聖なる祈りの代償
最近、妙に蝗を目にする。
道端、公園、ビルの隙間。
意識していないつもりでも、視界のどこかに紛れ込んでいる。
──こんなに見かけるもんか……?
そう思った途端、胸の奥にじわりと不安が滲んでくる。
そんな不安を抱えたまま、仕事を終えて帰宅途中の道を歩いていたその時だった。
「……あの。すみません、少しお時間、よろしいでしょうか」
不意に、背後から声をかけられた。
ピタリと足が止まる。
聞き覚えのない声。
けれど、どこか耳に残る響き。
不自然なほど静かな、乾いた声だった。
そして次の瞬間、俺の脳内に強烈な確信が走る。
──あっ、これ絶対、悪魔のやつだ。
恐る恐る振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
地味なグレーのカーディガンに、黒縁の眼鏡。
ぱっと見は、どこにでもいそうな大人しそうな女子──なのに。
足元に、三匹ほどの蝗がじっと佇んでいた。
ぴくりとも動かず、しかし不気味なまでに彼女の足元にぴたりと寄り添っている。
まるで従っているかのように。
……うわ、なんかもう、そういう感じじゃん。
思わず天使のほうを見る。
ふよふよと浮かんでいたその天使は、いつも通りの調子で言った。
「だいじょぶだよぉ~っ☆ 今のところ、敵意はないみたいだし~♪」
「“今のところ”って言い方やめてくれ……」
小声でぼそっと返しつつも、俺は視線をもう一度少女に向けた。
少女は俺の視線を正面から受け止め、静かに頭を下げた。
「──初めまして。アバドンと申します。悪魔です」
言い回しは丁寧そのもの。
けれど、その内容が物騒すぎて、どうにも頭がついていかない。
アバドン……?
どこかで聞いたことがあるような、ないような──そんな名前。
だが俺が困惑している間に、隣で天使がふよふよっと浮かび上がって声をあげた。
「わぁ~っ☆ アバドンちゃん、ひっさしぶりぃ~っ♪」
「……知り合いなのか?」
思わず尋ねると、天使は翼をぱたぱた揺らしながら嬉しそうに頷いた。
「うんうんっ☆ ちゃんと知ってるよぉ~っ♪ あんまり表には出てこないけど、ちゃんと仕事してる悪魔さんなのぉ~っ☆」
“仕事してる”って何だ。
いや、まあたぶん、そういう役割があるんだろうけど。
「で、なになに~っ☆ アバドンちゃんが現世に来るなんて、珍しいよぉ~っ♪ 何しに来たのぉ~?」
天使の問いに、アバドンは眼鏡を軽く押し上げ、視線をこちらに戻す。
「……はっきり申し上げます」
アバドンは落ち着いた声で、まっすぐこちらを見据えながら言った。
「死んでいただけませんか?」
──ぞくり、と背筋を冷たいものが這い上がる。
一言で、空気が変わった。
蝗がぴくりと脚を動かし、アスファルトの上をじり、とずれたようにすら見えた。
背後で、天使が一歩分、前へふわりと出る。
「えぇ~っ☆ なんでなんで~っ? いきなり物騒すぎない~っ?」
その調子はいつも通りだったが、微妙に声のトーンが低い。
この天使が少しでも“構える”ような態度を取るのは──珍しい。
「……ルシファー様が、反応を示されました」
静かに、けれど確実に冷たさを含んだ声で、た。
そのルシファー、という言葉に、俺の意識が一気に集中する。
「ルシファーって……」
俺は思わず、口の中で繰り返す。
「──悪魔の序列一位の、ルシファー……?」
それは、名前だけなら知っている。
悪魔の中の悪魔。
最上位にして、かつての“堕天者”。
その“トップ”が──俺に反応してる?
