの人、何にもしないけど……力だけはホンモノだからさ? 見てるだけで面白いんだよね〜」


 どこか楽しそうに目を細めるその顔には、憧れとも尊敬とも違う、不思議な感情がにじんでいた。


「ま、あたしは現世に長居するつもりないしっ」


 パイモンがくるりと体を回して、指を店の方へひょいと向ける。


「さっさと焼肉行こーよぉ~? 焼肉焼肉~♪」


 まるで遠足前の小学生みたいなテンションで、足取りも軽く、くるんと身を翻した──その瞬間。


 ミニスカートの裾が、ふわっと。


 ──うおっ。


 俺は慌てて、そっと視線を逸らした。


 いくら相手が悪魔だとしても、それとこれとは別の話だ。

 どう見たって未成年みたいな見た目だし、倫理観的にアウトすぎる。


「……そういえば」


 マモンが、苦笑まじりにぽつりと漏らす。


 そして俺たちに顔を向けて、軽く手を振った。


「今日は私の奢りだからさ。財布の心配はすんなって」


 ……え、マジで?


 マモンが言い終えるのとほぼ同時に、俺はそっとスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツ姿になる。

 匂いがついたら厄介だし、煙の染み込みなんてごめんだ。


 ふと横を見ると、阿須望さんも既にスーツを脱ぎ終えていた。

 さすがに用意がいい。


 そんなわけで、俺たちはそろってシャツ姿で、高級焼肉店の暖簾をくぐった。



─────



 店内に入った瞬間、鼻腔をくすぐる香ばしい煙と、ほんのりとした和の香りが混ざり合う。


 ──うわ、なんかすごい。


 落ち着いた色合いの木材に、緩やかな照明。

 控えめな接客の声が響くだけで、店内は驚くほど静かだった。


 そして案内されたのは、完全に扉で仕切られた個室だった。

 部屋の奥には掘りごたつ式のテーブル。

 すでに炭が用意されており、上品な煙がほんの少し立ち上っている。


 席に着くと、向かい側には阿須望さんとマモンが並んで座り──そして、何の迷いもなくパイモンが俺の隣にすとんと腰を下ろした。


 ──近い。


 本当はあっち側に三人並んでもらえたらよかったのに、テーブルの構造的にそうもいかなかった。

 四人掛けの個室じゃ、こうなるのも仕方がない。


 天使はというと、いつものようにふわふわと宙に浮いていた。

 座らないし、座れない。

 けど一応“俺の側”にはいる。


 隣のパイモンは、小柄な体でちょこんと座っている。

 一見すればただの元気な子供。

 でも、物理的にも精神的にも落ち着かせてくれない。


 空気がじわりと濁るような、心の奥をざわつかせる気配。

 いくら笑っていても、隠しきれない“何か”がある。


 そこで天使が言っていたことが、ふと頭をよぎった。


『“その者に、気を許すな”──だって~っ♪』


 あの天使が調子のいい声でそう伝えてきた、主からの言葉。

 その真意が、今になってやけにリアルに響く。


 ……ちゃんと心に留めておこう。マジで。


 そしてすぐに、テーブルに備え付けられた小さな呼び出しボタンにマモンがさっと手を伸ばす。


 ピンポーン、という控えめな電子音が鳴った数秒後、黒服の店員がすっと現れる。


「ご注文、お伺いします」


 その声に、隣のパイモンがメニューを広げながら「なになに〜? 特選和牛の五種盛り? うわっ、高っ!」と騒ぎ始める。


 横で好き放題言っているのをよそに──


「とりあえず、その五種盛りと、厚切りタンと……あ、こっちの盛り合わせも。あとナムルとキムチも頼もうか。飲み物は──ウーロン茶とビールで」


 マモンが淡々と注文を進めていく。

 慣れた調子で、メニューをほとんど見ないまま流れるように注文を飛ばしていくその姿は、まるで常連か何かのようだった。


「……え、あ、はい」


 店員がややたじろぎながらも、手際よくメモを取っていく。


 ──そして俺はというと、そっとメニューを覗いた瞬間、全身が硬直した。


 ……一品の値段が、俺の昼食三日分くらいする。


 なんだこの店。

 焼肉って、こんな“位”の世界だったっけ……?


 「高級そう」どころじゃない。

 これはもう、次元が違う。


 マモンはいったいどこからそんな財力を得ているんだろう。

 人間の経済システムに混ざってるのか、それとも異次元の力でどうにかしてるのか。


 いや、でも“強欲”の悪魔なんだよな。

 金に関しては、そりゃあ何かと有利な能力でも持ってるんだろう。

 むしろ、持ってないほうがおかしい気がしてきた。


 考え始めるとキリがなさそうだったので、俺は黙って水を一口飲んだ。



 しばらくして、前菜らしきナムルとキムチ、それからいくつかの小鉢が先に運ばれてきた。


 とりあえず箸を伸ばしてみると──


「……うまっ」


 思わず口から出たひと言。


 ナムルはシャキシャキしていて、ごま油の香りがしっかり効いてる。

 キムチも発酵感が強くて、ちゃんと“本物”の味がした。


「んふふっ☆ ごしゅじんさま、美味しそうなお顔~♪」


 天使が、空中から嬉しそうに覗き込んでくる。

 その声を聞き流しつつ、向かいのマモンが、ふっと息をついた。


 いよいよ、話が始まりそうだった。


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