心臓が、どくん、と跳ねた。
「えぇ~っ……ルシファーさまが~?」
天使が無数の目をほんの少しだけ見開きながら、珍しく真面目なトーンで呟いた。
アバドンは静かに頷く。
「ええ。あなたもご存知の通り──ルシファー様は、“聖人の魂”に非常に強く反応されます」
天使の方に視線を向けて言ったそれは、まるで、“本能”とでも言わんばかりの口調だった。
「そっかそっかぁ~……うんうん、そうだねぇ~♪」
天使がふわりと漂いながら、納得したように言う。
口調は相変わらず軽いけど、その目だけは、さっきからずっとアバドンを見たままだ。
──ルシファーが、反応する。
それはただの興味ではないのか。
もっと根本的な、なにか“本質”に食い込むような反応。
だとしたら──俺は一体、何に巻き込まれているんだ。
アバドンはまっすぐにこちらを見据えたまま、淡々と続けた。
「……近頃、“聖人の魂”の活性化を確認しました」
その言葉と同時に、足元の蝗の一匹が、ぴょん、と短く跳ねた。
アバドンは視線を少しだけ下に落とし、それをちらと見やる。
「──何か、しましたよね?」
淡々とした口調。
けれど、その一言は、まるで心の内側に鋭く切り込んでくるようだった。
「……まさか」
俺の口から思わず漏れた声は、確信と戸惑いが混ざったような響きだった。
──教会に、行った時の……?
祈った。
主に、天使に、智天使たちに。
そしてその後──
「……それで、反応したってのか」
ぽつりと呟きながら、視線を隣へやる。
天使はというと、まだほんのりと身体全体が淡く光を帯びていた。
目玉がぴくぴくと瞬きながら、何もなかったかのように宙を漂っているけど──あの時の名残が、未だに残っているらしい。
光る天使の身体と、蝗を従える少女──アバドン。
この並び、どう見ても普通じゃない。
「……でも俺、教会で祈っただけなんだけどな……それだけでも、ダメなのか?」
思わずそう漏らすと、アバドンはわずかに目を伏せ、ふぅ……と静かに溜息をついた。
「……それだけ、聖人の魂というものは強力なのです」
眼鏡の奥で瞳が揺れることはない。表情も変わらず、ただ淡々と。
「少しでも“自分が聖人の魂を持っている”という意識を持って祈れば──その祈りは、確実に魂の活性に繋がります」
「……マジか」
心当たりが、ある。
ありすぎる。
確かに、あの時の祈りはただの思いつきなんかじゃなかった。
守ってくれたことへの感謝、智天使たちへの謝罪、色々な気持ちを本気で込めた。
それが、まさか悪魔側にまでバレる“反応”を生むとは。
アバドンは静かに続ける。
「魂の振動は明確な信号になるのです。特に……あの方のような存在には」
“あの方”というのが誰を指しているか──言うまでもない。
「……というか、待てよ」
ふと、ひとつの疑問が浮かぶ。
「ルシファーって、悪魔の序列一位なんだろ? だったらもう、わざわざ聖人の魂なんか取り込まなくても十分強いんじゃ……。なんでそんなに反応するんだ?」
俺の素朴な疑問に、天使がくるりと回転しながら答える。
「ん~っ☆ ルシファーさまってねぇ~、“悪魔”って言っても名前だけでぇ~、本体はもう“装置”みたいなもんなの~っ♪」
「……は?」
意味がわからず、思わず聞き返す。
装置? あの“堕天した最強の存在”が?
「厳密に言えば……」と、そこにアバドンが静かに言葉を継いだ。
「“力の塊”です。意思や目的を持って動いているように見えるかもしれませんが……本質は、“反応するエネルギー体”のようなものです」
まるで、火に油を注げば燃え上がるように。
「聖人の魂は……いわば、燃料です。近くで活性すれば、反応し、燃え上がる。それが“ルシファーの反応”です」
背筋が冷える。
意思があるから動くんじゃない──勝手に動いてしまう存在、か。
「……じゃあ、そのルシファー本人は、どこに?」
「“ルシファー”としての存在は、既にほぼ消失しています」
アバドンは言葉を区切って、淡々と続ける。
「……現在表に立っている“サタン”は、ルシファー様の力を引き継いだ存在ですが──“あの頃”の記憶や意志は、持っていません」
「……じゃあ、“装置”のほうは?」
「それは……ただ、燃え続けています。祈りや魂、希望や絶望。強い感情に触れれば、それに応じて燃える。ただ、それだけの存在です」
どこまでも淡々と語る彼女の口ぶりが、逆に現実味を帯びさせていた。
一位の悪魔が、意思じゃなく、ただの燃焼現象。
信じがたい。
でも、それが“天使や悪魔の世界”のリアルらしい。
しばらく沈黙したあと、俺は口を開いた。
「……それで、“死んでくれ”ってのは、どういう意味なんだよ」
声が少しだけ掠れた。
アバドンは眼鏡を押し上げ、表情ひとつ変えずに言った。
「このまま放置すれば、あなたの魂を起点として──“ルシファー様”が現世に顕現してしまう可能性があります」
ゾクリとする。
その声に込められた“確かさ”に、背筋が自然と強張った。
「……顕現?」
「はい。ごく僅かな反応ではありますが……既に“兆し”は出ています。私がこうしてあなたの前に現れたこと自体が、その証です」
そう言って、アバドンは足元の蝗をちらりと見下ろす。
地面にぴたりと静止したままのそれが、妙に“不穏”に見えた。
「ルシファー様がほんの一部でも顕現すれば、現世だけでなく、天界も地獄も──すべてが崩壊に向かいます」
まるで機械のように、冷静に、淡々と。
「……ええ~……いや、うん、そうなるよねぇ……」
いつも浮かれている天使が、少しだけ声のトーンを落として呟いた。
目玉が一瞬だけ動きを止め、羽もピタリと止まる。
この天使にしては珍しい“間”だった。
「だから、あなたには“天に召されて”いただきたい。まだ“完全に開いていない”今のうちに」
それが最も確実で、最も穏便な“対処”です、と。
アバドンは、まるでそれが当然の選択肢であるかのように、静かにそう言った。
──天に召されてほしい。
その一言の重さに、胸の奥がずしりと沈んだ。
静かに吐き出すように、俺は言った。
「……でも、俺は……死にたくない」
言葉にした途端、自分の中の本音がじわじわと浮かび上がってくる。
「別に、こんな“聖人の魂”なんて、持ちたかったわけじゃない……。誰かに望まれた覚えもないし……」
ぐっと唇を噛む。
「普通に、生きて、働いて、飯食って……たまに面倒ごとはあるけど、それなりに毎日暮らしてきただけなのに……」
なんで、こんなことになってんだよ。
心の中で、誰にともなく問いかけていた。
アバドンはしばし沈黙したあと、ふう、と息を吐くように目を伏せた。
「……今すぐとは言いません。私も、心まで残忍な悪魔に染まったつもりはありませんから」
その口調はあくまで丁寧で、静かだった。
怒りも、焦りも、狂気すらなかった。
ただ、淡々と事実を述べているような冷静さ。
──だけど、だからこそ、重みがある。
その一言を聞いて、ふと心の奥に引っかかったものがあった。
……もしかして、このアバドンって子も、“元は天使”だったのか?
彼女の眼差しの奥には、確かに“完全な悪意”とは違う、どこか人間味というか、葛藤のような色が滲んでいた。
小さく息を吐いたあと、アバドンはぽつりと付け加える。
「……一応、こちらでも“対策”は検討しています。万が一の時に備えて」
それだけ言ってから、彼女は再び眼鏡を指で押し上げ、静かに身を翻した。
蝗たちが足元を囲むようにぴたりとついていき、まるで波紋が静かに引いていくように、アバドンの姿は夕暮れの街へと溶けていった。
……言葉を失った。
コンビニの袋を握ったまま、その場に立ち尽くす。
「……どうしよう、これ」
思わず、口からこぼれ落ちた弱音のような言葉。
すぐ隣で、天使もふよふよ漂いながら小さく翼をはためかせた。
「……ごしゅじんさま、ごめんなさい~っ……」
天使が、申し訳なさそうに環をくるりと回す。
「お祈りするだけで……こんなことになるなんて、思ってなかったよぉ~っ……」
天使がしゅんとしながら、小さく翼を縮こませる。
「……分からなかったのか?」
俺がそう尋ねると、天使はちょっとだけ全ての目を逸らしながら、ぽそっと答えた。
「うん……ちょっとは思ってたよ? 影響あるかも~くらいは……でも、まさか“ルシファーさま”が反応するなんて、想定外だったのぉ~っ……」
どこか情けないようなトーンだった。
「それにね~……ルシファーさまの動きって、アバドンちゃんみたいな“監視担当”の悪魔じゃないと把握できないの~。わたしもぜんぜん気づかなかったもん~っ……」
なるほど。
だからこそ、あのアバドンって悪魔が、わざわざ現れて直接言いに来たのか。
「……じゃあ、主は気づかなかったのか?」
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
天使たちを統括するような存在なら、世界の動きなんて全部見通せるんじゃないのか──そう思っていた。
天使は少しだけ考えるような仕草をしてから、ぽつりと答えた。
「ん~……それはねぇ~、聞いたことあるよ~……。ルシファーさまって、“主さま”と力の性質が近いから~……」
「近い?」
「うんっ☆ 主さまが“見る側”で、ルシファーさまが“見られる側”になるとね~、力がぶつかって“弾かれちゃう”ことがあるんだって~っ☆」
「……マジかよ」
つまり、最上位同士の力が干渉しあって、下手すると見通すことすらできない──そういう“バグ”みたいな存在が、あのルシファーってわけか。
「……じゃあ、なんでルシファーはそんな“力の塊”みたいになってしまったんだよ。昔は普通に意志があったんだろ?」
俺の問いに、天使は少しだけ翼をばたつかせながら、考えるような間を置いた。
「うん~……えっとね~、“主さま”に代わろうとして、反逆した時にね~……なんか、“全部の力”を取り込もうとしたらしいの~っ」
「……全部?」
「そうそうっ☆ “天の理”とか、“創造の力”とか、いろいろと~っ。でも失敗しちゃって~……その時に、ああいう“暴走状態”みたいになっちゃったって聞いたの~っ」
「それ……めっちゃヤバいやつじゃん」
「うんっ☆ だから~、その時の対応、ほんっとうに大変だったんだよぉ~っ……!」
どこか遠い目をして、天使がふよふよと浮きながら呟く。
「それでね~……暴走しちゃったルシファーさまは、“主さま”に封じられて、地獄の奥底に落とされたの~っ。もともとは天使だったけど……そのまま“悪魔”になっちゃった、ってわけ~っ☆」
さらりと語るその内容が、あまりにも重すぎて言葉が出ない。
かつて天界にいた最上位の存在が、力を求めすぎて暴走し、封印され、そして悪魔となった。
そういえば、前にこの天使──“ミカエル”のことを調べた時のことを思い出す。
確か、かつて“ルシファーの反乱”を鎮圧した天使として記述されていた。
だからその時の騒動や経緯について、ある程度は知っているんだろう。
しばらく、沈黙が流れた。
俺はふと、自分の手元に視線を落とす。
握ったままのコンビニ袋が、少しくしゃっと音を立てた。
「……結局、俺にできることってさ……」
ぽつりと、言葉が漏れる。
「“死ね”とか、“天に召されろ”とか言われても……俺は、生きたいだけなんだよ」
それは、どこか情けなくて、でも確かに本音だった。
聖人の魂がどうとか、ルシファーがどうとか──そんなこと、こっちから望んだ覚えなんかない。
けれど、それでも。
「……だったら、せめて──俺は、俺なりに、生き延びるしかないだろ」
誰に言うでもなく、呟くようにそう言った。
すると、隣でふよふよと漂っていた天使が、ぱっと視線をこちらに向ける。
「うんっ☆ そのとおり~っ♪ ごしゅじんさまが生き延びるためなら、わたし、なんでもがんばるからね~っ☆」
翼をぴょんぴょんとはためかせながら、満面の笑顔(?)でそう言った。
──その調子だけは、いつもと変わらない。
それが、少しだけ救いだった。
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